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4-1


 人生最悪最低の心理状況のまま、一晩明けた。

 東の空が明るくなっても、俺は一睡もする事が出来ず、鏡を見ればひどい顔をしているのだろうな、と想像がつく。

 こんな時でも、俺の頭にピョコンと立っているアホ毛は、どこかおどけるように揺れていた。くそぅ、今日ほどコイツを引っこ抜いてやろうと思ったことはない。

 と、その時、ドアがノックされ、廊下から母親の声が聞こえる。

「おーい、朝よぉ」

「起こしにくるにしても、早すぎやしませんかね」

 時刻を確認すると、午前五時。いつもより二時間ちかく早い。

「だって、お父さんがもう起きてるだろって」

「あの親父はエスパーかよ」

 頭を掻きつつ、俺は朝の準備を始めるのだった。


 冷や水で顔を洗えば、そこそこ気分も晴れるか、とは思ったが、暗澹たるこの思いはヘドロのように心の内側にたまり、どれだけ顔に冷水を浴びせても落とせる気がしなかった。

 顔がふやけるぐらいまで水を浴びせた後、これ以上やっても無駄だと気付いて食卓へとやって来る。

「ほぅら、今日は失敗しなかったのよ。お母さんだってやれば出来るんだから」

「おぉ、たまご焼きが黄色い」

 ささやかな幸せに感動しつつも、俺の心には寒風が吹きすさぶ。

 この夏の暑い日に、俺だけ冬を先取りしている気分ですらある。

「お父さんも、ご飯できたよ」

「はいはい」

 テレビを見ながら新聞を広げていた親父は、ガサガサと適当に新聞を畳み、食卓につく。

「あら、そう言えば、久々に三人揃ったんじゃない?」

「いつもは父さんが、朝早いからなぁ」

「ちょっと前にも一回あっただろ。親父がやたらぐずぐずしてた日」

 確かあれは、俺と蓮野が初めて会った日の翌朝だったか。珍しく親父がリビングで新聞を読んでいたのを覚えている。

「でも、それだって久々だったじゃない。ふふ、今日は朝から幸先良いわぁ」

 原因の一つには、俺の通う学校が割りと近場にあるため、俺がやたら朝遅いのも挙げられるだろう。つまり、俺と親父の朝の時間はかぶり辛いのだ。

 まぁ、俺の起床時間は改善する気なんかサラサラないが。

「じゃあ、今日は家族揃って!」

 パン、と母さんが手を打った。

「「「いただきます」」」

 三人で声を合わせて、食事を開始した。

「……なぁ」

 味噌汁をすすりながら、親父が俺に話しかけてきた。

「なにかね、マイファザー?」

「お前……なんか悩み事とかあるのか?」

「……いきなりなんだよ? そんな家族と疎遠だった父親みたいな切り出し方は」

 俺の主観ではあるが、我が家は割りと家族円満で過ごしていると思う。

 親父とも母さんとも、学校での話もするし、夕食だって基本は三人一緒だ。

 それなのに……なんなんだ、今の質問。まさか、俺ってそんなに悩んでる顔してたのだろうか? いや、実際悩んでるけど。

「いや、お前がちょっと元気なさそうだったからさ」

「俺様のポーカーフェイスを見切るとは、流石は我が父親と言ったところか……。しかしそれは杞憂と言う物だよ。俺がそんな深刻に悩むようなタマに見えるか? 眠りが浅かったみたいでね。昨晩は寝たり起きたりを繰り返してたのさ」

