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三章 4

 言霊主が悪寒に震えて首を揺らす。



「今でも思い出す。イザナミから落ちた蛆はこの世で最もマズイ悪意であった」



 黒い雲に覆われた体をしていたのだ。雲の内側には八くさの雷神が、思い思いの稲光を光らせ、雷鳴を轟かせていた。それだけならまだしも、イザナミの通り過ぎた後には、はぐれたウジ虫がふよふよと電脳世界を漂っていた。電脳世界を任された言霊主は、そのアンチリアル体を一匹残らず拾い集めて処分しなければならなかったのである。そのウジ虫の気色の悪さと吐き気をもよおす味わいは、恐れ知らずにも天岩戸に引き籠もってしまいたくなるほどだったのだ。


 言霊主がトラウマになるほど、イザナミはアンチリアル体に苦しんでいた。生まれたばかりの言霊主にはどうにもできず、イザナミを見送るしかなかったのだ。



「イザナミを止めてやってくれ」



 言霊主は、ガユガインへ頭の一つを下げる。


 正気を失ったイザナミを止めなければ、東京の人間だけでなく日本中の人間を殺してしまう可能性があった。イザナミにまとわりつくアンチリアル体とは、一日に千人を殺すという呪いへの怒りである。醜く腐るという悲しみである。どちらも祓わねばイザナミは救われないのだ。



「その前に菊理媛だ」



 ガユガインは、言霊主の深い情けを理解しつつも、優先順位を間違えないようにする。



「そうだったな。菊理媛は、おそらく夜に現れるだろう」


「なぜわかる?」


「夜に出歩くのが好きだと聞いた」



 言霊主が自信ありげに答える。


 常世の世界にも噂話があった。


 神々の治める領域ははっきりと分けられており、天照大神が太陽の出ている時間を、月読尊が月の出ている時間を、そして速素戔嗚尊が海をまかせられていた。それに加えて黄泉の国を黄泉津大神という神が治めている。他にも三輪山を治める大物主や富士山を治める木花咲耶姫などがいた。それぞれに仕える神々があり、その下には神の使いとなるものまでいる。そういう存在が、主たる神に代わって領域を行き来しているので噂話というものができあがるのであった。


 言霊主は、黄泉の国と交流のある神の使いと接触し、その噂を知った。月読尊に仕える神の使いがそう言っていたのである。



「もう夜になる」



 ガユガインは、覚悟を決めて電脳世界を浮上する。



「行くのか?」


「ああ」


「手伝うことはできないが、武運を祈る」


「十分に手伝ってくれた。礼を言う」



 言霊主へ手短に別れを告げて、ガユガインは小さな姿で現世へと飛び出した。


 電線に括り付けられた通信線から出ると、電信柱の天辺までよじ登る。


 変圧器の上にカラスの巣があった。


 巣立ちを見送った母ガラスが、くちばしを開けて抗議の声を上げる。



「失礼」



 ガユガインは神の使いであるカラスに非礼を詫びながらも電柱を登りきり、避難が進んで見る影もなくなった東京を眺めた。


 まだいくつかのビルには明かりがあり、残ることを余儀なくされた人たちがいるのがわかる。これから起きる戦いに巻き込まれないことを祈るしかなかった。


 東京の至る所で自衛隊による避難活動が続けられており、所々に工事用の照明が立てられている。



「来た」



 ガユガインがいるのは、兎姫乃の家の近くにある電信柱だ。そこから南側に菊理媛と思われる存在が現れた。


 血染めの袴に黒い袿という出で立ちで、気を抜くと夜に溶け込んで見失ってしまいそうである。右手に持った袙扇で顔の下半分を隠していた。


 ガユガインや言霊主と同じく角張ったポリゴンとして現世に現れたのだ。大きさは高層ビルの半分ほどである。


 その影響を受けて悲惨になっているのが長い黒髪だった。もはや一つの塊として扱われており、黒いナマコでも被っているようである。


 菊理媛が現れたことで、東京にJアラートが鳴り響く。


 避難誘導に掛かりきりだった自衛隊の車両が慌ただしく動き始めた。


 車で移動できる人たちは移動し、無線で連絡を取り合う自衛官に従いながら徒歩で移動する集団もあった。


 なにがなんでも避難させる気概を見せている。


 菊理媛は、ゆっくりと東京を眺めた後、明かりのないビルを左手でついと押した。


 気安く誰かの背中でも押すかのような勢いである。


 ビルは押された部分がえぐられ、自重で折れて菊理媛へ向かって倒れる。


 菊理媛は慌てることなく倒壊するビルからひらりと逃げて、崩れたビルをつまらなさそうに眺めた。



「いたずらに破壊するとは、放ってはおけないな」



 ガユガインは自らを鼓舞して巨大化して、菊理媛へ八百万の御代筆を突きつけた。



「都を壊すのはやめろ!」



 ガユガインが告げると、菊理媛がゆっくりと振り返る。


 黄泉の国で主たる神の次に名があがる実力者。その双眸は鋭利で何もかもを見透かすようだった。



「ああ、いましたか」



 扇の裏から小馬鹿にするような声がする。



「人間の世界にはいろんなゴミがあるそうです」


「なんの話だ?」


「燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミなどなど。面白いと思いますが、ゴミなどすべて燃やしてしまえばいいと思うのです」



