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学生の日の思い出  作者: 三文字
学生の日の思い出
8/8

決意

 僕は必死で後藤のアパートから逃げた。駅の近くまで行って、ついてくることはないだろうと思い、そこでやっと息をついた。

 僕は決して後藤を傷つけるためにあの言葉を発したわけではなかった。今まで何でも分かり合えたはずの友だったからこそ、本気でぶつけてしまった『本音』だった。

 それに僕の心にとって、父のあの箴言の持つ意味は重かった。組織に巻き込まれ、騙されるなということはある種、僕にとっての信条のようなものになっていた。

 駅に入り電車に乗って一人寂しく僕は帰った。帰りながら物思いにふけっていた。

 自分にはアイデンティティ―がないと思った。自分には孤独しか、絶望しか残されていないと、無意識にそう思った。なぜなら自分には依るべき共同体やイデオロギーといったものが、何一つ存在していないからだった。

 またこうも思った。後藤の考える芸術は、もはや芸術という原理では考えることのできない別の何かであると。後藤の芸術は、それを取り込もうという対象がどんな人物であるかによって善にも悪にも、美にも醜にもなり替わる。そしてその善悪や美醜の二分性とはまったく別個に存在する原理が、政治だと思った。数の力だと思った。そこまで考えたとき、僕は悪寒に襲われた。なんとなく、これ以上考えるのはやめようと思った。思ったが、自分はその空想を止めることができなかった。

 空想を繰り広げる僕の心の中に、不治の病にかかりベッドに横たわっているベートーベンが現れた。そして彼は僕に一つの遺言を言い放った。

 「喜劇は終わった。」

 そうなんだ。『喜劇』というものは、ついには終わりを迎えてしまうものなのだ。しかも、僕にとっての『喜劇』というものは、せいぜい3、4人かそこらでしか集まれない者どもによって作られる、他の実に幸福な人々にとっては取るに足りない、豪華絢爛でもなければ質実剛健といったものでもない、まさしくなんて事のない『喜劇』でしかなかったのだ。

 しかし、僕はその『喜劇』の中に自分の青春のすべてを封じ込めてしまったのだ。それを失った今、僕は一体どうして、どのように生きていけばいいというのだろうか。僕は、このやり場のない心を、一体どこにぶつければ気が済むというのだろうか。この人生の悲哀を、対象を失ってから溢れ出てくるやるかたない憤懣を、人生の行き止まりに絶望する心を!

 しかし、自分の一人暮らしのアパートの近くまで来た時、僕はふとある映像を思い出した。そのテレビの映像の中で、一人の腰の曲がったしわくちゃの老僧が、テレビの取材にこう答えていた。

 「私というものはですね、人というものが、何の望みがなくても生きていける、というそんなことを示すために今まで生きてきたようなもんなんですよ。人生なんて、そんなもんですよ。」

 そのときの老僧の顔は、こんなにも暗い発言にもかかわらずなぜか飄々とした笑顔を見せていた。それを思い出した途端、僕は全てが許されたような妙な感覚に陥り、混乱した。

 『何の望みもない。』

 その言葉を、僕は自分の中で反芻した。その言葉はむしろ文字通りの意味に反して僕の心をすっとさせた。そしてむしろその後にほんのり温かさまで感じてきた。

 その老僧の言葉は、僕にはあらゆる芸術、思想、化学、宗教の垣根を越えた、人類にとって最後に残された真実を表す福音のように感じられた。その福音は雨のように僕の心の中に降り注いでいった。

 僕の心に溢れていた絶望の闇が今度は無数の星雲になり心を照らし出した。

 『僕は後を振り返らない。ただ、前を向いて歩いていく。一歩一歩、確実に進んでいけばいいんだ。』

 そう思った。そして僕は祖父の遺言を最後に心の中に付け加えた。

 『自分の信じた道に向かって、真っ直ぐに突き進むだけだ。』

 そう心に言い聞かせた。僕の目は充血していた。涙が幾つものすじになって両目から幾度となく溢れていった。呼吸と胸の鼓動が、少しずつ早くなっていった。

 閑静な住宅地は闇に包まれていた。そのさらに暗い一点を目指して、黒い影である僕がそこに吸い込まれるようにして入っていった。そしてその一点、つまりアパートの一室に小さな明かりがともった。

 『僕の人生は、僕が変えていく。』

 そう思いながら、僕は寝床に入り、そっと部屋の明かりを消した。

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