「お前は変なところで神経質になることもある。……なにかあったらちゃんと話せよ?」

「わかってるよ。相談して解決できそうなら頼らせてもらう」

 チッ、鋭い親父め。

 困った事になったら、ホントに頼ってやるからな。


****


 夏の太陽は燦々と輝いている。いっそ妬ましいぐらいである。

 これだけ暑く、眩しく輝くのならば、俺なんか影すらも残らない程度に焼き尽くしてくれれば良いのに。

 そんなネガティブな思考に囚われながら、俺が通学路を歩いていると、前方に見慣れた後姿を確認する。

 蓮野だ。

 彼女の姿を見た瞬間、俺の脳裏に昨日のハル姉さんとのドキドキイベントの光景がフラッシュバックする。

 そして自問した言葉、『どんな顔して蓮野に会えば良い』と言う言葉も浮かんでくる。

 今は……蓮野と笑って会話が出来ない気がする。

 後ろ暗い気持ちが足を引っ張り、俺の歩行速度は牛歩戦術もかくやと言うレベルで遅くなった。

 そんな俺に気付いてか気付かずか、何の脈絡もなく、蓮野がこちらを振り返った。

 彼女の目に射抜かれ、俺は息を止めた。

 どことなくだが、蓮野の視線が痛い。これも俺の脛に傷があるからだろうか。

 俺は蓮野の視線に貼り付けにされたように、動けなくなってしまった。

 その内、彼女の口が動く。

 この距離では何を言っているか、正確には読み取れなかったが、

『うそつき』

 と言ったように見えた。

 ……嘘つき?

 何の事かと思い、俺は慌てて蓮野を追いかけようとしたが、一瞬、人波に遮られた視界から蓮野は消えていなくなっていた。

「あのやろう、力を使ったな……」

 蓮野は何でも出来る力を持っている。

 アレを使えば、一瞬でとんでもない距離を移動する事ぐらい、わけもないだろう。

 どこへ行ったかもわからない蓮野を追いかけるのは無理だ。それに、追いかけたところで、俺にはアイツに会わせる顔なんかないんだった。

 諦めて、俺はいつもの通学路をトボトボと歩くのだった。


 陰鬱な気持ちも、午前の授業を終える頃には何とかポジティブ方向に上向き始めた。

 確かに、俺は理性を保つ事が出来ず、ハル姉さんとキスしてしまった。

 それは俺個人としては間違いなく、蓮野に対する裏切りだったであろう。俺は蓮野が好きで、今はハル姉さんへの気持ちは振り切っているはずだった。それなのにあんな行動に及んだ事は、もし俺内裁判が開かれれば、確実にギルティをもぎ取れるだけの証拠となるだろう。

 だが、それと蓮野は関係ない。

 蓮野は俺の事を……多分、友達以上には見ていないだろう。とすれば、俺がハル姉さんとキスした事を勝手に負い目に思っているというのは、それは俺の思い上がり、自惚れだ。

 それなのに『ゴメン、蓮野。俺、ハル姉さんとキスしたんだ』なんて言っても、蓮野には気持ち悪がられるのがオチである。

 ならば、昼休みはいつも通り、蓮野のクラスへ行って、彼女とお喋りをするべきではなかろうか。

 以前、蓮野は俺が彼女のクラスに行かなかった時、心配して俺の様子を見に来てくれたこともあった。それを考えれば、彼女に無用な心配をかけないためにも、俺はこの昼休みにも何食わぬ顔をして蓮野のクラスへ行くべきなのである。

 ただ、俺の心はメッコメコに凹むだろうが、それは自業自得なのだ。

 俺は蓮野に心配をかけず、いつも通りの行動をするべきなのだ。多分。……あってるよね? 間違ってないよね? 急に心配になってきたんだけど、これってワガママではないよね?

 そんな心配と無根拠な自信を抱えながら、俺は一年二組を訪ねた。

 ……の、だが。

「ありゃ」

 蓮野の席はカラだった。

「あ、先輩。蓮野さんなら今日、朝から来てないですよ?」

「え? そうなの?」

 入り口近くにいた一年二組の生徒から声をかけられる。

 これだけフレンドリーに話しかけられるとは……俺も一年二組に馴染みきってるではないか。後輩に慕われる男、俺!

 いや、それはともかくだ。

 蓮野が朝から来てない? そんなバカな。通学路では確かにアイツを見たはずだ。

 だが、あの後、姿形もなく消えてしまった。ということは、力を使って学校からエスケープをかましたという事だろうか。まさか蓮野が非行に走ってしまうとは……センパイは悲しんでいるぞ!