 ガユガインは、菊理媛から放たれる薄ら寒い気配に身構える。



「だって、ゴミはゴミなんですから!」



 袖にしまった左手が青い鬼火を取り出してガユガインへ放った。


 鬼火は、両腕が異常に発達した悪鬼のような姿になりガユガインを殴りつける。


 御代筆で受けるのは嫌だったので、右腕ごとかばって左腕の籠手で受け止めた。



「なに!」



 左腕の籠手がたちまちに燃え上がり、赤熱する。



「そうそう。あなたの鎧は、よく燃えるそうですね?」



 またもや小馬鹿にする声で菊理媛が喋る。ガユガインの装備を調べ尽くしたと言わんばかりであった。



「狙いは鎧か」


「燃やし尽くしたら、あなたも消えるでしょ?」



 ガユガインの運命が鎧とともにあることを見抜かれていた。


 左腕の籠手は、燃え上がり白い灰となって崩れ去る。六角柱の白い腕が、肉をそぎ落とされた骨のようにあらわになった。



「あと少しの時間で終わりますから」


「おとなしくやられるつもりはない!」



 ガユガインは御代筆を構えて文字を書き連ねる。



「その筆の出所はわかりませんでした。奇妙な道具ですね」



 ガユガインの執筆を邪魔するように菊理媛は鬼火を飛ばした。



「火筆釘星!」



 ガユガインも負けじと赤い炎の釘を打つ。


 青い鬼火は赤い釘に打たれて消滅した。



「足掻きますか。いいでしょう」



 菊理媛が扇を畳んで口元をあらわにする。


 ニコリともしていなかった。


 冷め切った顔でガユガインを見ていたのだ。



「黄泉の国の軍勢はさすがに連れてこれませんでした。なので、こちらでお許しを」



 畳んだ扇を左の掌にぱんと打ち付ける。


 鬼火が群れをなして現れた。



「潔く燃えるのもまた男子の勤めですよ?」



 表情をピクリともさせずに号令を掛ける。


 鬼火の群れがガユガインへ殺到した。



「兎姫乃、文章を借りるぞ!」



 ガユガインは御代筆に記録された羽月を救うための文章を展開し、叫んだ。



「うおおおおおお!」



 御代筆に雷が宿る。身につける鎧が赤熱し、東京を赤く照らした。



「はぁっ!」



 稲光の速さで鬼火の群れを避け、菊理媛へ肉迫。



「疾筆迅雷!」



 筆先に乗せた雷が菊理媛へ突き刺さる。



「なんと!」



 雷の速さに驚き、菊理媛はとっさに袖で顔を覆った。


 雷の衝突で袖が黒く焦げる。


 それを見て、ガユガインは勝ち筋を思いついた。



「この鎧を燃やしたければ燃やすがいい!」



 小袖に筆を止められたガユガインは、間合いを取らずに大の字に体を開く。


 完全な無防備だった。



「いわれずとも……っ!」



 ガユガインへ言い返そうとした菊理媛は、言葉を失う。


 ガユガインの赤熱した鎧が次々に外れて、菊理媛へ炎の波となって押し寄せたのだ。


 ガユガインの罪から生まれた炎たちは、菊理媛の衣という衣を道連れにした。



「あ! ああ! なんというっ……!」



 火を点けられた衣を守ろうと菊理媛が袖を振ったり、袴を叩いたりするものの火の勢いは衰えず、ついには菊理媛を幾何学的な裸体へと変えてしまった。



「おのれっ!」



 ガユガインもまた鎧のない貧相な姿だった。罪を燃やし尽くしたため、白い素体で筆を構える。その顔へ不敵な笑みを浮かべた。



「黄泉の国の才媛ともあろう方がなんという姿だ。これでは黄泉津大神も情けないことだろう」


「言うに事欠いて、大神の名を出すか!」


 菊理媛は、焦げ付いた扇の先に鬼火を灯して、気炎を上げる。


 ただ、その炎をぶつける場所がないことでどうしたらよいかわからず、扇と鬼火をわななかせた。



「い、いや、当初の目的は果たした。お前が消えるのも時間の問題だ」



 無理矢理にでも自分を納得させて、菊理媛はガユガインを一睨みする。

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