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二章 3

 夜を待つのは、幼い頃にサンタクロースの存在を確かめようとしたクリスマスや、少しマセてから除夜の鐘を聞こうとした小学五年生のとき以来だった。


 夕食を済ませて自室に戻る階段を上りながら、兎姫乃は妙に懐かしい感覚だと思ったのだ。


 世間は、怪物の出現にびくつきながらテレビやインターネットのニュースにかじりついていた。


 言葉にはしないが、伸哉と友喜はいつ逃げるかを決めかねていた。


 昼食、夕食と過ごすうちに口数は減り、不安が食卓へ充満していく。重苦しい空気なんて久しぶりだった。いつもは明るい母でさえ、昨日の怪物騒ぎから続くストレスで疲労の色を濃くしているのだ。家族が形を保てずに軋んでいるような感覚だった。命の危険を受けてバラバラになりそうなのである。それほどまでに戒厳令の下で神経を摩耗しつくしていた。



「ガユガイン?」



 夕飯の前には部屋の窓辺で外を警戒していたはずの姿がなかった。



「どこ行ったのよ?」



 兎姫乃は、身勝手なロボットへ不満の溜め息をついてから電子辞書を取り、ベッドへ腰掛けた。高校で英語を勉強するのに必要だと父親へねだって買ってもらったものだ。それには国語の辞書も入っており、小説を書くときにも使っていた。実は、そちらが目的だったりした。



「カグツチ」



 キーを打ち込めば液晶に文字が現れる。想像もつかないほどの技術の結晶であるにも関わらず、兎姫乃は感動したことがない。生まれたときから当たり前のように存在していたからだ。それなのに、ガユガインの本名の一部であるカグツチを打ち込んで、迦具土神(かぐつちのかみ)と表示されたことに久しく感じたことのない動揺を、トキメキを覚えたのである。


 迦具土神は、日本の神話に出てくる火の神で、産まれたときに母であるイザナミを焼き殺したため、父のイザナギに殺された。そう書いてあった。



「なんだこれ」



 電子辞書を顔の前に寄せて、説明の簡潔さに不満と好奇心を同時に刺激されたのだ。


 今まで調べた言葉の中で、神話に連なる言葉を引くことがなかった。兎姫乃にとっての電子辞書の文章は、言葉の説明書でしかなかったのだ。それが、物語の登場人物の解説を始めたことに驚いた。単語に父と母があり、その物語が記されていたのである。



