これはきっと、幸せの予感? いいえ、春の予感です。
『もっと飛ばすぜぇ!』
東京ドームでライブを行っているのは、トップアイドル『一葵』。
綺麗な銀髪が特徴的で、端正な顔立ちのイケメン男子。
年齢は一七歳の高校二年。
アイドル業と学生業を両立させている彼だが、どこの高校でも彼の目撃例は一切ない。
それにはとある理由があった。
☆ ☆ ☆
――季節は春。
GWも終わり、学生達は久し振りに学校へ登校している。
ビン底眼鏡に、ボサッとした少し長めの黒髪を持つ彼もその一人だ。
制服は学ランで、リュックサックを背負っている。
「なにあれ、超ださくない?」
他の学生達から見れば、彼は地味で暗くて…ださい。
そんな印象を多く持たれている。
しかし彼は、どれだけ馬鹿にされていようが反応はしない。
そんな彼は地味系男子。名前を、天宮葵。
「ねむい……」
とぼとぼ歩きながら、心の中で呟く葵。
彼は訳あって、昨日からあまり睡眠をとれていない。
そもそも葵の睡眠時間は基本的に短いのだが、今日に限っては理由が存在する。
「帰りたいな…………?」
そう呟いた時、葵は十数メートル前の地面に子猫がうずくまっているのを発見した。
それだけなら、まだいい。重要なのは、前から、乗用車が猛スピードで走ってきたことだ。
――葵の体は反射的に動いていた。カツラが外れて落下するのも厭わず、煩わしいビン底メガネを放り捨てて、身の危険も顧みずに、子猫へを一直線に走り出していた。
――クラクションが鳴り響く。
運転手が怒声を上げる乗用車が走り去り、――葵は子猫を胸に抱いて大きなため息を吐いた。
子猫に怪我はない。おそらく空腹だったのだろう。
「まったく……あんま俺を困らせんなよ、子猫ちゃん」
「にゃー」
「仕方ねえ奴だ……今回だけ、飯だけは食わせてやるよ」
言って、葵は子猫の鼻に口づけた。
そこで気付く。カツラと眼鏡がない――変装が解けている。
もし今の彼の姿を見た人間が居たならば、口を揃えてこう言っていただろう。
――トップアイドルの『一葵』だ、と。
「あぶねあぶね」
変装グッズを拾って、葵は地味系男子へ。
天宮葵――彼の正体がトップアイドル『一葵』だという事実は、隠さねばならない。混乱を避ける為に、不要な記者やファンの突撃を防ぐ為に、彼は……姿を隠さねばならないのだ。
それだけではない。彼にはどうしても今の学校に通いたい理由がある――それはごく一部の人間にしか伝えていないことなのだが、『一葵』としてではなく、『天宮葵』として成さねばならないことだから。
彼は、――正体が公にバレる訳にはいかないのだ。
危うく正体がバレかけた葵は再び子猫の鼻に口づけると、ふんわりと微笑んだ。
「君みたいなイタズラな子猫ちゃんには、初めて出会ったよ」
☆ ☆ ☆
子猫に缶詰を与えた後、葵は吹き付ける風に注意しながら学校へ向かっていた。
だがその道中、再び、危機に出くわしたのだから、今日という日は呪わずにはいられない。
「次は迷える子羊かよ……ッ!」
葵が駆け付けたのは、いかにも道に迷っています雰囲気を醸し出す素朴な少女だった。
まさに、迷える子羊。葵は少女の背後に立つと、優しげな声色でこう告げた。
「道に迷っているんですか?」
「え?」
「振り向かない方がいいですよ。もし振り向いたら……」
「振り、向いたら……」
「僕は君に惚れてしまう」
「ふえ……!?」
「だからこのままで。もし道に迷っているなら、教えますよ」
「え、えと、えと……」
少女は振り向かず手元のメモ帳へ視線を落として、
「も、最寄りの駅を……教えてもらえませんか……?」
「かしこまりました、お嬢様。では、少しばかり目を閉じてもらえるかな?」
「は、はい……」
少女が目を閉じたことを確認すると葵は彼女の手を掴み、ゆっくりとした足取りで駅まで案内する。
到着した葵は少女の背後に回り、目を開けていいよと声をかけた。更に続けて、
「これは夢。君は今日、妖精に出会い、道を教えてもらった。じゃあね、麗しい天使さん」
そう言い残し、颯爽とその場を走り去った。
ようやく落ち着いたところで。
葵は、自分の行いに酷く後悔していた。
「俺はまたあんな恥ずかしいことを……」
彼には一つ、欠点がある。
それは、女性が苦手なこと――ゆえに、女性を前にすると《トップアイドル『一葵』》モードが自動で発動してしまうことである。