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四章 4

 炎剛の鎧は、柝雷と火の雷に打ちのめされ続けたのに傷一つなく、炎の勢いもまったく衰えていない。


 相変わらずJアラートは東京の空に鳴り響いていた。


 自衛隊の戦闘機は機関銃やミサイルを一発も撃つ気配はなく、空を飛び回っている。


 手出しをされないのはありがたいことだった。



「ん?」



 ガユガインの動きが止まっているのに気付く。


 無理もないのだ。目の前にいるイザナミは、事実上の母親なのだから。


 古事記による誤解。それを知った人間の誤った認識でアンチリアル体に取り憑かれた姿は、見るに堪えないのだろう。


 兎姫乃だって、まったくの知り合いでなかったから羽月と戦えたのだ。


 今もし、再び羽月がアンチリアル体になってしまったら、まともな精神状態でいられる気がしなかった。



「気をしっかりね、ガユガイン」


「ああ」



 兎姫乃の呼びかけに素早い反応があった。


 ガユガインの気力も挫けていない。力強い声だ。


 兎姫乃は眼下に広がる無人の東京が悲しかった。化粧や服装をこぎれいにしたところで追いつかないほどきらびやかな都だったのである。化粧やオシャレに心残りはない。それなのに晴れないものがあった。


 晴れないものは兎姫乃の手に伝わり、八百万の御代筆をクルクルと回す。



「兎姫乃の小説だけが頼りだ」



 兎姫乃ははっとする。


 不安なのは兎姫乃一人だけではないのだ。


 雲の上で聞くガユガインの声に救われていた。支えられていた。


 ガユガインに頼られることで気合いが入る。


 化粧やオシャレをしてきたことに誇りが持てる。


 なんと頼もしい存在になったことかと兎姫乃は兎姫乃に驚いたのだ。


 不安は立ち消え、万年筆を回す手の震えも止まった。


 深呼吸。


 黒い雲に覆われたイザナミ。


 ガユガインと同じものを見ている。


 アンチリアル体に歪められた女神だ。


 ふと、書き換えられたことに苦しみ怒り狂う姿が、羽月に似ていると思った。



「仕掛けてこないな」



 ガユガインがつぶやき、兎姫乃は思考を中断して観察へ切り替える。


 イザナミの纏う黒雲からは定期的に稲光が発していて、雷神の存在を確認できた。



「残っているのは、なに雷だっけ?」


「あの雲を見るに黒雷は健在だろう。鳴雷と伏雷、若雷、それから大雷の五くさだ」


「ふーんって、なんか足下が動いてる?」


「なに?」



 東京に訪れた夜の影が、不気味に動いているのを見逃さなかった。



「あれは」



 ガユガインも兎姫乃に言われて足下を見ると、東京の町並みをぼやかすような薄い膜が張り付いていた。



「雲だ!」



 地面を這うようにして現れた黒雲は、青白い明滅を繰り替す。ガユガインの言葉に反応したかのように閃光が瞬いて襲いかかった。



「ぐああああっ!」



 ガユガインの全身を伏雷が駆け巡る。


 今までにない衝撃で、兎姫乃の立つ雲が大きくうねった。


 これまでの雷神は、炎剛の鎧に弾かれていたのだ。



「ちょっと! 大丈夫なの?」


「ぐぅ、アンチバーチャル体に浸透する攻撃か!」


「地面から離れて!」


「ああ!」



 地面に広がる黒雲から飛び出してきたことは紛れもなく、対処を指示する。


 ガユガインの巨体が地表から離れると雷鳴が頭上から爆撃した。



「なんなの!」



 兎姫乃は耳を塞ぎながら見上げた。


 星空がまだらになっていたのだ。


 土雷を破壊した時にはそうなっていなかった。兎姫乃とガユガインが夜空から目を離した短い間に地面や夜空に黒い雲を這わせて、伏雷と鳴雷を忍ばせていたのである。


 黒雷は手強い相手だった。



「ぐううううっ!」



 両腕を盾にして、降り注ぐ雷の雨をしのぐガユガインが苦悶の声をあげる。


 首都に住んでいて聞いたこともないような轟音だった。


 兎姫乃は耳をつんざく音に背筋を凍らせた後、息を止めて固まる。大不自然のなせる雷の演出に圧倒されて、言葉も文字も消し飛んだ。


 八百万の御代筆を握ったまま、ガユガインが雷に打ちのめされるのを眺め続ける。



「と、兎姫乃!」


「あ」



 ガユガインの声で我に返った。



「筆を使わせてくれ!」


「う、うん」



 兎姫乃の手から御代筆が消える。


 ガユガインが状況を切り抜けるための判断だった。


 御代筆のなくなった空っぽの手を見て、筆を取り上げられたような気分になる。


 小説を書くことを否定されたようにも思えた。


 兎姫乃にとって小説を書くことは唯一のアイデンティティなのだ。