「ありがとう、名も知らぬ後輩よ。じゃあ、今日は暇潰しを探さないとなぁ」

 なんて適当な事を言いながら、俺は一年二組を離れた。


 教室に蓮野がいない、という事は……どこにいるんだろう。

 考えてみれば、俺は蓮野がどこへ行きそうか、なんて見当も付けられない。

 そりゃそうだ。俺はアイツの趣味も好きな物も知らないのだ。何が好物、なんてのも知らないし、なんなら携帯の電話番号も知らない。そもそも、アイツが携帯電話を持っているのかすら怪しい。

 俺は蓮野の事が好きだと思ったが、アイツの事は何も知らないんだなぁ……。

 うわ、ちょっとアンニュイ。


****


 アンニュイな気持ちを抱えたまま、午後の授業も終了した。

 本日はこれで放課。俺も心置きなく帰宅できるワケだが……。

 自然と階段の上に視線が行ってしまう。

「ちょっと見てみるか」

 予感があった、とか、そんなわけではないのだが、何故だか蓮野はまだ学校にいる気がしたのだ。

 朝から来ていない、との情報は得ていたが、蓮野ならば全校生徒、それどころか職員等々から全く見つからずに学校内に隠れる事も可能ではあろう。

 ならばどこにいるのか。

 誰も寄り付かないはずの屋上だ。

 一般の生徒には開放されておらず、職員も事情がなければ入る事がない屋上。そこは隠れ場所にしては絶好である。

 と、すれば……。

「おや」

 一縷の望みをかけて屋上へ向かうドアのノブに手をかけてみたが、何度回してもガチャガチャと音がするばかりで、扉は開かなかった。

 用務員のおっさん……鍵を開けてくれなかったのか。

 俺はドアの擦りガラスを睨みつけた。


 ここで諦めて帰る事も出来る。

 屋上に蓮野がいる確証があるわけでもなし、おっさんにせっついて屋上のドアを開けてもらっても無駄に終わってしまう可能性は高い。

 だが、開かない宝箱があればこじ開けたくなるように、俺は開かない扉があれば極力開けてしまいたい。そんな衝動に駆られてしまったのだ。

 この先にはとんでもない宝物があるのではないかと、無闇に期待が膨らんでしまう。

 もし仮に、屋上に蓮野がいたのだとしたら、俺はどうしていいやら、未だにわからない事だらけだ。何を話せば良い? どんな顔をすれば良い? 答えは一つとして出ていない。

 しかし会わなければならないような気もしていた。

 このまま蓮野と距離を取り続けてしまえば、その内会えなくなってしまう気がしていたのだ。だとすれば、今日のこの日を逃す手はない。

 希望があるなら、それにすがりつきたい。


 そう思ったら、俺は全力で階段を駆け下りていた。

 やって来たのは用務員室。

「おっさん!」

「うぉ、ビックリしたなぁ! ドアをあけるならノックぐらいしろよ。常識でしょ?」

「良いから、屋上の鍵! 開けてくれ!」

「屋上?」

 俺の言葉に、用務員のおっさんは怪訝そうな顔をしていた。

「屋上の鍵は開けてあるだろ? 今日、お前のカノジョが持っていったよ」

「……は?」

「お前のカノジョが持っていったんだって。まぁ、俺としても可愛い女の子にプレゼントを上げるのはやぶさかでないし……」

「そ、そうじゃない! 俺のカノジョって……もしかして蓮野の事か!?」

 蓮野と俺がそういう関係であるか否かと言うのは、この際不問としておこう。

 蓮野は、今日、この部屋に来たと言う事か!?

「おっさん、それっていつ頃だ!?」

「うーん、朝すぐかな。俺が朝の見回りとか掃除とか終わってだから……一限が始まる直前くらいだったんじゃないかな」

 蓮野は朝からいなかった、と言うクラスメイトの証言。

 だが、おっさんは今朝、蓮野を見ている。

 蓮野は朝、登校はして来たが教室には入らずに、ずっと屋上にいたのだ。

 何故だ……!? それは、その理由は……。

「屋上の鍵は、まだ返してもらってないんだな?」

「ああ、まぁ、あの娘は人のモノをパクるような娘じゃないと思うし、大丈夫だろうよ」

「ありがとう、おっさん!」

 俺はすぐにおっさんに背を向け、用務員室を飛び出す。

 目指すは再び屋上。

 短時間での階段の上り下りは流石に体力を消耗する……。

 いくら体力自慢の俺だとしても多少疲れてしまうよ。


 屋上のドアの前にたどり着くと、鉄扉をガンガン叩く。

「蓮野! 蓮野! いるんだろ!?」

 屋上に向かって呼びかける。

 擦りガラスの向こうは曇って見えない。屋上に誰がいるのか、誰もいないのか、それは判別できなかった。

 だが、きっといるはず。

「蓮野! 返事をしてくれ!」

 ドアを叩きまくっていると、ふと擦りガラスに影が落ちた。

 この奥に、誰かいる。

「蓮野か!?」

『……何か用ですか』

 ドアの置くからくぐもった声が聞こえる。間違いない。蓮野だ。

「よ、良かった……本当にいたんだ……」

『いちゃまずいですか?』

「いや、良いんだ。いてくれて良かった」

 なんだか安心すると同時に、どっと疲れが溢れてきた。

 俺は壁に寄りかかってズリズリと座り込んだ。

 しかし、次に頭の中に疑問が渦巻く。

 これから、どうしたら良いんだ?

