第4話 記憶
重要参考人 矢野隆と名乗る男の証言
第一の記憶
駅近くの場末なバーで、私は飲んでいました。カウンターに座って、なじみの客が他に何人かいたのですが、そこに一人の若い女性がやってきました。確か12時を回ったくらいだと思います。いつもならその時間で帰るのですが、私はつい、その女性に見蕩れてしまい、あと1時間くらいはいいかと。でも、結局閉店まで私はその女性と飲み明かしました。店を出たのは2時を回っていました。
アパートまでの帰り道、私はすっかり酔っぱらって、いささか気分が悪くなり、細い路地にはいって、胃の中のものを全部吐き出しました。それで、幾分よくなって……。でもどういうわけか家に着いたらもう5時を回っていました。体のあちこちがあざだらけで、結局その日は会社を休みました。
第二の記憶
子供の頃、私は模型を作るのが好きで、たとえばモーターで動く戦艦や戦車を作っては公園で遊んでいました。でも、そうやって遊んでいると、乱暴な奴がやってきて、それを壊しちゃうんです。私は悔しかったけど、どうしたって彼らにはかないませんでした。そういう連中は、だいたい学校で問題を起こして……。高校生の時にゲームセンターでカツアゲされました。その中の一人に、私の大事にしていたロボットのプラモデルを壊した奴がいました。その男はそのまま町のごろつきになったそうです。私はどうしてもその時の悔しさを忘れることができなくて、そういう連中が嫌いで仕方がないのです。
第三の記憶
父も母もまじめだけが取り柄な人間でした。二人とも子供の頃は家が貧乏で、苦労したそうです。私を生んだ後、身体の弱かった母は病気がちで、入退院を繰り返していました。母が亡くなったのは4歳の時でした。正直母のことはあまり覚えていません。でも、笑った顔がともてかわいらしい人でした。仏壇に飾ってある写真はあまり好きではありませんでした。父にどうしてこっちの写真にしないのかと、一度だけ尋ねたことがあります。父は何も答えなかったと思います。でも、今の私になら父の気持ちがわかる気がします。あんな素敵な笑顔を見せられたら、いつまでも前に進めなくなる。きっと僕も父も弱い部類の人間なのです。
第四の記憶
その女性の笑顔はどことなく、母に似ていました。しかし、閉店間際にその女性の連れが迎えにきたのですが、こともあろうに子供の頃私のプラモデルを壊した男でした。向こうは覚えていないみたいでしたが、私ははっきり覚えています。右の瞼の傷跡は、小学校の時にブランコから飛び降りて着地に失敗してつけたもの。鼻が詰まったような聞きづらい声、瞬きがとても速い。乾いたような独特の笑い方。
私はとても大事なものを奪われたような気分になって、すごすごとその店を出ました。出てすぐに、うっかり人とぶつかってしまいました。自暴自棄になっていた私は何か暴言を吐いたようです。あとはもう、いいように殴られました。
第五の記憶
それは作務衣を着た老人でした。しかし老人というには肌艶がよく、目がギラギラとしていて、生気にあふれている感じでした。どうやったらああいう年の取り方をできるのか。いまどき珍しく下駄を履いていました。きれいに手入れをしてある丸めた頭を叩きながら、「偉いものを見せてしまったのう。忘れてくれればありがたいが、忘れんでも今日見たことを誰にも言わなんでくれれば、それでいい。まぁ、言ったところで誰も信じてはくれまいて。誰も信じないことを見たといってもつまらぬことよ。その辺のことがわかってくれれば、ありがたいのう」
私はただただうなずくしかありませんでした。ともかく、とても恐ろしいものを見てしまったのです。忘れろと言われてもそれは無理なことです。ただ、誰かに話しても信じてもらえないというのもわかりました。見てしまった本人が忘れられないのですから。
第六の記憶
私はどうにか立ち上がり、ぶらぶらと町の中をさまよい歩きました。なんというかまっすぐアパートに戻るのが嫌だったんです。コンビニで水とウィスキーの小瓶を買い、近くの公園のベンチでそれを飲んでいました。そういえば昔、付き合っていた彼女に振られたときに同じことをしたなぁと思いながら、夜空を眺めたら結構きれいな星空が見えて、そしたら正気を取り戻して、さて帰ろうかと思ったその時です。目の前を何か影のようなものが走り抜けていくのが見えたんです。これはいよいよ悪い酔い方をしたのかと思ったら、その影が再び私の目の前に現れました。
