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3-2

 恋は人を豊かにする、なんて聞きなれた文句ではあるが、俺はそれを実感していた。

 ハル姉さんに恋をしていた時には感じられなかった新たな気持ちが、俺の中に芽生えているのを感じる。

 そう考えてみれば、俺はハル姉さんに恋をしていたのではなく、単に近所の綺麗なお姉さんとして憧れどまりの感情だったのかもなぁ、なんて思わなくもない。

 さて、そんな新たな感情の萌芽に心を躍らせていた俺は、その後もウキウキワクワクしながら過ごした。蓮野と出会える昼休みや放課後が楽しみで仕方なかったのだ。

 まぁ、ニッコニコして話しかけたりしたら、すごく怪訝そうな顔をされて嫌がられたり、最近では本気で、ガチの心配をされた事もあったりしたが、僕は元気です。

 そんな日々を数日過ごした後、とある日曜日の事である。


 両親がデートに出かけた日の事だった。

 ウチの両親は、俺に兄弟がいない事が不思議なくらい、割りと頻繁にデートをしたりする。近所でも結構なおしどり夫婦と呼ばれているくらいなもので、たまに休日、暇な時間を見つけてはデートに出かけたりしている。今や四十を越えているというのに、お熱いことですなぁ。

 などと実の両親を心中で冷やかしながら、俺は夏の暑い日に外出する気も起きず、部屋でゴロゴロと漫画などを読んでいたのだが、その時、我が家のチャイムがなる。

 モニターつきインターフォンを覗き込むと、そこにはめかしこんでいるお隣のお姉さんが映っていた。

 俺はインターフォンの受話器を取り、

「何か用かね、お隣さん」

 と声をかけてみたが、ハル姉さんは不貞腐れたような顔で、

「出て来て」

 と短く返事をするだけだった。

 こりゃなにかあったな、とため息をつきつつ、俺は軽く身支度を整えて玄関先に出た。


「もう一度尋ねよう、何か用かね、お隣さん?」

「これ、付き合って」

 詳細を語らず、ハル姉さんは俺に紙切れを突きつける。

 紙切れに踊っている文字を読むと、どうやら映画の試写会らしい。

「ほぅ、珍しい物を持っていらっしゃる。映画の試写会なんか、彼氏と一緒に行けば良いじゃないか……って、あっ……」

 俺の言葉に反応して、ハル姉さんはものっ凄い不細工な顔で俺を睨みつけていた。

 普段は整ってる顔してるんだから、もう少しその変顔をやめたらどうだ……。

「ハル姉さん、もしかして、彼氏と行く予定だったのが……」

「ええ、ええ、潰れましたよ! 潰れたんですよ、あんチクショー!!」

 バッチリおめかしを決め込んでいるハル姉さん。

 不機嫌な面、俺を誘いに来て試写会。

 そこから導き出される答えは、彼氏と行く予定だったのに、先方のドタキャンなどによる事象から、試写会の予定がポシャった、と言うことだ。

 ハル姉さんも可哀想に……。

「何があったかは、深く聞かない方が良いのか? 破局、なんてことにはならんよな?」

「バカな事言わないでよ! カレシが、ちょっと……身内に不幸があったらしくて」

 うーん……その言い訳、よく聞くなぁ……。これは嘘かホントか確かめ辛いし、疑念は増すばかりですね……。

 だからこそ、ハル姉さんもこんな不細工な面をぶら下げて、俺を誘いに来たのだろう。

 不憫な娘……。

「よし、よかろう。今回は不肖、この俺がお相手を勤めさせていただこう!」

「よぅし、じゃあとことん遊ぶからね。試写会見終わっても、適当に遊ぶからね」

「え? ええと……うん、まぁ、多分大丈夫……」

 やっばい、この人、ホントに憂さ晴らしに俺をつき合わせるつもりだ、これ……。


 というわけで、近所の繁華街まで連れ出された後、俺たちは二人で映画館に入る。

 中で見せられた映画は、恋愛モノの邦画だった。

 正直、俺としては至極つまらない出来ではあったが、それでもハル姉さんと彼氏さんが見たら『面白かったねー』『ねー、また観に来ようねー』なんて話で盛り上がったりもしただろう。