 何を話したら良いのか、と言う問題については宙ぶらりんのままだ。

 俺は適当に話題を探しつつ、口を開く。

「なぁ、蓮野。このドア、開けてくれないか? ちょっと夕風に涼みたいんだが」

『嫌です』

 端的な拒否だった。

「イジワルしないで、俺も屋上に入れてくれよ」

『嫌です』

 機械的なまでに同じ返答を繰り返されてしまった。

 この強情さんめ……。

「蓮野……なんか、怒ってる?」

『怒ってません』

「いや、不機嫌なオーラが鉄扉を通り越して、こちらまでヒシヒシ伝わってくるんだが」

『怒ってません』

 こりゃ完全にヘソを曲げている。

 だが、どうしてだ? 原因が思い当たらない。

 俺と蓮野は休み前から会っていない。俺が蓮野に何かヘマをやらかしたとすれば、休み前になるはずだが、蓮野の機嫌を損ねるような行動は起こしていないはず。

 昨日今日ではそもそも顔すら合わせていないのだから、俺が蓮野に何か出来るはずもないし……あ、今朝チラッと顔を見たか。

 でも、あの時は……

「そういや、今朝、蓮野は俺になんて言ったんだ? 嘘つきって言ったように見えたけど、俺、何か嘘ついたっけ?」

『……つきましたよ、嘘』

 抑揚のない蓮野の声に、少し揺らぎを感じた気がした。

 嘘? 俺が嘘をついたって? 冗談とかではなく?

 蓮野の言う嘘と言うのは、悪意のある嘘と言う意味に聞こえる。

 だが、俺は蓮野にそんな嘘をついた覚えはない。いや、覚えのない嘘なんてのは最悪の例であるが、そんな嘘はついてない……はず。

 ならば蓮野の言う嘘とはなんだ? 俺は何をしたって言うんだ?

 俺が返事に困っていると、蓮野がポツポツと言葉を零す。

『嘘と言うと語弊があるかもしれません。そもそも、これは私が勝手に期待した事だと言えばそれでおしまいです』

「すまん、蓮野……何の話かわからん。俺が何か悪い事をしたか?」

『しましたよ。身に覚えがないとは言わないですよね』

 全く身に覚えがないわけだが……。

『いいえ、これも私の身勝手なワガママです。センパイの言葉を鵜呑みにするのは間違っているとは思いましたが、それでも期待せずにはいられないじゃないですか』

「俺の言葉? 鵜呑み? もっとわかるように説明してくれないか?」

『私だって、まだ十五の小娘ですよ。そりゃ色々あります。やっぱり友達を作った方が良いのかな、なんて悩んだり、色恋に思いを馳せたり、そういう事だってあります。そんな私に、センパイは何て言ったと思います?』

 俺が蓮野に聞かせた言葉。

 それは、蓮野の友達である事、信じて欲しいという事。

 そして願わくば、友人以上の関係になりたいという事。

『友達のいなかった私と、人が信じられなかった私と、センパイはいつも一緒にいてくれた。友達でいてくれるって言ってくれた。そりゃ嬉しくないわけないじゃないですか。私ぐらいの年頃なら、そんな事を言われたら嬉しくて、楽しくて……す、好きになっちゃいますよ』

「……お、おぉ!?」

 な、なんだか重要な事を仰ってる気がしますよ!?

