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2-2

 そんな俺の嫌な予感と言う物が、人生で初めて的中し始めたのは、翌日の朝からだった。


 朝とは素晴らしい時間である。たとえ夏だと言えど、柔らかく、かつ暖かに俺を包み込んでくれる布団と言うのは至福のプレイスであるとは言えないだろうか。

 人はそんな楽園とも言えよう場所から出たがりはしない。世間のしがらみや生理的な都合などがなければ布団から出たがる人間はそうそういないだろう。

 いくら人間が出来ている俺であっても、そんな布団の魔力には抗う事が出来ず、扇風機をブンブン回しながら部屋でゴロついている。二度寝に陥ったとしても目覚まし時計という名の下僕が時を告げてくれるはずだ。俺はヤツのやかましい音に反応して、嫌々ながらも朝の準備を整えればいいわけだ。

 しかし、その日の朝、俺を起こしたのは母親の怒声だった。

「こら! いつまで寝てるつもりなの!? 学校休む気か!? 授業料は誰が払ってやってると思ってるんだぁ!?」

「えっ!? あれ!?」

 乱暴にドアが開け放たれ、寝耳に稲光のような音量の声をぶつけてくる母親。俺はそんな奇襲にまんまと引っかかり、慌てて目覚まし時計を引っつかむ。

 時刻は五時半過ぎくらい。……あれ? いや、でも秒針が止まってる。

「あ、そう言やアンタの時計、今朝は鳴ってなかったよ。電池変えときなさいね」

「ちょっと待たれい、我が母親よ! 今現在の、出来るだけ正確な時刻はどんな感じなんですかね!?」

「午前八時半くらい。遅刻ギリギリだね☆」

「もっと早く起こしてくれてもいいんじゃないですかねぇ!?」

「どの口が言うのよ! 数年前にアンタが吐き捨てた言葉は忘れてないからね!」

 そう言えば、随分前に『朝だからと言って勝手に部屋の中に入ってくるのはプライバシーの侵害に当たります! 家族の中にも礼儀ありです!』と宣言した事があった。

 母は未だにその言葉を忘れず、根に持ち、いかなる時であろうと緊急の用事がある際以外には俺の部屋にみだりに立ち入ったりしていないようだった。その所為で俺が自ら自室の掃除をしなければならなくなったのは自業自得であろう。

「寝ぼけた事言ってないで、さっさと準備して降りて来なさいね」

 ため息をつきつつ、母はなんだか香ばしい匂いがしてくる一階へと降りていった。

 ……この匂いは……?


「いやぁ、慣れない事はするもんじゃないわね」

 テヘッ☆ と可愛くウインクをかましながらはにかんでいる我が母親に、軽い苛立ちを覚えてしまうのも無理はないと思う。

 彼女はなかなか起きて来ない俺のために、朝食を準備してくださったようなのだが、今朝は何を思ったのか、フレンチトーストなる料理を試してみよう、としたらしい。

 台所には卵や牛乳などが置いてあり、準備段階までは手際よく進んでいたのが窺える。

 だが、詰めが甘かったのだろう。

 出来上がったのは真っ黒こげのパンであったものだった。

「ちょっと焼きすぎちゃった☆」

「ちゃった☆ じゃねぇよ! なにこれ!? 今時、ドジっ娘でもこんな豪快なミスかまさねぇよ!? ちょっとミスったレベルじゃ、こんな黒くなりませんよね!?」

「いやいや、仕方ないんだって。隣の奥さんがなかなか話の終わらない人でね」

「火をかけながら台所を離れてるんじゃねぇよ!?」

「まぁまぁ、ともかく、母の愛情が詰まったフレンチトースト、とくと召し上がれ」

「作ってくれたのは純粋に感謝するが、その愛情は受け取れねぇよ!」

 くそぅ、しかもちょっと冷蔵庫の中を確認してみたら、適当に食べられそうな物もないし、今から通学途中でどこかに寄って買い食いしてる暇もねぇ!

 午前の授業は空腹と戦いながら過ごさなきゃならんのか……。いや、待てよ……!?

