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一章 1

 最新話を更新して一時間が経ち、ページビューが二桁もいかない。


 インターネット上で小説を投稿できるサイト、『小説家になろうよ』の作品ページを見ていた鈴木兎姫乃は、右端の上にあるバッテンマークをクリックしてブラウザを閉じた。



「なにがいけないんだ?」



 ブルーレイカットの眼鏡を外して、眼精疲労でぴくつく目頭を押さえる。


 数学の課題そっちのけで書いていた最新の小説がまったく読まれないのだ。


 誤字脱字は丁寧に見直して、文法の間違いもない。自分で読んでも世界に類のないたった一つだけのオリジナリティあふれる内容になっている。



「うーん、散歩に行こう」



 ノートパソコンをスリープ状態にして立ち上がり、伸びをした。


 フード付きのパーカーにデニムのパンツという普段着で家を出る。


 夏の湿度と秋の涼しさが混ざり合う、少し肌寒く感じる夕方だった。夕方になったせいか、風が強い。美容院で切りそろえたばかりのショートボブは執筆中にかきむしったせいで崩れており、風で揺れた。


 脚は自然と近所の公園へと向かう。気分転換でお決まりの場所だった。


 兎姫乃は帰宅部で、帰ってからパソコンにかじりついて小説を仕上げていたのだ。中学の時には文芸部に所属していたものの、先輩からラブレターのような小説を読まされて、小説を群れの中で書くということができなくなってしまったのである。小学生のころから友達よりも読書を選ぶ性格だったため、一人きりで活動することに抵抗はなかったが、悩みへぶつかったときに相談できないのは不便に感じるこの頃である。


 兎姫乃は、L字の集合住宅に囲まれた公園に到着する。日の沈む時間が早まったこの時期は、母親の声を無視する根性のある子供だけが居残ってしぶとく遊んでいた。


 兎姫乃は冷たい石のベンチへ腰を下ろし、なんとなしに秋の空を見上げる。


 薄雲が夕日を受けて金色になりかけていた。



「んん?」



 ベンチの裏には生け垣代わりの植え込みがあり、そこから一匹の野良猫が声を掛けてきた。



「どうした? エサでも探しに来たか?」



 兎姫乃が返事をしたことで、首輪のない三毛猫が脚へすり寄った。


 とっさに三毛ランジェロと命名する。



「やめろ三毛ランジェロ。私はエサをもってない」



 人間の言葉を理解できるはずもない野良は、ただひたすら額をデニムパンツへこすりつける。その身体はほっそりとしており、今にも倒れそうなほど弱々しい。


 言葉はなくとも空腹であるとすぐにわかった。


 彼女は、人間にしてみれば物乞いかホームレスだった。持ち前の野生で鼠でも捕ればいいのにと思うものの、それができない事情でもあるのだろうと考えた。



「かといって保健所はなー」



 兎姫乃も利用するソーシャルネットワークサービスには、殺処分されそうな保護動物の引き取りを訴える画像やメッセージが流れてくる。


 人間の街で、野生のままに暮らすことすら許されない犬や猫の姿を見ると、人間の傲慢さへ嫌気がさしてくるのだ。


 そして、そんな嫌な人間の一人であることを思い知らされたようで、兎姫乃は自己嫌悪に陥った。


 高校生にもなって、まだ命を救えるような存在でないことが歯がゆいのである。


 兎姫乃の小説には動物がたくさん出てくる。


 救われなかった動物たちが救われる話だ。


 インターネットでは、動物や子供を出して涙を誘うのは卑怯だなどと言われるが、兎姫乃には理解できなかった。動物を書きたいのだ。愛でたいのだ。幸せにしたいのだ。現実が残酷ならばなおのこと、兎姫乃は小説を幸せで満たしたかったのである。


 兎姫乃が猫の頭突きを受け続けていると、公園に一人の男性が入ってきた。ネクタイを外したスーツ姿の中年で、不機嫌そうな顔をしている。しばらく公園を眺めたあと、隣のベンチへ座った。


 そのおじさんから逃げるように最後の親子が公園から出て行く。


 兎姫乃とおじさんは、公園で二人きりになった。


 彼は、遠藤浩平(えんどうこうへい)といい集合住宅に住んでいる。特に親しく付き合う人間もなく、彼を知る住人たちは、彼を見ると避けるようにいなくなった。


 兎姫乃は異様な雰囲気を感じ取る。


 集合住宅にはたくさんの人が住んでいるはずなのに、このときだけは誰もいない廃墟に見えたのだ。


 夏の終わりを告げる冷たい風が兎姫乃の首筋を撫でる。鳥肌が立ち、今すぐにこの場を去らなければならない気がした。



「ごめんね。もう帰るから」



 兎姫乃は、足にまとわりつく野良猫を蹴飛ばさないようにベンチから立ち上がる。見ず知らずのおじさんから発せられる得体の知れないオーラが、兎姫乃をせき立てるようだった。



