三章 2
動画の再生数は、過去最高となりそうな勢いで伸びており、評価するボタンも凄まじい勢いで更新されていた。兎姫乃もそれを一度だけクリックしてブラウザを閉じ、パソコンをシャットダウンする。
「脅威だって」
無許可の戦力は、国民に信用もされないのだ。
兎姫乃は、小説を書いただけである。ガユガインに促されるままに。黄泉醜女も高橋羽月も、浄化に成功している。それだけに感謝されるだろうと甘く考えていた。
とはいえ収穫もあった。
ガユガインの予測した不吉な未来は外れるようだった。
二人の友人が自衛隊によって避難するのであれば、兎姫乃も心置きなく父親について行けるというものである。ガユガインの脅迫へ屈しなくてすんだのだ。
「でも」
動画の中でコメンテーターが言っていた。
東京が焼け野原か、廃墟になると。
そもそもアンチバーチャル体やアンチリアル体が東京に現れる理由を知らない。ガユガインを追って来ているというが、どこまで信じて良いか兎姫乃にはわからないのだ。
知りたいという気持ちが三割ほどあるが、それよりも家族で安心できる場所へ行くことが残りを占めていた。
「東京に戻って来れないのかな……」
感傷に誘われて窓を見る。兎姫乃にとっての東京がそこにあった。
兎姫乃は生まれも育ちも東京だった。その東京に二度と戻れなくなることや跡形もなく破壊されることが想像できない。想像を拒絶しているのである。見たくないものをわざわざ考えることはない。兎姫乃の想像力は、見たいもの、感じたいもののためにあった。恐ろしいことから逃れて精神に安定をもたらすためである。
頭に浮かんだのは、取り残されるであろう公園で出会った野良猫だった。
「三毛ランジェロはどうなる?」
その疑問は、兎姫乃に悲しい物語を創造させた。
「あ、ダメ」
思わず呟いてみたものの、創造は勢いよく翼を広げて飛び立ったのである。
兎姫乃は近所の公園にいた。
情感を煽るために焼け野原の公園だ。建物という建物に機銃で穴が開き、ミサイルで焼き払われた東京である。学校の授業かなにかで見た終戦直後の模倣だった。
公園にあった折れた大木は真っ黒に焦げている。焦げていなければならない。東京を焼き尽くした炎の凄まじさを描写しているのだ。公園を囲んでいた植え込みも灰になっていて、野良猫の運命を暗示した。
兎姫乃は公園を歩き回り、瓦礫の下で蒸し焼きになった野良猫を見つける。
猫は生きた。必死に逃げ回り、最後に瓦礫の下に逃げ込んだ。それなのに容赦のない炎で命を落としたのである。野良猫の運命を勝手にねつ造もする。いつも空腹でろくに食べていないし、安らぎをえられる場所もない。人間には何一つ幸せに思えない一生を瓦礫の下で終える。そういうエピソードにした。
兎姫乃は、自分で考えた悲しい結末へ静かに涙をこぼした。
「はぁ、バカすぎる」
涙を拭って、身近な存在を失う物語を勝手に作って、勝手に悲しむ傲慢さに呆れるほかない。
「結局、これが私なのか」
もっとも辛い悲劇。身近な物を失う宿命。そういう方向へ妄想が働くのだ。それが兎姫乃だった。不幸を求める妄想癖を乗り越えたくてハッピーエンドに執着しているのだ。小説を書いているのだ。もともとは湿っぽい話ばかり考えてしまう作家性だった。
シャットダウンしたパソコンを畳み、電源のコードを引き抜いて一房にまとめ、リュックサックへと入れる。ジッパーを閉めて背負うと、通学用の鞄も持つ。鞄にはすべての教科書が入っていた。どちらもずっしりとしていて肩が軋む。
「肩が重いのに」
心が軽い。
両親や友人を天秤に掛けていたときの重苦しさが消えていたのだ。
「これがカタルシスか」
人間は涙を流すことで精神をリセットする作用がある。
笑いにも同じ効果があった。
兎姫乃は、泣くカタルシスよりも笑うカタルシスを実現したいのだ。
ガユガインの掛けたプレッシャーは完全に消えた。清々しい気分で部屋を出る。
階下で待っていた伸哉と友喜が安心したように微笑んだ。
その心から嬉しそうな微笑みを兎姫乃は忘れることがないだろうと思った。
車は乗り捨てていたので、一家で荷物を抱えながら駅まで歩く。
夜逃げをしているような気分で新鮮だった。
東京の空をマスメディアのヘリコプターが飛んでいく。空からカメラを構えて、戒厳令の敷かれた姿を記録していた。
戒厳令で静かになった空をローターの音が無駄に騒がしくする。
普段なら気にならないような音であるのに苛つかせた。緊張感とストレスで精神がささくれ立っているのだ。
兎姫乃の両親は、そんなことなど気にせず黙々と駅まで歩いた。