 それがなくなったら何者でもなくなってしまう。


 鈴木兎姫乃ですらなくなってしまう。


 子供の頃から本に親しみ、友達すら作らずに過ごしてきた歴史へ背を向けることになるのだ。


 そうなれば人間の価値は簡単に決まる。


 役立たずだ。


 兎姫乃は兎姫乃なりに人生へ向き合ってきた。その結晶が小説なのだ。


 それを否定されたとき、兎姫乃の人生は否定されたようなものだった。


 兎姫乃は、できることがなにもなくなってしまったことに泣きたくなる。



「鳴る神ぃぃぃ!」



 ガユガインが御代筆を掲げて雷を灯す。


 羽月の悪鬼を祓ったときに使った技だ。


 雷の速さに雷で対抗する気である。


 景色がゆがむ。雷光の速さで伏雷と鳴雷を振り切ってイザナミへ迫った。


 ガユガインが、イザナミの胸元へ雷の槍となった御代筆を突き刺そうとしたとき、イザナミの纏う黒雲から紫色の光が膨らんだ。



「な」



 ガユガインは迂闊に飛び込んだことを後悔する。


 雷神の親玉のことをすっかり忘れていたのだ。


 鳴雷の起こす雷鳴とは違う短くて破裂するような音が響く。


 ガユガインが地面に叩きつけられた。


 ビルや家屋をなぎ倒し、東京へはっきりと傷跡を残す。


 兎姫乃は、ついにやってしまったと不安定になった雲の上で唇を噛んだ。


 ガユガインが焦ったのは、小説を書いて支援できなかったせいであると自分を責めた。



「ぐ」



 ガユガインが体を起こそうとする。


 伏雷が、ガユガインを取り囲む黒い雲の中を明滅しながら迫ってきていた。



「に」



 逃げてと言いそうになり口をつぐむ。


 そんなことを言うためにガユガインといるわけではなかった。


 なんとかしてイザナミを浄化しなければならないのだ。


 そのためには御代筆が必要だった。


 二人で一本を貸し借りしている場合でもなかった。



「そうだ」



 兎姫乃は炎剛の鎧を書いたことに気付く。


 炎剛の鎧が書けるなら、御代筆も作れるはずだった。



「ガユガイン、私にも御代筆を、ううん、御代筆に似たものを書いて!」


「そ、そうだな」



 ガユガインは、兎姫乃の要望から不便さを解消することが先決だと判断する。


 幸いにして鳴る神は消えておらず、ガユガインは襲いかかる伏雷から逃れて東京に蓋をする黒雲のさらに上へと陣取った。



「逃げ回って時間を稼ぐ」



 ガユガインは、御代筆で文字を連ねながら宣言する。情けないが、ゆっくりと文章を考えるのは兎姫乃に任せるしかなかった。



「その間になんか書く」



 兎姫乃は、ガユガインの言葉を情けないとは思っていなかった。事前に合意した役割分担だからだ。兎姫乃がガユガインの代わりに雷神を相手にすることはできない。それぞれがやるべきことをやるのが最善だと思ったのである。



「できたぞ」



 ガユガインの書いた文章は、兎姫乃には読めない。兎姫乃の知る日本語ではなかった。まして英語とか中国語とかハングルでもない。歴史の資料集で見た古代エジプトの象形文字ともメソポタミアの楔文字とも違う。未知の言語なのだ。点でも線でもない。ぐにゃぐにゃと紐が絡んだような文字が微妙に形を変えながら並んでいる。


 兎姫乃はそれを生物の資料集で見た。


 染色された遺伝子が減数分裂する直前の姿に似ていたのである。



「まるで、遺伝子の文字」



 遺伝子文字は、一点に集まると御代筆と全く同じ形になって兎姫乃の手へ一瞬で移動した。


 手の中にある熱く光る御代筆のレプリカの感触は、御代筆そのものだった。



「あると落ち着く」



 手の中にある重さは紛れもない。書くことを任された証だった。



「兎姫乃、あれを見ろ」


「あれ? あっ!」



 ガユガインが御代筆で指し示した空に破壊したはずの土雷が、雲の尾を引きながら東京へ向かっているのが見えた。



「なんで?」


「若雷だ。おそらく柝雷も火の雷も復活しているだろう」


「そんな……」


「書くべき相手を見誤らなければ勝てる。信じているぞ!」



 ガユガインは、そういうと東京へ降下する。上空で鳴雷をかわし、地上から吹き上がる伏雷をも避けて、再びイザナミへ接近した。



「風よ!」



 兎姫乃が黒雷のために書いた文章を展開し、イザナミを隠す黒雲を吹き飛ばす。


 イザナミは棒立ちのまま風に晒された。


 胸元で紫の稲妻を発する悪鬼がしがみついていた。大雷だ。腹部にしがみつく黒い悪鬼が黒雷だとわかる。右手には黄色い柝雷、左には赤い火の雷、右足に伏雷、左肩に鳴雷がそれぞれしがみついている。イザナミの口を塞ぐように白い悪鬼がいた。若雷である。

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