「そうだ、早弁! 弁当を早めに食べてしまうと言う禁忌の技を使えば……ッ!」

「あ、ゴメンね。アンタの弁当、作ってないわ」

「なんでッ!?」

「フレンチトーストと格闘してたら、時間なくなっちゃって。テヘッ☆」

「可愛く笑えば許すと思うなよぉ!?」

「お父さんは許してくれたもん」

「もん、じゃねぇよ! 何で今朝はそんな可愛さアピールしてくるの!? 失敗した上でやられても苛立ちしか募らないし、そもそも母親に可愛さアピールされても、息子は困惑するばかりですけどぉ!?」

「なんなの、少年。反抗期?」

「反抗期だったら、今もう手が出てますけどぉぉぉ!!」

 そんなわけで、俺の午前中のエネルギーチャージは牛乳がコップ一杯分のみとなった。


「いや、ホントゴメンね。明日からはちゃんと気をつけるからさ」

「……母さんの所為じゃないよ。俺だって別に、本気で怒ってるわけじゃないし、そもそも俺が寝坊なんかしなけりゃどうにでもなったんだ。自業自得だよ」

「うわ、なにそれ、ツンデレってヤツ!?」

「うわ、イラつく」

 などと言う玄関口での一幕を交えつつ、俺は母親から昼食代として受け取った金を財布へ突っ込み、通学路を歩き始めた。

 朝食を取る時間がなくなった事で、微妙ながら遅刻確定ルートからは外れる事が出来た。この辺は不幸中の幸いであろうか。

 ただ、どこかコンビニなどで食い物を買うような余裕はないけどな。チクショウ。


****


 更にその後、通りかかった野良犬に蹴躓きそうになったり、カラスの糞とニアミスしたり、車に轢かれそうになったり、通学時にもイベントは盛りだくさんだった。

 もしかして今日がいわゆる厄日と言うヤツなのではなかろうか、と思ってしまうほどの不幸イベント目白押しではあったが、一つだけ幸運と呼べる事があった。

「おっす、蓮野。朝に会うなんて珍しいな」

 通学路の途中で蓮野と出会ったのである。

 蓮野の家がどこにあるのかはワカランが、今まで会わなかった事を考えると、多分俺の家の近所ではないんだろうな。と言うか、俺ですら遅刻ギリギリなのに、蓮野はこんなゆっくり歩いていて大丈夫なのだろうか……。

