二章 7
「どうして神の国とつながってるの?」
「一年ほど前、常世と現世をつなげた者がいる。私はそれを追っているのだ」
羽月の素朴な疑問にガユガインが事もなげに答える。
兎姫乃は初耳だった。追っている人物がいることは知っていたが、それが常世と現世をつなげたなんて聞いていなかったのである。隠し事をされていたわけではないが、面白くはなかった。
「助けてくれありがとう。どっちみちわたしはまともな状態じゃなかったんだ」
羽月は、組んでいた腕を放すと、ベッドへ正座して兎姫乃へ深く頭を下げる。
「そんな改まらなくても!」
「命の恩人なんだから、これじゃ足りないくらい」
兎姫乃が遠慮しようとしても羽月が譲らない。この数分でお馴染みのやり取りだった。
「でも、わからないことがある。どうしてわたしを助けてくれたの?」
「それは」
最も難しい質問だった。
兎姫乃は、ガユガインに土下座されて助けたのだ。自主性などなく惰性で動いたのである。お礼を言われるような筋合いがなかった。
道義にもとる態度が羽月からの礼を受け取りにくくさせる。ならばいっそのこと、すべてを打ち明けてしまおうと兎姫乃は判断した。
「私は、知らないフリをしようとした。あなたを助けようなんてこれっぽっちも考えていなかった。あなたを助けようとしたのは、そこにいるガユガインよ。私は彼に説得されてあなたを助けたに過ぎない」
兎姫乃は真実でない自分を記憶されるのを避けた。臆病で無関心な人間であると知って欲しかったのだ。知られたところで結果は変わらないが、誤解によって正義だの人助けだのに駆り出されるのを断るためである。
「そっか。でもさ、わたしを見捨てなかったよね?」
羽月はショックを受けた様子もなく、穏やかに聞き返した。
「それは、そうだけど」
「なら、お礼を言うのは間違ってないし、あなたの名前を訊くのも不思議じゃない」
「え、名前?」
「そう。命の恩人の名前。できれば友達になりたいかも」
羽月は上目づかいで兎姫乃を見つめ、兎姫乃の左手を両手で包んだ。しっとりとした肌が、同じ人間かと思うほどきめ細やかである。
「う」
美人にしおらしくされると、同性といえども揺り動かされるものがあり、兎姫乃は返答に詰まった。
「ね、いいよね?」
「わ、わかったから。手を離して」
「ごめん。嫌だった?」
「嫌ってわけじゃないけど」
ずっと手を繋いでいると妙な気分になりそうで、兎姫乃は冷静になりたかった。
「私の名前はさっきガユガインが言っちゃったけど、鈴木兎姫乃。実は、あなたと同じ高校に通ってる」
「え、そうなの? 学年とクラスは?」
「二年D組」
「あ、そうなんだ! わたしは二年B組!」
兎姫乃の言葉に羽月の顔は恐ろしい速さで明るさを取り戻していく。あまり良い兆候ではなかった。兎姫乃には、それが依存の兆しに見えてしまうのだ。苦痛に麻痺し、生きる喜びだけで気力を保つのである。健全ではなかった。
「それで友達のことだけど」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、本当に友達はいないの?」
美人で人当たりもいいから、友達がいないという言葉を信じられないでいた。
「いないよ。こんな風に弱ってるところを見せられる友達は。わたしがなんでも持ってると思って、それを遠慮もせずに持っていこうとする人ばかりでうんざりしてた」
見た目が良いと言うだけで男子との繋がりは多いし、働いているからおこづかいしかもらっていない高校生よりも自由にできるお金はあった。仕事で得た知識もエサになる。
羽月はもっと成長したいのに、せっかく蓄えた人脈も情報も資金も友達のフリをしたダニに吸い取られていた。すぐ疑心暗鬼になり友達を作らなくなったのである。もっとも許せないことに、羽月から散々に吸い取った連中は、炎上騒ぎの中で助けの手を差し伸べなかったのだ。羽月が本当の友人を欲するのは当然のことだった。
「自分で言うのもあれだけど、私なんかを友達にしても良いことなんてないよ?」
