真理はどんな形をしているか
ウィトゲンシュタインという哲学者についてずっと考えていて、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という事で何をしようとしていたのか、ようやく見えてきた。ウィトゲンシュタインはカントの超越論的哲学と同じような事をやろうとしていたと思う。で、自分なりにカントやウィトゲンシュタインを勉強して、どういう風に感じたか、何が見えたかを素描したい。もっとも今から言うのは比喩にすぎないので、興味を持ったのならば、ウィトゲンシュタインやカントのような本物と格闘して欲しい。
このエッセイのタイトルは「真理はどんな形をしているか」だが、これに関しては「球形」であるという答えを先に出しておこう。球形というのは言うまでもなく三次元である。これに対して、平面は二次元である。
人のしている議論というものを見ていると、大抵、「正しいか否か」という前提で話されている。また、色々なものは「肯定か否定か」というゲームにすぐに翻訳される。誰かが何かを言い、それが世間的トピックになるとすぐに、「自分は元々××を否定していた」なんて人間が出てくる。彼らは否定とか肯定とかいうもので物を考えるが、それそのものについては深く考えない。
僕は、彼らは基本的に二次元で考えていると思う。もちろん、二次元というのは比喩だが、彼らが正しかろうが間違っていようが、常にその二次元性を越えないというのは必定である。いつまでも、人は二次元で話し続ける。
では、これに対して三次元というのはありうるのか。カントの超越論的哲学、ウィトゲンシュタインの超越論的哲学、それらは三次元であると自分は思う。しかし、ここで注意すべき事がある。
最近のインテリ、落合陽一とか、「サピエンス全史」の作者なんかはみな利口で、優秀である。この手のインテリは沢山いて、みな優秀な人達だ。彼らからすれば、僕の言う、カント哲学、ウィトゲンシュタイン哲学などは既知の事、過去の部分として簡単に整理されてしまうだろう。だが、彼らは十分に二次元的であると思う。僕が今問題としているのは、ある真理を知るという事と、それを「飲み込む」というのはまるで違うという事だ。僕が、ウィトゲンシュタインやカントを三次元的だと言うと、「それはそうだろう」と彼らは言うかも知れない。しかし、彼らは自らの二次元性によって、過去の三次元を処理しているという事に気が付かない。彼らは優秀であるからこそ、自分の認識が変容するような知に触れる事ができない。だからこそ、彼らの書物は二次元的な思考をしている人々にベストセラーとして受け入れられる。
もちろん、二次元とか三次元というのは比喩である。あくまでも、比喩として話している。話を戻そう。
さて、カントやウィトゲンシュタインが三次元というのはこんな風に考えられる。人は二次元で思考していて、それはこんな具合ーーー
「大地というのは平らである。だとすると、地球には果てがあるか、それとも、永遠に土地が続いていくかどちらかであろう」
渋谷から原宿まで歩いていく時、僕らは地球は丸いとは感じない。だから、「大地は平らだ」と結論する人もおかしくはないーーそう考えてみよう。この時、「大地には果てがあるかないか?」を確かめる為に誰かが、旅に出るとする。彼は世界の果てを確かめに旅に出る。答えは、世界には果てがあるか、ないか(ずっと大地が続くか)の二つである。だが、彼はずっと歩いていると、また元の場所に戻ってきてしまう。
これは極めて不思議な事である。何故、ある一方向に歩いていて、また元の場所に戻るのか? これは二次元の問題では処理できない。三次元ーー大地は球体だったという答えが出て、ようやく意味がわかる。
この時に、旅人が「そうか、地球は丸いのだ」と悟る、というのが「わかる」という意味であると思う。一方、世の中に蔓延しているもののほとんどは「地球には果てがある!」というものか、「大地はずっと続いている事がわかった!」のような答えである。
ここに二次元から三次元にステップアップしなければならないポイントというものがある。ここに真理を理解するという不思議さがある。だから、「地球は丸い」という真実は、「大地に果てがあるかないか?」という二次元で話している人には『語り得ない』事柄である。
おそらく、真理を理解した人が、他人に容易に語れない原因がここにある。全てを理解し、悟りを開いた人が、他人から見ると凡庸な人間…いや、愚かな人間にすら見えるという理由もここにある。答えは目の前にある。しかし、それを我々が理解できない時、それは答えではない。我々は二次元で話し続ける。だから、答えがいつまでも出ないのだが、それは答えが出るといつまでも信じ続けているからだ。
ウィトゲンシュタインやカントの超越論的哲学は、この世界のあらゆる現象に対して「直角」に作用するものだが、この三次元性については、いつまでも理解されない。それを理解するには、そのパースペクティブに出向かなければならない。それはある種のビジョンだが、そのビジョンを見た人間は他の人間に対して沈黙する。あるいは、彼がいくら饒舌に説明しようと、我々はそれを二次元的に理解する。
この文章では、カントやウィトゲンシュタインの哲学の内実には迫れなかったが、実際に大切なものは全てそこにあるので、この文章だけではほとんど意味がない。カントやウィトゲンシュタインを自分なりに勉強して、彼らはそのような場所に到達した、と感じたという話である。
彼らは、世界を真上から見えたが、世界内部からは「真上」の存在は見えない。仏教哲学も同じような場所に上り詰めたと思うが、仏教哲学、禅を「非論理的」と言うとそれだけで失われる何かが、仏教哲学の重要な場所である。現代の我々は学校の勉強や、制度に従ってなんでも整理するのが得意だ。だから、カントやウィトゲンシュタインも整理したかのような錯覚をするが、整理されているの我々であって、カントやウィトゲンシュタインの方ではないと、僕は信じる。
まとめるなら、真理というのはそのような三次元であるが、この三次元は「物自体」「語り得ぬもの」のように、不可能性の領域に沈んでいる。しかし、我々が二次元に生きる他ないと理解した後生きる世界(三次元から降りてきた世界)と、自分の場所に無自覚であって生きる生とは全然違う人生だ。一般的にはその違いというのは、目に映らない。ただ、僕はそういう違いを信じる。それを信じるのは三次元的かと言えば、よくわからない。もとより、この文章の三次元・二次元というのは単なる比喩にすぎない。そもそも、この文章自体は三次元か二次元かと言えば、疑いなく二次元的である。三次元を二次元に翻訳した文章にすぎない。しかし、そのあたりのニュアンスを理解してくれる人に読まれる事をこの文章は期待しているーーと思う。そしてそれが、大切な事かと思う。