 だが今や、それも叶わぬ夢、と言うわけだ。

 映画を観終わって、映画館のロビーに戻ってきても、ハル姉さんの顔は浮かない物であった。

 これは、俺がどうにかするか……。

「い、今の映画、面白かったね、ハル姉さん! また観に来ようぜ! って、次は彼氏と来るか! 俺なんかお呼びじゃないか! はははっ!」

「うーん、そうだねぇ。私的には映画の出来は五十点くらいかなぁ」

「うわ、こっちが盛り上げようとしてるのに、シビアな点数付けてんじゃねぇよ!」

「だってぇ、なんかあの女優さん、あんまり上手じゃなかったでしょ?」

「バカヤロウ! 彼女だって並々ならぬ努力を重ねて銀幕女優を演じているんだ! 貴様にその苦労の何がわかる!」

「えぇ、でも私は別に、一視聴者だし、お金払ってるわけだしさ。お金分の楽しみは欲しいじゃん? そこに貪欲にならなくてどうするよ? 視聴者だって妥協し始めたら、作る側もそこに甘んじちゃうでしょ? エンタメ業界だってダメになっちゃうよ?」

「あー、もー!! そういう事を話してると盛り下がっちゃうでしょ!? アンタ、よく彼氏と付き合ってられるな!?」

「……あ、もしかして私のこう言うところが嫌だったのかな……」

 あ、ハル姉さんが凹んだ。

 しまった! 盛り上げるつもりが、逆に凹ませてしまうとは! 俺とした事が、超絶ミステイクだっぜ!!

「いやいや、違う違う! 彼氏さんも、ハル姉さんのそういうところが好きになったんだと思うよ!? ホラ、俺みたいな凡百とは一線を画すセンスの持ち主、みたいな!?」

「でもそれって、私が変わり者って事は否定してないよね?」

「え、そこは否定しないよ?」

「ヒドっ! 君がそんな事言う子だとは思わなかったよ!」

「歯に布着せぬのも俺の美徳ですから」

「そんな美徳、捨ててしまえ!」

 よぅし、傍から見たらケンカかと思われるかもしれないが、これはハル姉さんのいつも通りの反応だ。どうやら凹みは解消できたらしいな。

 流石は俺。伊達にハル姉さんと長い付き合いはしてないぜ。

「ふん、お昼ごはんでも奢ってあげようかと思ったけど、君なんか自腹を切ると良いよ」

「私は晴佳お姉さまの忠実な下僕めでございます。あなた様をどうして変わり者などと言えましょうか。そのような事を言う輩がいましたら、私めがこの手刀で首を落としてご覧に入れましょう。だから昼飯奢ってください」

「現金な子だわ……」

 呆れたようにため息をつかれたが、その後に、とりあえずハル姉さんは笑ってくれた。

 ふぅ、良かった良かった。憂さ晴らしに付き合わされてるのに、逆に凹ませてしまうとか、俺の名声に傷がついてしまうからね。

 今日はハル姉さんを笑わせて、楽しませてナンボですよ。

 ……だが、なんだろう。

 ハル姉さんが笑った瞬間に感じた、胸の痛み。

 今まで感じた事のなかった、特殊な痛みであった。もちろん、物理的なものではない。

 これは……なんなんだ?


 その後、適当なファミレスで飯を突いている間も、胸に刺さったトゲのような痛みは消えてくれる事はなかった。

 痛みの原因には心当たりもあらず、俺にはどうして良いやらわからない。

 昼飯を突いていても、食欲が遠のいてしまう。

「どーしたぁ、少年。食が進んでいないようではないか。ダイエットかぁ? 男のクセに女々しいぞ」

「そんなんじゃねぇよ。……なんかこう、モヤモヤしてきた」

「……映画、やっぱり楽しくなかった?」

 うっ、変な勘繰りをされてしまった。

「違う違う! 別に、楽しくないわけじゃないんだよ。でもなんつーの? なんかおかしいんだよ、俺……」

「ふぅん? どれどれ、お姉さんに話してご覧なさい。君の先を行く人生経験から答えを導き出してやろう」

「良いよ、なんか適当な事言われそうだし」

「失礼な。私は占い師三段だよ?」

「うさんくせぇ資格だな、おい」

 あまり気にしすぎると、ハル姉さんにも悪いか。

 適当に話題を変えよう。

「そういや、ハル姉さん、大学の方はどうよ? 友達百人出来た?」

「君はまだまだ青い果実だなぁ、少年。大学と言う場所は友人を作るために行くのではなく、学問を修めるために行くのだよ。つまり、あまり合コンなどに誘われなくても悲観する事はないのだ」