それは大きな蛾でした。でもその蛾の頭部はあろうことか人のそれでした。
第七の記憶
私は驚いてその場から逃げ出しました。どうしてその場に人の死体が転がっていたのかまるでわかりませんでした。
第八の記憶
私は行きつけの店であの男が立ち寄りそうな店を何軒か聞き出しました。そういえばいつもよりカバンが重たい。何を入れてきたのだろうと、何度か中身を確認しようかと思ったのですが、そのたびにあとでいい、あとにしようというように気が変わっていたのは、今にして思えば妙なことだったと思います。
第九の記憶
三日目にしてようやくあの男を見つけることができました。都合のいいことにどうやら一人のようでした。私はこっそりと後をつけ、人通りの少ない道で男に声を掛けました。
「この前はどうも。ほら、いつだったかカラオケバーでご一緒した」
男は怪訝そうに私の顔を見て、曖昧な返事をしました。
「あっ、ああ、あの店で」
私は……そう、名刺を出すふりをして、『あれ』が入っている鞄を取り出しました。
「あの、実は私こういうもので……」
私はカバンを開けて、その開いた鞄の口を男に向けまいた。
するとカバンの中から糸のようなものが飛び出し、男ののど元に付着しました。次の瞬間カバンの中から黒い影が男めがけて飛び出した。私はただそれをじっと眺めていました。そうすることが、当たり前、こうなることが当たり前という感情の中で、目の前で起きている恐ろしいことに何ら恐怖を感じませんでした。
男の首には、昆虫の幼虫によく似た黒い異形の生き物がまとわりついていました。男はそれを必死に手で払おうとしていましたが、糸が手に絡みついて、自由が利かないらしく、ついにはその生き物にのど元を噛みつかれました。
男が悶絶して倒れて私に助けを求めているようでしたが、上手く声が出せないようでした。
良く見るとその生き物はすでに男の喉を食い破り、頭の部分が男に突き刺さり、血が滲みだしていました。男は呼吸ができず血を吐いてもがき苦しんでいますが、もう抵抗する力はなく、その生き物の身体半分は男の肉の内側へと入り込んでいました。
暫くすると男は悲鳴にならない不気味な声を上げて、やがて動かなくなり……そこからどうなったか、私も覚えていません。
おそらくその生き物は男の中に完全に侵入を果たしたのだと思います。
ただなぜか、どうしようもない高揚感に包まれて、私は……まるで、性行為をしたときのような、なんてことでしょう。
私はなんてことを……
第十の記憶
私は気になって翌日の夜、あの公園にいったのです。そこで見たものはまたしても異様な光景でした。作務衣を着た丸坊主の男が、何やら昨晩私が異形のものを目撃したベンチの周りで、呪いのようなことをしていたのです。それは蜂でした。とても大きな蜂で、その蜂はベンチの周りをぐるぐる回り、時々公園の植え込みの中に入り、何かを抱えて男のもとに飛んできます。私はその様子をもっとよく見ようとついつい身を乗り出し過ぎて、その男に見つかってしまったのです。その男は下駄を履いていました。屈託のない笑顔を見せながら、今、蜂を使って悪いムシを退治しているところだと言っていました。下駄の男の足元には竹の筒が何本か置いてありました。その筒の中に蜂が害虫を運んでくるとか、なんとか。
そして私は見てしまったのです。その竹筒の中で蠢く異形の蟲を。
「な、なんですかこれは!」
「ほぉ、お主にこれが見えるかよ。まぁ、これは悪いことをした」
下駄の男はすまなそうにそういいながら、今日見たことは忘れてくれといった。そしてもしもこれを同じようなものを見たときにはその場所には絶対に近づかないようにと、そんなことを言っていました。
第十一の記憶
まさかそいつが自分のカバンの中に潜んでいようとは夢にも思いませんでした。でも、最初それは錯覚か幻覚のようにおぼろげでした。はっっとして中を確かめると姿は見えない。そのカバンを捨ててしまおうと思ったのですが、どうしてもそういう気になれなかったのです。そして私はそのカバンを持ったまま、あの男を探し回りました。店の前を見知らぬ男がカバンを抱えてうろうろしているわけですから、多分怪しまれたのでしょう。一人の男が私に絡んできました。私はとっさにカバンを前に出して身を守ったんです。そしたら、そしたら中からあの蟲が……