「おい」



 兎姫乃がベンチから立ち上がってすぐ、遠藤が声を掛けてくる。


 スーツはまやかしだったのかと疑うほどに、兎姫乃は遠藤を警戒すべき対象として認識した。明らかに敵意のようなものを感じたのだ。



「その猫はあんたの猫か?」


「違います」


「ずいぶんなついてるな?」


「違います」



 遠藤は、ふんと鼻を鳴らして夕暮れに立つ兎姫乃とその足下をうろつく猫を交互に眺めた。



「もう帰りますから」


「もしかしてエサをやったな?」



 とんだ言いがかりを付けられたものだと兎姫乃は思った。



「あげてません」


「なら、なんでそんなになついている?」


「知りません」


「この公園の看板には、野良猫にエサをやるなと書いてあるんだ」



 兎姫乃は看板など見たことがなく、遠藤の言っていることが本当であるかもわからないでいた。ただ、この厄介なおっさんから離れたい一心で答えた。



「知りません」


「知らないでは済まないんだよ!」



 遠藤が声を荒らげる。


 集合住宅に反響するほどで、公園の木から一羽の烏が飛び立った。


 遠藤は、規則の守り手なのだ。集合住宅で決まった規則を守らない家族は出て行くまで注意するし、公園の扱い方を知らない子供の家庭には一歩も踏み込ませなかった。規則を守らない人間を排除した結果、静かな環境が保たれている。遠藤の誇りであった。


 兎姫乃は知りもしないルールを破ってもいない。怒鳴られる筋合いはないと感じつつ、真正面からやり合うのは時間の無駄であるという心理もあって、そうそうに切り上げようと謝ることを選択する。



「そうだったんですね。知りませんでした。すみません」


「すみませんで済んだら警察はいらないんだよ!」



 遠藤は勝利を確信していた。謝らせたら、後は自分の非を嫌というほど認めさせることで二度とルールを破らなくなるからだ。



「は?」



 兎姫乃は兎姫乃で古くさいテンプレートが大嫌いだった。あまりにも横暴な物言いに不機嫌な声を抑えられなかったのである。加えて、野良猫にも兎姫乃にも明確な非がない。我慢の限界だった。



「ルールを破ったのだから二度とこの公園を使わないでほしいね。ここは君だけの場所ではないんだ」



 兎姫乃の不機嫌を無視して、遠藤は語り続ける。


 公園に烏が戻って来たところだった。



「おかしくないですか? ルールを知らなかったことを謝ったのに、それだけで使うなって誰が決めたんですか?」


「だから言っただろ! すみませんで済んだら警察はいらないと!」


「すみませんで済まなかったら裁判所もいらないんですよ! そんなこともわかりませんか!」


「な」



 女子高生に反論されるとは思っていなかった遠藤は、二の句を考え始めた。いつもなら押し切れるパターンだったのに兎姫乃の憤然たる反論で狂ってしまったのだ。



「軽微な犯罪なら罰金。重罪なら禁固刑。それが済んだら人生やり直しって決まってるのを知らないとは言わせません! あなたが言ってるのは、罪の重さに関係なく死刑と言ってるのと同じなんです! 人命と人権を軽んじる独裁者と一緒なんですよ!」



 女子高生に独裁者呼ばわりされて、遠藤も黙っていられなかった。



「子供のくせに大人の言うことが聞けないのか!」


「大人が正しかったら世の中はもっとマシになりますよね? 少しは謙虚に生きた方が良いですよ?」



 苦し紛れの絶叫を聞き、兎姫乃はこの議論の不毛さを思い知る。


 遠藤はただ正義を振りかざしたいだけなのだ。人間のルーズさに対応できない人間なのだ。だから公園に入ってきたときに誰からも挨拶されず、黙って距離を置かれるのだと、人間観察の結果をまとめた。


 小説を書き始めてから、兎姫乃は人物の行く末を推理するのが趣味だった。


 あまり褒められたものではないと自覚もある。



「生意気だぞ!」


「生意気の使い方が間違ってます。片仮名だらけの官僚や政治家に使う言葉ですよ?」


「このっ!」



 遠藤のはらわたが煮えくり返っているのが手に取るようにわかった。


 拳を握りしめて表情筋をグニャグニャと歪めているのだ。


 兎姫乃が、潮時を見誤ったと悟るのに時間は掛からなかった。



「いい加減にしろ! 追い出してやる!」



 遠藤は、自分が論破されるなどとは思ってもおらず、認めるわけにもいかなかった。


 汚点を帳消しにするため、実力行使もいとわず兎姫乃を公園から追い出すことにした。



「ほら出て行け!」



 遠藤が拳を振り上げ、あからさまな威嚇を示す。


 無言で振り下ろさないだけ、まだ良心があるのだと兎姫乃は思った。

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