四章 5
兎姫乃は体中にしがみつく悪鬼たちよりもイザナミの目元、というか顔へ意識を取られた。
もぞもぞとうごめく白くテカったつぶつぶが大量にいたのだ。
全身に鳥肌が立ち、震え上がった。
名月の光を反射するおぞましい数の蛆。
それが、黒雲を取り払われたことで驚き、地上へ落ちた。戸建ての家ほどもある蛆は地上を転げ回ったり、隠れ場所を求めて走り回ったりして、東京を破壊する。
イザナミに突きつけられた醜悪の烙印。
そのアンチリアル体だった。
日本の神話を知る人々から、蛆の沸く女神と認識されたがための憐れな姿である。
「あ」
兎姫乃は強烈な既視感に襲われた。
さきほども感じた羽月との類似性。
羽月は、兎姫乃が応援するような文章でなんとか救うことができた。
それはガユガインの機転もあったからだ。
兎姫乃は、まだガユガインの見せた文章へ到達していない。
公園で遠藤を泣かせたような文章をまだ書けていないのだ。
「そうか」
今の今まで誰かを感動させたことがないことに気付く。
兎姫乃は、自分の小説がまだ誰にも影響を及ぼしたことがないことに怖くなった。その程度の力で悪意に怒り狂う女神に挑んでいることが分不相応に思えたのだ。
ガユガインは、雷の筆を駆使して、雷神たちの攻撃を避け回っていた。
兎姫乃にとって景色は残像でしかなく、外の情報は知覚できない。言葉と心だけが、唯一と言える刺激である。
「ガユガインは信じてくれた」
兎姫乃の小説を応援し、信じてくれたのはガユガインだけだった。
「ハッピーエンドを望むからって」
ガユガインの言葉をそのまま喜ぶことはできない。兎姫乃は、後に嗜虐性の裏返しだと気付いたからだ。登場人物を苦しめることから逃げたかったにすぎないのである。
「今、書くべき相手は」
ガユガインの助言にすがるしかなかった。
兎姫乃は自分の小説が信じられない。
自分の理想が信じられない。
それでも小説を書こうとする自分だけは信じられた。
小説を書こうとする嗅覚だけは信じるしかなかった。
「イザナミ!」
雷神に取り憑かれた本人を浄化することが、本来の目的なのだ。
彼女の怒りを鎮め、苦しみを癒やす必要があった。
ハッピーエンドは、誰かを楽しませるものだ。
イザナミを楽しませる結末なんて想像もできなかった。
作家は創造性が豊かだなんて嘘だ。
兎姫乃は、今このときほど結末の見えない物語を書こうとしていることはなかった。
ただ、不思議と書いて行けば結末が見えるという予感がした。
今は、山に隠れ海に沈んで見えないだけである。旅の始まりのような感覚だった。
「悪意に悩むのは、人も神も同じ」
羽月とイザナミが似たような事で悩んでいると見抜いてから、真っ白になっていた兎姫乃の頭にぽつぽつと言葉が戻ってくる。
書ける。
兎姫乃は、ガユガインからもらった八百万の御代筆のレプリカを指先でクルクルと回して、気合いを入れた。
「私なら書ける!」
兎姫乃は、小さいから読んできた本が優しかったり、楽しかったりすることへ疑問を持たなかった。それは世間を知らなかったからだ。SNSを賑わせるのは、言葉の凶器たちである。炎上した相手へ容赦なくぶつけられる言葉は、兎姫乃の触れてこなかった悪い一面ばかりであった。
世間にはつまらない言葉が、ひどい言葉が、人間を歪めてしまう言葉が溢れている。それを嫌う人たちが、言葉を守ろうとして本を書いているのだ。そうあって欲しい。理想である。兎姫乃の中で固まり始めた生まれたばかりの理想であった。
兎姫乃もそうなりたいと強く思ったのだ。
『子供を命がけで産んだ母親を醜く扱う国は、滅ぶべきである。一日に千人では足りな
い。万人、いや億人の息の根を止めることも許される。でも、私ならそんなことはしな
い。もっと簡単な方法がある。子供を殺せばいいのだ。そうすれば国は後を継ぐものが
なくて勝手に滅びる』
物語を作るのに、人間性の良さを最初に出すというテクニックがある。
兎姫乃は、イザナミに対して良い人物というものを見せて感情移入を誘う仕掛けを作った。
イザナミは日本という国を恨むものだ。当然、悪人から入るべきであった。
「兎姫乃、急いでくれ!」
ガユガインが、書き始めた兎姫乃を急かす。
復活した柝雷と火の雷も加わり、攻撃が激化していた。
伏雷と鳴雷の挟撃を避けても、柝雷と火の雷が執拗に追い回してくるのだ。
ガユガインは苦肉の判断で、東京のビルを盾にして柝雷を避けたところだった。
兎姫乃は、ガユガインの要望には応えず、文字を睨むようにして小説へ集中した。
『復讐の達成感は格別だ。憎いと思っていた存在がきれいさっぱりいなくなったのだか
ら爽快であるに決まっている。
だけど、滅ぼした後に何をしたらよいかわからない。元の場所へ戻れば良いのか、別
の場所へ旅立てば良いのか。故郷は滅ぼしてしまった。帰ることはできない。家族は
いなくなり、子孫も絶えた。すべての人間を殺したのだから当然だ。
私は後悔する。私を醜くした人間だけを殺せば良かったと。
後悔して野山を歩き回り、気分を変えようと海で泳いでみても晴れないことに気付い
た。
私の恨みは永遠に晴れないのだ。