「合コンに誘われないのは、アンタが彼氏持ちだからだろ」

「あー、そーねー。それはあるかも。でもさぁ、やっぱり遊びたい年頃じゃん? 合コンだって経験したいよー」

「ふむ、では今ここで合コンごっこしてみようか」

「えぇ~、ファミレスでぇ? 居酒屋とかがいいよー」

「アンタだってまだ未成年だろ。年齢確認されたら一発アウトじゃねぇか」

「チッ、仕方ねーな。少年のお遊びに付き合ってやるよ」

 俺の方がハル姉さんの要望に付き合ってやったはずなのに、なんだろう、この釈然としない感じは……。

 ま、まぁともかく、やるだけやってみよう。

「じゃあ、まずは自己紹介からしてみようか」

「えぇ~、その辺は端折っても良くない?」

「このワガママさんめ……じゃあ、王様ゲーム」

「エロガキ! お姉さんと王様ゲームを所望すると申すか!」

「王様ゲームが全部エロい方向にしか想像できないお姉さんの方がエロいんじゃないですかね!?」

「もっと健全なゲームしようよ。ほら、牛タンゲームとか」

「ファミレスで手をパチパチやってたら他のお客様に迷惑だろうが! って言うか、牛タンゲームって今時の大学生は嗜んでる物なのか!?」

「こら、さりげなく私の精神年齢をディスるんじゃない!」

 ヤバい、俺ごときでは今時の大学生の合コンレベルについていけない……。

 その上、合コン未経験のハル姉さんも知識に疎い。

 これは詰んだ……!?