「なに? あいつ一度死んでるの?」



 兎姫乃は、ガユガインの本名のもう一つを調べた。好奇心は止まらなかった。



「アマツツミっと」



 電子の国語辞典は答える。


 天津罪。


 天上で犯した罪であると。天上とは高天原であると。



「あー、なに? 罪人? でも、カグツチノアマツツミだから、カグツチって神様の罪そのものってこと?」



 兎姫乃は独り言をこぼしながら、ガユガインについての認識を固めていった。



「そうだとして、なんの罪があるの?」


 電子辞書の説明から得られるあまりにも乏しい情報では、罪など読み取れなかった。罪だという説明に不可解さしか感じないのだ。


 カグツチは産まれた。それで母であるイザナミが命を落とした。


 これが罪だというのだ。


 兎姫乃は小説を書き始めてから、文章の繋がりというものに多少なりとも気づけるようになった。その感覚が言っているのだ。


 母親は、命を賭けて子供を産んだだけである。



「罪でもないことで殺されたってこと? イザナギってクソ親じゃん」



 国語の辞書から得られた情報だけでは物足りず、パソコンを起動しインターネットで検索して、日本神話を調べたい衝動に駆られた。



「うああああああああああああ!」



 空襲警報のような咆吼が兎姫乃の部屋の窓をガタガタと揺らす。


 異様な振動と音に、兎姫乃は電子辞書を取り落として立ち上がった。



「な、なに?」



 階段を踏み抜きそうな勢いで駆け上がる音がして、ドアを殴るようなノックが襲う。



「兎姫乃! 避難するぞ!」



 めったに聞くことのない、焦りと緊張の混じった伸哉の声だった。



「わ、わかった」



 伸哉の懸念していたことが起きたのだとすぐに理解した。


 現れたのだ。


 怪物が。


 兎姫乃はスマートフォンをひっつかむと扉を開ける。


 伸哉と一緒に階下へ降りると、荷物をまとめた友喜が玄関で二人を待っていた。



「都心に現れたみたい!」


「北へ逃げよう」



 友喜が悲鳴のような声で伝えると、伸哉は冷静に答える。両方ともパニックにならないよう努力しているのが近くにいてビリビリと伝わるのだ。


 伸哉が予定を立てて、兎姫乃は友喜と一緒に車へ乗り込んだ。休日にしか出番のない乗用車は、機嫌を損ねることなくエンジンを動かし、一家を運び出す。



「うあああああああああああ!」


「な、なんなの?」



 兎姫乃は、再び聞こえた東京を包む絶叫を車中からのぞき見た。


 ビルの間で天を仰ぐ長い髪の人影がある。最初は黄泉醜女が再び現れたのかとも思ったが、黄泉醜女は頻繁に声を発しなかったことを思い出し、別人だと推理した。


 怪物の声に追いかけながら、鈴木家の車は順調に都心から離れていく。


 十分ほど経ったときのことだった。



「天皇陛下たちは無事だろうか」



 ステアリングを握る伸哉は、皇居のある方角をちらっと見た後に視線を戻し、急ブレーキを踏んだ。



「きゃあっ!」


「ど、どうしたの父さん?」



 助手席の友喜がつんのめり、兎姫乃もシートから身体が浮き上がりかけた。



「いかん。事故だ」



 伸哉は後ろを見て、後退させようとするも後続の車がいるのを見て、舌打ちする。



「降りるぞ」


「え、でも」


「少しでも遠くへ逃げるんだ!」



 躊躇する妻の意見を押さえ込み、伸哉は決断した。迷っている時間が、そのまま命の危険になると捉えていたのだ。


 伸哉と友喜がシートベルトを外して車外へ出るのを見て、兎姫乃も路上へ出た。


 数台先の交差点で車とトラックが衝突しており、交通がせき止められている。車を乗り捨てて、人間が道路から歩道へとなだれ込み避難を続けていた。


 真っ暗な夜空に、パニックを彩るような信号と街灯とランプの数々。現実と非現実の真ん中にいるようで、足がすくんだ。



「兎姫乃!」



 伸哉が、路上で固まる兎姫乃へ呼びかけた。声にわずかな冷静さしかなく、怒られているような気分になった。



「うあああああああああああ!」



 伸哉の声が怪物の声で消し飛ばされる。


 路上や歩道からは悲鳴が上がった。


 父と母が人波に押されて見えなくなる。


 それでも兎姫乃は、足の甲に杭でも打たれたみたいだった。


 逃げたい。


 逃げたいのに、足が動かないのだ。


 これが恐怖かと、作家気分の兎姫乃は冷静に分析していた。


 足の指は動く。かかとが地面に接着されていた。立っている感覚もぼやけており、背筋は震えっぱなしである。首を回すこともできず、すくめた肩と腕は完全に固まっていた。自分の身体ではないような感覚であった。



「兎姫乃」



 兎姫乃が握っているスマートフォンから、ガユガインが飛び出して道路に着地した。



「こんなところで」



 金縛りにあっていた身体が、動き出してふらつく。父親の車へ手を突いてバランスを保ちつつ、足の動かし方を思い出した。


 凝り固まっていた首を回すと、逃げ遅れて取り残されていることに気付く。



「逃げないと」


「力を貸してくれ」



 兎姫乃が両親を追いかけようとすると、車の屋根に飛び乗ったガユガインが土下座をした。



「彼女は、生きながらにして悪鬼に呑まれた。悪鬼がいなければ自殺か心を閉ざせたものを怪物になってしまった。君の力があれば、彼女を救える」



 ガユガインは、悪鬼に呑まれることをなによりもの屈辱と捉えている。


 兎姫乃は、ガユガインの考え方に反発を覚えつつ、彼女という言葉にはっとしていた。


 怪物の正体は、代名詞で説明できる相手だったのだ。


 見ず知らずの同級生、高橋羽月である。



「どうして知らない人を助けないといけないの?」


「君が小説を書いているからだ」


「小説は関係ない」



 押し問答などしている場合ではないのに、ガユガインの断言が我慢ならず兎姫乃は言い返していた。



「ある! 文学は見ず知らずの人間に向かって書くものだからだ! 知っている人間に向かって書くのは、手紙か日記くらいなものだろう」



 日記と言われて、消してしまいたい過去を思い出す。


 兎姫乃は、パソコンをねだる前までは自由帳に小説のような日記を書いていた。黒歴史だ。捨ててしまいたいのに、未だに本棚の端っこに封印されている。人に見せるようなものではなく、完全に一人で楽しむためだけに作られた話だ。小説を書くと決めてからは、明らかにそのノートは邪悪となった。人に見せられないものが、いかに価値がないか理解していた。そこから始まったのだ。ガユガインが文学と呼び、見ず知らずの関係のない人間を救う物語を、兎姫乃はずっと書いていたのである。

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