「そういうのはいいから。わたしが困ったときに話を聞いてくれるだけでいいの」
「まぁ、それくらいなら」
「よかった。じゃあ、連絡できるようにしよ」
「いいよ」
スマートフォンの画面を見せ合い、お互いの番号やIDを交換する。
そのあとすぐに会話がなくなった。
友達というのは、連絡手段を交換した達成感で興味を失うものである。
兎姫乃は、沈黙の原因をそんなふうに考えていた。
羽月は浄化されたのだろうか。浄化すれば、二度と悪鬼に負けなくなるのだろうか。
正解を求めてガユガインを見やるが、ガユガインはテーブルの上から羽月を眺めるだけでなにも反応を示さない。それだけで納得のいく状態ではないのだと気付いた。
「少し聞いても良いだろうか?」
沈黙をチャンスと見たガユガインが口を開く。
兎姫乃は嫌な予感しかしなかった。
「高橋羽月、君はなぜ両親から離れて暮らしているのだ?」
羽月は、表情を強ばらせてガユガインの無機質な目を憎々しげに見つめ返す。
プライベートな質問にいきなり踏み込むデリカシーのなさに覚えがあったのだ。
羽月が積み上げてきたものを奪い去るダニ。
それに似ていた。
兎姫乃は、それが浄化に関わることだと想像できたので、黙って成り行きを見守った。
「それを聞いてどうするの?」
「君の心の弱さはそこにある」
ガユガインがずばりと言う。
二人のやり取りを間近で見ていた兎姫乃は、思わず息を止めた。
「あんたに何がわかるの?」
「君へ最初に文句付けてきたのは、教育熱心な母親だそうだな」
「それがなに?」
「君の母親もそうだったのではないか?」
羽月が歯を食いしばり、ガユガインを今にも殴りだしそうに拳を振るわせた。
ガユガインは黙って待つ。高橋羽月という少女が抱える、悪鬼につけ込まれた影を兎姫乃へ見せようと考えていた。心の闇は、一人では背負いきれないほど重いが、友人が知っているだけで恐ろしく軽くなるのだ。誰かに真の姿、真の苦悩を認められるだけでも心は軽くなる。罪穢れを祓う極意であった。
羽月は、ガユガインに突かれたくない場所を突き刺されて言葉がない。
羽月が必要以上に、その母親へ反論したのは、ガユガインの言うとおりであった。
似ていたからなのだ。
羽月の母は、モデルという仕事へ勝手に就職してしまったことを許していなかった。
父親は寛容で、母をなだめて羽月の就職を応援してくれたのだ。
両親で羽月に対する厳しさに差があり、母親とはまともな会話をしておらず、ついにはすることもできなくなったのである。
交通事故だった。
自分の仕事を認めない母を憎い憎いと思っていたらいなくなってしまったのだ。まるで呪いが成功したようで、羽月はしばらく吐き気が止まらなかった。葬儀の時に笑顔の母の遺影を見て、親戚が羽月とそっくりだと言ったとき涙があふれたのである。それではっきりと後悔した。母にもっと快く認めて欲しかったのだ。
羽月は兎姫乃を見る。
地味な子だ。モデル仲間たちとはかけ離れた地味さだ。それが母に重なる。自分のわがままをぶつけて、痛烈な反応が期待できた。
「わたしはモデルをやりたかったんじゃない。ただお金が欲しかった。ちょっとしかないお小遣いに不満があっただけ。それを自分で稼ごうとしたら母親が怒りだして、理解できなかった」
「そうなんだ」
兎姫乃は、不意に向けられた告白に深刻そうな顔をして頷く。ガユガインの言葉への嫉妬を隠すのに苦労する。事前に調べ上げたからできる言葉選びをずるいと感じたのだ。相手を浄化するという覚悟の差であるとも理解していた。
「母親とはケンカしていて、死んで欲しいと思ってた。そう思ってたら本当に死んじゃった」
羽月は、笑うべきでないのに笑った。心が虫食いのようにスカスカになり、母の死を悼むことすらできないほど後悔で病んでいたのだ。
親の死を願う人間が他にもいたことへ兎姫乃は動揺した。しかも兎姫乃よりもまっとうな理由で親の死を願っているのだ。羽月の見せた乾ききった涙の笑顔をまじまじと見て、自分がひどく醜い人間だと思ったのである。