 そんな事を考えていると、振り返った蓮野が露骨に嫌そうな顔をした。

「あ……センパイですか。そうですよね、私に話しかけてくるのはセンパイぐらいしかいませんもんね」

「あっれ、なんで残念そうなの? おかしくね? 朝っぱらから俺様のような超イケメンに出会えたんだから、少しは嬉しそうな顔しろよーぅ」

「うわぁ、うれしーい」

「うわぁ、超棒読み」

 蓮野の反応はいまいちだったが、ついこないだまでは返答も無味無臭な、色気も味気もないモノばかりだった事を思うと、表情豊かになったと思うべきか。

「なぁ蓮野。折角、通学路で出会ったんだから、一緒に登校してもいいよな?」

「……どうせ、私が拒否してもついて来るくせに」

「目的地が一緒なんだから仕方ないだろ。これはもう不可抗力だな」

「センパイは朝から元気がいいですね……」

「いやいや、そんな事ない。今日はここ最近でも特別元気がないくらいだ」

 なにせ朝飯抜いてるんだしな。

「元気がなくてそれなら、いつものセンパイは飛び切り鬱陶しいんでしょうね」

「もーぅ、さりげなく連続でディスるとか、今日の蓮野は切れ味いいなぁ!」

「うわ、テンションがウザい」

「幾ら温厚な俺でも、あんまりディスられると凹んじゃうゾ☆」

「センパイ、ホント、大丈夫ですか?」

 うわ、マジトーンで心配されてしまった。

 空腹も極まると、蓮野に心配されるレベルになるらしい。

「いや、実は朝飯を食ってなくてね。ちょっとテンションがおかしいのは自覚してるところだ。ついては蓮野が何か小腹を満たせるようなモノを持ってたら分けて欲しいのだが」

「食べ物ですか……?」

 首を傾げながら、蓮野は自分のカバンを漁り始める。

 チラリと覗くと、小さな鏡や化粧ポーチが入ってる辺り、女子高生だなぁ……。

「なに覗いてるんですか。プライバシー侵害とセクハラで訴えますよ」

「いや、スマンスマン。食べ物が待ち遠しいんだ」

「そう言われても、そんな都合よく食べ物なんて……あ」

 蓮野が取り出したのは箱がベコベコになっているプリッツだった。

 今までカバンの底で、教科書群の荒波にもまれたのであろう。直方体だったはずの箱は、今や狂気を帯びてしまいそうな多面体となっていた。

「ち、因みに、そのプリッツはいつからカバンの中に入ってたんだ?」

「さ、さぁ……私、実はプリッツとかあんまり食べないんですよね」

「じゃ、じゃあ、どうしてカバンの中に……?」

「全く見当もつきません」

 出所不明、放置期間不明のプリッツ。

 未開封の状態でそうそう痛むような物でもないとは思うが、しかし……。

「いや、ここはあえて頂こう」

「え、マジですか? 賞味期限とかヤバそうですよ」

「蓮野くん、知っているかね。賞味期限とは『美味しく食べられる期間』を保障する物であって、消費期限が切れてないなら大丈夫なんだよ!」

「それは……なんか詭弁って気がします。というか、消費期限も多分切れてますよ」

「それに、消費期限も賞味期限も、別に確固たる根拠があってつけているわけではないと聞く。どうやら製造会社が勝手に決めているそうなのだ! であれば、それほど重要視する必要はないとは思わんかね!?」

「いや、企業の方も統計取って、色々研究を重ねた上で賞味期限も消費期限も設定してるでしょうから、根拠はあるでしょうよ……」

「グダグダとうるさいな! どうせ蓮野は食べないんだろ!? だったら寄越せよぅ!」

「……別にあげても良いですけど、お腹壊しても私の所為にしないで下さいよ?」

「それはその時による」

 まだ何か言いたげな蓮野からプリッツを奪い、誰もが目を見張るスピードで箱と袋を破り捨て、中身をこれでもかと頬張る。

 バリバリと音を立てて噛み砕かれるプリッツたちを見て、蓮野は今、何を思っているのだろうか?

「因みに、私が今確認した所によると、賞味期限は三ヶ月前でした」

「う……リアルにヤバい数字を出してくるな……」

 この後、俺がどうなるのか……乞うご期待☆


****


「お腹痛くなったら、ちゃんと保健室に行くんですよ」

 なんて、母親みたいな事を言い捨てて、蓮野は自分の教室へと向かってしまった。

 仕方ないので、俺も二年四組へと足を運ぶ。

 そこで待っていたのは、なんだかいやらしい笑みを浮かべた男子だった。

 彼の名は隅谷好助。見知った顔ではあるが、特に友人関係ではない。

「よぉーぅ! 今日は可愛い娘を連れてご登校だったそうじゃないの! なぁなぁ、あの娘、誰なん? 妹? 似てなかったけど。まさかカノジョって事ぁねぇよな?」

 彼の言葉の印象の悪さからか、俺は隠しもせずに迷惑そうな顔を貼り付けた。

 クラス内でもあまり喋ったことのない人間に唐突に話しかけられても、営業スマイルを浮かべるだけの器量は備えていると自負していたが、どうやらそんな看板も下ろさなければならないらしい。

 そして一筆加えよう。『時と場合と、話しかける人物による』と。

「隅谷、まさか蓮野を落とそうとか思ってるわけ? やめとけやめとけ。近寄る傍から斬り捨てられるのがオチだぞ」

 一応、クラスメイトのよしみで忠告をしてやるが、彼はだらしない笑顔でニヘニへと笑うばかり。事のハードルの高さを全く理解していないようだった。

「またまたぁ! そんなイジワルせずに教えてくれよぅ。名前は蓮野って言うのかぁ。なんかそれっぽいよなぁ。ハスの花って高貴な感じするし! で? で? 何年何組? 年下っぽかったけど、後輩だよなぁ?」

 隅谷の質問は止まず、俺は強引に会話を無視するように、自分の席へと座った。

 すると、目の前に隅谷が座る。

「そんな邪険にする事ねーじゃんよぉ! な、ちょっとでいいんだ。あの娘の事を教えてくれよ。学年、クラス、出席番号、携帯番号、メールアドレス、住所、生年月日、スリーサイズ、何でもいいから!」

「後半に行くに連れてプライバシーレベル上がってるじゃねぇか。そんな下心見え見えな輩に、大事な後輩の個人情報を教えられるか」

 って言うか、後半は俺が知りたいわ! 電話番号すら知らんぞ!