『センパイは冗談めかしながら、私の事を好きだって言ってくれたし、何度も可愛いって言ってくれたし、そんなの嬉しくないわけがないじゃないですかっ! 好きになっちゃうのだって無理からぬ事ですっ! あなたがどこまで本気かわからなくったって、こっちが好きになっちゃうのは勝手ですよねッ!!』

 こんな真っ向から……とは言え、鉄扉を一枚挟んではいるが、蓮野から告白を受けるとは思っても見なかった。もうちょっとシチュエーションとかあるだろうよ。

 だが俺だって蓮野が好きだ。こんな風に言ってくれるのは正直に言って嬉しい。

 嬉しいのはやまやまだが、話の雲行きがおかしい。

 なにせ、この話の始まりは『俺が嘘をついている』と言う言葉からなのだ。

「は、蓮野さん? キミはもしかして……」

『嫌です! センパイの言葉なんか聞きたくない!』

 俺の言葉を封殺し、蓮野は声を荒げる。

『私の事が好きって言っておきながら! 私をこんなに好きにさせておきながら! なんなんですか! センパイは他に好きな女性がいるんじゃないですか!!』

「はぁ!?」

『やっぱりセンパイは年上の人が好きなんじゃないですか! あんな綺麗なお隣さんがカノジョなら、そりゃ嬉しいですよね! 私なんか、どうでも良いなら放っておいてください! もう私に近付かないで下さいッ!!』

「お、おい、蓮野!? なんだか凄い勘違いをしてるぞ! って言うか、なんで蓮野がハル姉さんの事を……!?」

 ……いや、待てよ。

 前にも蓮野との会話でこんな話題が持ち上がった。

 俺が年上好きなのか否か、と尋ねられた事があった。

 その時、蓮野はなんて言った? 信用できる情報筋を持っていると公言していなかったか? そう、星と言うなのピーピング野郎から情報を受け取っていると。

 つまり、蓮野は昨日の俺とハル姉さんの事も知っているわけだ。

「蓮野……まさか、昨日のキスの事……」

『聞きたくないです! どっか行ってください!』

「やっぱり知ってるんだな!? 違うんだって、アレは……ッ!」

 俺が立ち上がってドアに寄りかかると、鍵のかかっていたはずのドアがグラリと揺れる。

 いつの間にか鍵は外され、ノブが回っていたようで、俺は転がるように屋上へと入った。

「うおっ!?」

 何とか持ち前の身のこなしを持って無様に倒れるような事はなかったが、すぐに状況を察して青ざめる。

 蓮野が、屋上のフェンスの外側にいる。

「蓮野ッ!」

 それは自殺志願者の光景のようだった。

 まさかドラマなどで見かけるシーンを、この目で見る事になるとは思わなかった。

 俺は一も二もなく、蓮野に向かって駆け出していた。

「センパイの、――」

 俺が手を伸ばすのに、蓮野は冷たい視線をこちらに向けている

「――うそつき」

 今朝は聞こえなかったセリフが、風に乗ってやけにハッキリと聞こえた。

 不意に吹いた突風に煽られ、俺は足を止めて目を閉じる。

「蓮野ッ!」

 彼女の名前を呼んでみるが、返事はなかった。

 突風が止み、再び目を開けると、蓮野の立っていた場所には誰もいなかった。

「……そ、そんな……」

 喉が詰まり、胸が苦しくなる。

 目の奥が痛み、頭痛が走った。

 抑えようもない吐き気が襲い掛かってくるが、俺は胃からこみ上げる何かを必死で押さえ込む。

 どうしようもない現実を受け入れきれなかった。

 ……その時である。

『ムリッ! ムリッ!!』

 一際大きなムリの声が聞こえた。

 俺は目を疑った。


 それは哺乳類最大の動物。クジラ。

 図鑑やテレビなどで見た事はある。水族館でも小さめのヤツは見かけた。

 だが、これほど大きな物が存在するとは知らなかった。その上、コイツは身体が全部透けている。

 突然、体長数十メートルはあろうかと言うクジラが、こんな山奥の町に現れたのだ。

 しかもそいつは頭の上から潮を吹き、優雅に空を飛び始めたのである。

 吹き上げられた潮によって虹がかかり、空を飛ぶクジラは波を切るようにヒレを動かしていた。

 その光景はいっそメルヘンで、現実味の欠片もなかった。

 ただ、俺を現実に繋ぎとめていたのは、

『ムリッ! ムリッ!』

 メルヘンな光景におよそ似つかわしくないムリの鳴き声と、

「あ、あれは……ッ!」

 半透明の身体を持つクジラの、ほぼ中心近くに浮いている赤い球体。その中で窮屈そうに体育座りしているのは、間違いなく彼女だった。

「蓮野ぉッ!!」

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