「ハル姉さん、合コンは諦めた方が……」

「う、うん……いや、でも歴戦の合コニストたちが仲間にいれば、私もなんとなく楽しめるかもしれないじゃん!?」

「そうだと良いね……」

 俺は未来のハル姉さんが合コニストの仲間入りを果たせる事を切に願いつつ、目の前のハンバーグ定食を食べた。

「私の事はともかくさぁ、君はどうなの? 学校、楽しい?」

「え?」

 ズキリ、と胸の痛みが激しくなった気がした。

「お、どうした? お姉さんに隠し事かぁ?」

「いや、そんなんじゃないけど……学校は普通だよ。いつも通り。変わらん」

「へぇ、意外だね」

「……意外か?」

 まさかそんな評価を受けるとは思わなかった。

 俺なんて平々凡々な普通の高校生男子である。日々の変化なんてそうは見込めたりはしないだろう。

 これがもし、部活のエースなどであれば、ハル姉さんにも『レギュラーに選ばれたんだ!』なんて報告も出来る物だが、あいにく、俺は帰宅部一直線である。

「君って結構社交的じゃない? だったら、交友関係も広くなったでしょ?」

「ああ、言われてみれば。でも、そんな微細な変化を逐一報告していたら、今日一日では足りなくなってしまうぞ」

「だから、大きな事だけ。大事な友達が出来たとか……彼女、とかさ?」

 ハル姉さんの表情に、ちょっとだけ『試すような』ニュアンスが含まれた。

 探りを入れられてるのか。ふむ。

「ああ、そうか」

 そして、同時に、先ほどから感じていた痛みの正体を悟る。

 これは、罪悪感だ。

「……どうしたの? あ、図星だったとか?」

「いや、そんなんじゃなくて……さっきのモヤモヤの正体がわかって、俄然食欲が出てきた。ハンバーグ超美味そう」

「お、そりゃ良かった。奢ってやるんだから、どんどん食べなっせ」

 ハル姉さんの笑い声を聞きながら、俺はテキパキとハンバーグ定食を平らげる。

 食後に頼んでいたデザートも、驚くべきスピードで食べきった。

 俺は、この状況から早く脱さなければならない。


****


 言わなくては。打ち明けなくては。

 そうは思うが、なんて言ったら良いか、迷ってしまう。

 俺とハル姉さんはその後も街をブラつき、ウィンドウショッピングやカラオケなんかをこなして一日を過ごしていたのだが、俺が考えているのはずっと『それ』だった。

 どうにかして、ハル姉さんに話さなければならない。

 俺のこの痛みの正体について。

 俺はハル姉さんと一緒にいてはダメなんだ。これが痛みの正体なんだ。

 俺には好きな人が出来た。俺は蓮野の事が好きだ。

 だが、ハル姉さんと一緒にいると、安心してしまう。ハル姉さんが好きだった頃の自分を思い出してしまう。ハル姉さんに気持ちが寄ってしまう。

 それが、俺はどうしようもなく許せなくて、でも甘えたくなってしまい、心が痛みを覚えているのだ。

 だから、俺はハル姉さんと決別しなければならない。

 俺は蓮野が好きだ。俺は俺を裏切らないためにも、ハル姉さんにはその事をちゃんと話さなければならないのだ。


 そんな事を考えていると、その日、ハル姉さんと話した事、見た物、歩いた道なんかも覚えていなかった。

 こんな事、初めてだった。


****


 夕暮れの帰り道。一日を終え、俺とハル姉さんは我が家の前へと帰ってくる。

 こう言う時、お隣さんだと帰路がほぼ一緒で助かる。

「はぁ~、楽しかったぁ」

 ハル姉さんは伸びをしながら、ため息のように零した。

 そこにどんな意味が隠されているのか、俺は知りようもないけれど、今はまだ、ハル姉さんの顔が見られない。

 俺は、ちゃんとこの人に伝えないといけない。

「ねぇ、キミも楽しかった?」

 いつの間にか家のドアの前まで歩いていってしまっていたハル姉さんに話しかけられ、俺は自分でも面白いくらいに動揺してしまった。

「あ、えっと……楽しかったよ」

 上手く笑顔が作れたかどうかもわからない。

 そんな俺の微妙な心情に気付いたのか、ハル姉さんは怪訝な顔をしていた。

「なに? ちょっと詰まんなかった? ゴメンねぇ」

「いや、違うんだ。ホントに、楽しかった」

 変な勘繰りをしてくるハル姉さんに、俺は慌てて否定する。

 本当に今日一日楽しかったはずだ。

 だからこそ、これを最後にしなきゃいかん。

「ハル姉さん」

「……ん、なぁに?」

 俺はハル姉さんの目の前まで歩き、彼女を見下ろす。

 ちょっと前まではハル姉さんの方が身長が高いと思っていたのに、いつの間にか、こんなに身長差が出来ていたとは。近付いてみないとわからない物だ。

「どうしたの? お姉さんに甘えたくなったかな?」

「冗談を言うような雰囲気じゃない事ぐらい察せ」

「わかってるわよぅ、そっちが言い難そうにしてるからじゃん」

 ぬぅ、気遣わせてしまったか。これは失態。

 俺は一度、深呼吸をして意識を落ち着ける。

 ……うわ、ハル姉さんの匂いがした。ヤバい、逆に焦るかも。

「は、ハル姉さん」

「だから、何かね」

 ハル姉さんは変わらず笑顔だ。俺のすべてを受け入れてくれる。

 彼女はとても甘く、暖かく、心地よい。きっと人を堕落させる甘露があるのならハル姉さんのようなモノなのだろうと思う。

 だが、いつまでもそこに甘えてはいけない。

「俺……好きな人が出来た」

 俺の告白を聞いて、ハル姉さんはどう思っただろう。

 きっと、ハル姉さんはいつでも俺を弟分だと思っていた。だから、俺がそこまで察しているという事も気付かなかっただろう。

 案の定、ハル姉さんは驚いた顔をしている。

「だから、俺はもう、ハル姉さんとこんな風に会えない。遊べない」

 返答にはたっぷり余韻があった。

「……そっか」

 さっきとは違う、ため息のような感想。

 ハル姉さんは困ったように笑い、少し俯いた。

「それじゃあ、ゴメンね。今日だって辛かったよね」

「いいや、辛くなんかなかった。俺はハル姉さんが好きだったし、今日だって楽しかったのは嘘じゃない」

「キミは……優しいね」

 ハル姉さんが俺をキープとしてしか見ていないのは知っていた。

 いつの頃からだろうか、俺もそんな扱いに慣れ、別にハル姉さんの一番でなくても良いと思っていた。

 だが、今は違う。俺は蓮野のために一生懸命になりたい。ハル姉さんへの気持ちと繋がりが残っていれば、それは障害になる気がした。

 だから、決別しなきゃいけない。

 でも、これが今生の別れになるとは思っていない。何せ俺とハル姉さんはお隣さんだ。

 ハル姉さんがどこかへ引っ越していくまで、嫁いでいくまで、お隣さんとしての付き合いは出来るだろう。だが、今のままではダメなのだ。

「キミの好きな人って、年上?」

「いや、いっこ下」

「そうか……なら、良いかな」

 何が良いのか、俺にはわからなかったが、顔を上げたハル姉さんは笑っていた。

 そして、夕方になっても瑞々しい唇が動く。

「ねぇ、最後にキスしようか」

「……え?」

 戸惑った。動揺した。躊躇した。迷った。

 ハル姉さんの言葉を理解し、噛み潰すたびに鼓動が高鳴る。

 今、なんて言った? キス、しようかって言ったか?