 だが、そんな俺の言葉も隅谷にとっては隠し立てと言う行為に当たるのか、しつこく食い下がろうとする気配が感じられる。

 だが、時既に遅し。

 彼が口を開こうとすると、朝のホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り、ほぼ同時に担任がやって来た。

「おーし、席に着けぇ。出席取るぞぉ。今、自分の席に座ってないヤツは欠席扱いだからなぁ」

 そんな担任の言葉に、隅谷も諦めざるを得なかったか、渋々と自分の席へ戻っていった。

 やれやれ、朝から不幸続きだったが、これでしばらくは落ち着けるだろう。

「……って、あれ?」

 落ち着いて、授業道具を机の中に移動しようとカバンをあさったが、どう頑張って探しても筆入れがなかった。

 どうやら家に忘れてきたようである。

 くそぅ、細かい不幸は続くのか……。


****


 その後も、授業ではわからない問題の時ばかり教師に指名され、科学の実験で実験道具を壊し、体育の授業ではサッカーボールを顔面でキャッチする、などなど、色々な不幸を味わった。不運の後には幸運がやってきても良さそうなのに、今日の俺には運命が反転するような兆しすら窺えなかった。

 更に加えて、休み時間には隅谷から執拗に追い回され、蓮野の事について聞かれる。

 やれ『どんな趣味』だの、『どんな声』だの、複数の質問をまくし立てられるので、休み時間ですら休む事が出来ず、俺は午前中だけでもかなり消耗してしまった。


 そして現在、昼休み。

「なぁ、そろそろ答えてくれよぅ」

「断固拒否する」

 飯を食ってる傍らで、隅谷はくじけずに、俺に質問を投げ続けている。その精神力には感服してしまうね。

 俺の拒絶オーラを感じながらも、めげずにかかってくる様は、いっそ子犬か何かを連想させるようで、隅谷にも愛嬌を感じてしまうぐらいだ。いや、俺は断じてそちらの気はないのだが。

「ってかさぁ、」

 そんな隅谷の喋る調子が変わる。

「お前って最近、昼休みにずっといなかったけど、あの娘のところ行ってたの?」

「だったら、どうだってんだよ?」

「もしかして……実はお二人、付き合ってたりとかすんの?」

「ありえないね。色々と悲しいことだけどな」

 幾ら俺が蓮野を想おうとも、彼女の方は容赦なく切り捨ててくるだろう。

 俺の返答を浮け、隅谷はカラッと笑う。

「そーだよなぁ。お前って確か、二年年上に好きな人がいるんだもんな!」

「……ッ!?」

 その言葉は聞き捨てならなかった。

 無意識の内に、俺はその場に立ち上がっていた。

「え、なんで知ってんの?」

「は? だって有名じゃん。お前、幼馴染のお姉さんが好きなんだよね?」

「ゆ、有名!? ば、バカな……俺は今まで隠し通してきたつもりだったのに」

「バレバレだったぞぉ。森野センパイだっけ? あの人の前じゃ、お前っていつもと調子違ってたじゃん」

 ま、マジか……そんなにわかりやすかったのか、俺……。

 ポーカーフェイス有段者だと思っていた俺が、まさかのミステイク。こりゃ幼馴染なんて切り札を持っていても勝てないわけだわ……。

「ああ、でも俺とハル姉さんは付き合えない事になりました。見事、失恋したのです」

「へぇ。意外だな。結構仲良かったと思ったんだが」

「仲良すぎて逆にって事なのかな。ハル姉さんは同級生のイケメンと付き合い始めて、そろそろ丸一年が過ぎようとしてる。……って、何でキミにそんな事を話してるんだろうな、