私の中に醜い言葉だけが残っている。忘れたいのに恨みを晴らしてしまったから、殺
した人間の数だけ醜い言葉が残っているのだ。この恨みは永遠になくならないと知り、
私は私を滅ぼそうとした。でも、できなかった。私は死ぬために生まれたんじゃない。
それを言えば、私が殺してしまった人間たちも殺されるために生まれたんじゃない。
そうだとして、私だけが醜く扱われるのはなぜなのか。
私は醜く扱われるために生まれたわけではない。
恨まれていたのか。
そんなことはないはずだ。あったとしてももはや確かめるすべはない。殺す前に確か
めておくべきだった。確かめておけば、私は私が醜い理由を知って、ここまで苦しむこ
とはなかったのだ』
兎姫乃の狙いは、復讐を止めることだった。復讐をするなということではなく、復讐をする前に冷静になってもらうのだ。
「と、兎姫乃! まだか!」
兎姫乃が文章から目を離そうとすると、ふいに足が抜けた。とっさのことに雲へしがみつく。雲の浮き輪だ。兎姫乃は、それでなんとか宙に浮いている。
ガユガインの命につながる雲が、細々と千切れては消えていた。
ガユガインは、柝雷に巻き付かれて身動きが取れなくなっており、伏雷と鳴雷に攻撃に晒されていた。
ガユガインのピンチよりも、小説が未完になることが気がかりだった。
兎姫乃は雲の浮き輪にしがみつきながら、御代筆のレプリカを空中に突き立て続ける。頭の中身を出し切らないとおかしくなりそうだった。
『私の生まれた国が滅んだとき、私の恨みを晴らす機会もなくなった。
滅びは、恨みを晴らすことにならない。
私は、殺した人間に会おうと考えた。
会って、私を醜く扱った理由を聞こうと思った。
そこで正当な怒りをぶつけて、恨みを晴らすのだ。
黄泉の国へ行き、殺した人間たちへ会いたいと願い出る。願いは通り、私は殺した人
間たちと会うことになった。
彼らは私を怖れて、話をしてくれなかった。
その中から、前に進み出て頭を垂れるものがいた。
私を醜いと言い始めたものだった。
彼は、ただ不満があったという。私に対する不満だ。とてもくだらない不満だ。
私は、彼と同じ不満があるものはほかにいるかと聞いた。
彼一人だけだった。
私は、彼を問い詰めた。
彼は、私への不満を他人へ言いふらし、仲間を増やしていったというのだ。
つまり、私はたった一人へ向けるべき恨みを国全体へ向けたのだ。
呆れて言葉が出なくなる。くだらない人間のために勘違いをしていたのだ。
くだらない人間に多くの人間が付き合ったのだ。
真実を求めるべきだった。滅ぼすのは早計だった』
兎姫乃は、羽月のときにできなかった相手の心へ踏み込むということをした。どれもこれもイザナミへ刺さる気がしなかった。それでも考えつく限りのものを盛り込んだ。
「と、兎姫乃……」
ガユガインの声が弱々しくなる。
兎姫乃のしがみつく雲の浮き輪も細くなり、今にも消えてしまいそうだった。
それでも兎姫乃は、文章を考えることをやめなかった。
命と小説に優劣ができたのだ。最後の最後まで、兎姫乃すら予想していなかった言葉が飛び出してくる瞬間を待っていた。待ち続けていた。
『私は、悲しくなり泣こうとした。
でも、泣けなかった。
人間を恨みすぎて、涙が枯れてしまったのだ。
私は、私が殺した人たちに囲まれたまま途方に暮れた。
恨みを晴らすことも悲しみで泣くこともできず、私は私を語るべき言葉も失った。
死者に囲まれた醜い私はもとの私に戻ることもできない。
戻りたい。
幼い死者が私に尋ねた。
どうして、僕を殺したの?
私はなにも言えなかった。
誤解だったと弁解すらできず、ただ黙っていた。
どうして、怒っていたの?
幼い死者は、私が怒り狂っていたのを知っていた。
私は、醜いと言われたからと答えた。
かわいそう。
幼い死者の言葉は、自分の不運をよそに私を憐れんだ。
醜いというやつが醜いんだ!
幼い死者は、私のために怒りをあらわにした。
だから殺したのは正しいことだよ。
幼い死者の口から飛び出した言葉に、私は気分が悪くなった。
私は、幼い死者の口を指で押さえて首を振る。
かわいそうと言われ、怒りへ共感してもらい、正しいとまで言ってもらって、それが
間違っているとわかった。
どうして?
幼い死者が私に尋ねる。
私はようやく言葉を見つけたのだ。
私にもあなたのような家族がいてくれたらよかった。
私は一人だったのだ。
私を守るのは私ではない。
私に必要だったのは、家族だった。
愚かな人間のために国を滅ぼすことではない。
作ればいいよ。
幼い死者は、躊躇いもなく私へ言った。
生きてるんだから、作ればいいよ。
幼い命を奪っておきながら、その相手に掛けられる情けが身を引き裂くようだった。
私は、幼い死者を抱きしめずにいられなかった。
熱を失った氷のような体を抱かずにはいられなかった。
死んでるから汚いよ?
幼い死者は言う。
汚いものか。
あなたの言葉は死してなお美しいではないか。
心は清らかではないか。
私は泣いていた。
一日中泣いたあと、私は黄泉の国を去った。
そして、彼らの墓を作った。
美しい言葉と清らかな心があった証を残すために』