「ハル姉さん……それは」

「ううん、別に特に意味はないよ。私からキミへの、今までの感謝と、ケジメのため。いつまでもキミに甘えてられないもの」

 ハル姉さんが俺に甘える? 逆だ。俺の方が甘えてる。

 感謝をするなら俺の方だ。ハル姉さんが望む事なら、俺はなんだってしてやる。

 だが、言葉が紡げず、心の中は淀んだ下心が埋めていく。

「ね、どう?」

 かすれるような声で、そんな事を言われて、俺は目の前が揺れるのを感じた。

 ハル姉さんは俺を見上げて、微笑んで、待っている。

 ホントに、して良いのか?

「私のためにも、お願い」

 ハル姉さんの腕が俺の腰に回る。引き寄せられる。

 不意に、彼女の顔が近くなり、短く唇が触れた。

 チユと水っぽい音が聞こえ、すぐにそれは離れる。

 目の前が真っ白になる。俺、今、キスしたのか?

「キミには、本当に感謝してる。ありがとう」

 ハル姉さんの声が聞こえる。視線を感じる。

 見ると、彼女はまだ俺の顔を見ている。潤んだ瞳が俺の目を射抜いていた。

 目を逸らせない。彼女の腕が俺を抱えて離さない。

 もう一度、ハル姉さんの顎がクイと上を向く。

 それを見て自分が抑えられなくなった。

 今度は俺から顔を近づけ、二度目のキス。

「……ん」

 ハル姉さんの艶っぽい声が聞こえる。

 今度こそ、ちゃんと唇の感触が残るほどに長いキス。

 自然と、俺の腕は彼女の身体を抱き寄せ、髪を撫でる。

 ハル姉さんの吐息を感じる。鼓動が早くなる。

 ツ、と。俺の唇に触れる物が。

 割って入ろうとしているのは、舌だ。

 それに気がつくと、俺も少し口を開け、舌を差し出す。

 絡み合う唾液と舌。気付くと水っぽい音が激しくなり、

「ん……んふ……んぅ」

 ハル姉さんの声もどこか扇情的だ。

 トン、とハル姉さんの背中が家のドアにぶつかる。

 その時、俺の胸に手が当たった。

「……ん」

 甘く、激しい時間が終わりを告げる。

 俺の胸に当たった手は、俺の身体を引き離す。

 口元を押さえ、俯いたハル姉さんは、俺の身体を押し返していた。

「これ以上は、ダメ。止まらなくなっちゃう」

 そんな事を言われて、俺は気付く。

 な、何をやってるんだ、俺は……。

 俺はハル姉さんと決別するために、今日を一日過ごしたというのに。

「ゴメン、ハル姉さん、俺……」

「ううん、キミの所為じゃないよ」

 まともにハル姉さんの顔が見られない。

 どんな顔をして良いかわからない。

 そんな俺に対し、ハル姉さんは最後に呟くように言う。

「ありがと」

 俺が顔を上げると、ドアが閉まる音だけが残った。

 お隣さんの玄関前で、俺だけがポツンと残された。


****


 数時間後。

「ただいまぁ~」

 玄関から母親の声が聞こえた。

 だが、俺はそれに返事をする気力もなかった。

「あ? いるよね? 靴あるモンね?」

「寝てるんじゃないのか?」

 両親が勝手に勘違いしてくれたのはありがたい。このまま狸寝入りを決め込もう。

 俺は今、誰かと話すような心理状況ではない。たとえそれが家族だったとしても。


 俺はとてつもない自己嫌悪にさいなまれていた。

 俺は……最悪だ。最低だ。クズ野郎だ。

 明日、休み明けに、俺はどうやって蓮野と顔を合わせれば良い?

 夜が更けていくのに、俺は眠りにつく事も出来なかった。

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