俺は」

 隅谷の愛嬌に騙されてしまったか、ぽろっと言わんで良い事を言ってしまった気がする。

 そう、我が家の隣に住む森野晴佳は、俺の初恋であり、片想いであったのだが、彼女は去年の今頃、彼女の同級生であったイケメン男子と付き合い始めていたのだ。

 その時から俺の恋は終わり、自然とハル姉さんとも距離が出来た。

 こないだ家の前で出会ったのも随分久々だったものだ。

「じゃあ、やっぱり件の蓮野さんが好きなのか? 狙ってるのか?」

「あのなぁ、隅谷くん、男と女の関係は惚れた腫れただけじゃないんだよ。思考が下半身に直結していると、犬ではなくてサルと間違えられてしまうぞ」

「いやぁ、雉がいいなぁ」

「桃太郎の話はしてねぇよ」

 コイツ、切り返しのチョイスがおかしいぞ……。

「ともかく、俺と蓮野はなんでもねーの」

「じゃあ色々教えてくれたって良いじゃん」

「一応、知り合いの後輩なんだよ。キミみたいな人格の人間に、個人情報をひけらかすわけがなかろう」

「俺みたいな人間って、どんな?」

「頭軽そうなヤツって事だよ」

「うわ、ひっでー言い方!」

 直球な悪口も笑顔で返す辺り、この隅谷と言う人間……侮れん。


****


 その後も続いた隅谷の追撃をのらりくらりとかわしつつ、昼休みは終わりを告げた。

 ここ最近、日課となっていた一年二組への訪問も、今日で連日記録をストップしてしまう事になったのは、すこし惜しいかなと思う。これは隅谷に責任を追求してもいいと思ったが、逆に蓮野の事について質問責めにされそうなので、今日はヤツに近づくのはやめておこう。

 いや、こちらから近付かずとも、ヤツから寄って来る可能性もある。五時間目は授業を放って、隅谷対策を練っておくか……。


 ……などと考えている間に、五時間目が終わっていた。

 授業で何をやっていたか全く覚えていないが、まぁそう言う事もあるよね。ただ、致命的なのは宿題を出されたそうなのだが、その範囲が全くわからないと言う事だ。あとでクラスメイトの誰かに聞くのが正攻法だが……不運続きの今日、クラスメイトに質問するだけでも一難が待ち受けてそうな気がするね。

 これは気合を入れねばならんな。

 そんな俺が鷹の目を光らせ、誰に聞けば良いかをじっくり品定めをしている途中、ふと教室の外に見知った影を見つける。

 教室の扉の前でウロウロと視線を彷徨わせているのは、どう見ても蓮野だった。

 いかんな、隅谷に見つかっては一大事だ。

 チラリと隅谷を確認すると、友人たちとご歓談中のようだ。ふふふ、そのまま駄弁りに花を咲かせて一世一代のチャンスをふいにするが良い。

 俺は出来るだけ音を消して立ち上がり、教室のドアまで近付く。

 ある程度近付いた所で蓮野もこちらに気付いたようで、一瞬笑みを浮かべたかと思うと、一転して不機嫌そうに口を曲げた。

「よぅ、蓮野。そっちから来るなんて珍しいな」

「……私だって来たくて来たわけじゃありませんけど」

 プイとそっぽを向かれる。あれ、思ったより機嫌が悪そうだな?

 俺、今日、なんかしたっけ?

 我が事ながら全く身に覚えがない。何せ、今日は朝以外、蓮野には近付いてないのだ。ヘマをするチャンスすらないワケだね。

 だったら、蓮野はどうしてヘソを曲げてるのだろう?

「センパイ、今日の午前中、何してました?」

「え? 普通に授業受けてたけど……そうそう。聞いてくれよ。今日は超厄日なんだよ」

「厄日……ですか?」

 蓮野がふと神妙な顔つきになる。

「具体的には何があったんです? も、もしかして、保健室に駆け込んだんじゃ……」

「いや、それほど酷い事にはならなかったけどさ。体育でヘマしたり、実験で道具壊したり、今日だけでいろんな人に怒られたりなじられたりしたぜ」

「……へぇ」

「うわ、興味なさそうね、キミ。そっちから質問してきたんだろうが?」

「それはそうですけど……そうじゃなくて……」

 そこまで言って、蓮野はモゴモゴと口篭る。

 いつもは言いたい事をズバズバ言ってきたはずなのに、これほど良い淀むと言う事は、何かしら重要な案件を抱えてると見た!