同じ経験をした家族なのに、反応が違うのは少し寂しいと感じる。
駅へ着くと、新宿まで電車に揺られた。
兎姫乃たちと同じく東京からの脱出を図ろうとする家族が何組もいる。
どの家族の顔も冴えない顔をしていた。
寝不足と不安の表情である。
新宿へ着き、伸哉が新幹線の予約席を三人分取ってあったので、苦もなく三人掛けの座席へ一家で座ることができた。
兎姫乃は窓側の席をもらう。
向かうのは山梨県の石和という駅だった。そこに温泉があるのだ。
新幹線が時刻通りに走り出すときに、ホームへいる職員と目が遭った。
できることなら、この車両に乗りたそうな顔で敬礼をしている。
兎姫乃たちが東京を脱出できたのは間違いなく彼らの犠牲があってこそだった。彼らも逃げるべき人間なのに、職業上の理由で取り残されている。
兎姫乃は、そのホームに取り残される真面目で責任のある人から目をそらした。
見ていられなかったのだ。
兎姫乃が窓の外から顔を戻すと、廊下側に座る伸哉が口を開いた。
「兎姫乃」
「ん、なに?」
「昨日の夜は、どうやって家に帰ったんだ?」
「え?」
「お父さん達とはぐれただろ? 大丈夫だったか?」
「う、うん。なんとか帰れた」
「そうか」
伸哉が車で走った道は、普段は使わないようなルートだった。家からどのようにそこへ行ったのかわからない。途中で道を尋ねられる人はいなかったし、真っ暗で目印になりそうな建物を見つけることもできなかった。
兎姫乃は、家に帰れるはずがなかったのだ。
「それにしてもすごい迫力だったな。あれはどういうロボットなんだろうな?」
伸哉の言葉が少し子供っぽく聞こえて、兎姫乃はなんとなしに顔を見た。
「お父さんは気になるの?」
「そりゃそうだ。男の子だった頃は、ロボットとか当たり前だと思ってたからな」
「へー」
ふと、ガユガインとの会話も聞かれていたのではないかと不安になる。テレビでもネットのニュースでもロボットの発言が取り上げられたところ見たことがなかった。幸いにして、ガユガインと兎姫乃の会話は秘密にされていたのだ。
「いったい誰が乗って、怪物と戦っているんだろう」
「え、わからないけど」
そう言いながらも兎姫乃は、正体を見られているようで怖くなる。
伸哉の目は、明らかに疑いを持っていた。
なにを咎められるのか想像もできない。ロボットに乗ったことか。戦ったことか。一緒に逃げなかったことか。一人で家に帰ったと嘘を吐いたことか。そもそも隠し事をしていることか。
思い当たる節は次々と浮かび、小説を書く身でありながら先の展開をまったく察することができないのである。未知の物語が広がっている恐怖に、兎姫乃は言葉を失った。
「なんにせよ、兎姫乃が無事で良かった」
伸哉が表情を崩して、改めて兎姫乃を心配していたのだと気付く。
「う、うん。心配を掛けてごめんなさい」
「いいさ。あのとき、兎姫乃を失っていたら父さんは間違いなく後悔した。どうして人波になんて負けてしまったのかと、一生後悔するところだったんだ」
懺悔するように言うと、伸哉は目をつむり身体をシートへ沈めた。
「疲れてるみたい」
友喜が、兎姫乃へ囁く。
普段とは違う一面を見せた伸哉を弁護した。
「私も疲れた」
「そう。少し休んだら?」
「うん」
友喜に促されて兎姫乃は石和へ着くまでぐっすりと眠って過ごした。
夢は見なかった。
たまに夢が現実味を帯びることがある。試験の当日に遅刻する夢だ。試験に遅刻して最悪の成績を取ったところで目が覚めるのだ。遅刻とはほど遠い時間に目を覚まして胸をなで下ろす。悪夢による失敗の回避だ。
兎姫乃は、悪夢を見なかったことを喜べなかたった。悪夢を見るべき状況だったのだ。悪夢で済むならその方が何倍もよかった。
石和駅からタクシーへ乗り、父親の予約したホテルへ到着した。
「着いた。ここは二十四時間入れる温泉があるらしい。それに全館でインターネットも使える。ゆっくり休みつつ、東京のことも調べられるぞ」
伸哉の独断で決められた温泉旅館は、三階建ての落ち着いた造りをしていて静かにすごせそうな気になる。
チェックインを済ませて部屋に荷物を置くと、伸哉と友喜はさっそく温泉へと浸かりに行った。すっかり旅行気分である。
大人三人用の和室で、障子が外の明かりを反射して白く輝いている。木の座椅子に座りながら、サッシから覗く甲府盆地の風景に一息ついた。高層ビルがない。山が見える。東京生まれの東京育ちには不思議な感覚だった。
山より高いビルを見て育ってきたのに、実際の山を見ると漢字のイメージとぴったり合うことが不思議に思えた。尖った自然の造形が面白いのだ。