「蓮野、言い難いなら場所変えようか?」

「変な気の回し方しないで下さい」

「あっれぇ!? 親切心から申し出たのにその反応!?」

「あ、いえ、心遣いはありがたいですけど、別に言い難い案件とかではなくて……あぁ、もう」

 心なしか、蓮野の顔がだんだんと赤くなってきている気がするが、どうしたんだろう? 別にこんな所で愛の告白をするわけでもないだろうし、熱があるわけでもないだろう。

「なに、恥ずかしい事言うの?」

「茶化さないで下さい」

「う……すみません」

 めっちゃ睨まれてしまった。視線だけで殺されるかと思った。

 その後、蓮野は幾度か深呼吸した後、俺と目を合わせずに口を開く。

「きょ、今日は昼休み、来なかったじゃないですか」

「ああ、ちょっと鬱陶しいヤツにくっつかれてね。ヤツを撒くのに手間取ってしまった」

「そ、そういう事でしたか……」

「なに、寂しかった?」

「そ、そうじゃなくて! そうじゃなくてですね!」

 慌てて否定する辺り、可愛いねぇ、可愛いねぇ。自然と顔が綻んでしまいますわ。

 でもまぁ、そんな本心を見破られると、蓮野は確実に機嫌を損ねるので、ポーカーフェイスを……って、ああ、俺、ポーカーフェイスがダメなんだった。

「センパイ、なにニヤついてるんですか」

「いやいや、俺の事は気にせず、続きをどうぞ」

「続きって……別に……」

 なんだろう、この……目の前で美少女が少し頬を染めながらモジモジと身をもじってる風景……これが眼福と言うヤツなのだろうか。

 蓮野にはニヤついてるのを突っ込まれてしまったが、こりゃニヤつくなと言うのが無理だろう。

 なんか、何時間でも眺めてられそうだわ……。

「あのですね、センパイ」

「お、おう」

 気を抜いてたら、どうやら蓮野も覚悟を決めたらしい。

「私がここへ来たのは、その……朝に渡したプリッツが原因で、センパイが体調を崩したのではないか、と……」

 あ、そう言えばそんな事もあったか。

 確か三ヶ月ほど賞味期限を突破していたようだが……俺の身体はなんともないな。

 意外と痛んでいなかったのか、それとも俺の身体が頑丈だったのか。

「もし、私の所為でセンパイが体調を崩したんだとしたら、お、お見舞いぐらいした方が良いかな、と」

「はぁ、なるほどなぁ」

「……迷惑でしたか?」

「全然! むしろ来てくれて嬉しかったけど……蓮野は面倒じゃなかったか? 上級生のクラスって結構プレッシャーかかるだろ?」

 つい先日、俺も三年生のクラスにお邪魔したが、あの時はなんだか居た堪れない雰囲気もあったしな。

「別に、プレッシャーとかはないですよ。アウェーな雰囲気なんて、どこでも感じてますから」

「そりゃ、キミが勝手に作った雰囲気だろうに……」

「ともかく! センパイは気にしなくて良いんです! その……と、友達を心配するのは当然ですからッ!」

 顔を真っ赤にして、そんな宣言をする蓮野。

 その言葉も仕草も、何もかもが可愛くて、気を抜けば抱きしめてしまいそうだったが、理性でその衝動を押し留め、俺は両の手を強く握る。こんな公の場で女子に抱きついたりしたらセクハラで訴えられた上に、俺の名声は地に落ちてしまうだろう。

 だが……蓮野がスゲェ可愛い!!

 ヤバい、なにこの娘! 悪女だわ! 男をたぶらかす魔性を持った悪女がいる!

「センパイ? どうしたんですか?」

「あ、いや、ちょっと蓮野の魅力に負けそうだった」

「は、はぁ!? いきなりなに言い始めるんですか!」

「仕方ないだろ! キミはもう少し、自分が見た目可愛い事と性格もツンデレ入ってる事を理解した方が良い!」

「褒めても何も出ませんよ」

「褒め言葉を真っ向から受け止める姿勢は評価したいけどね」

 って言うか、今のを褒め言葉と取るか……いや、褒めたつもりなんだけど。

「まぁ、蓮野の心遣いはありがたく受け取っておくよ。サンキュな」

「あ、いえ……」

「しかし、俺個人としては『友達』と言う肩書きについて、すこし異論を述べたいね」

「え……?」

 俺の言葉を聞いて、何故か蓮野はスッと青ざめる。

 目から光が失われているようだ。漫画的表現を用いるならば、レイプ目で蒼い縦線が顔に入っているだろう。

「そ、そうですよね、私なんかがセンパイの友達だなんて、付け上がりましたよね……」

「いやいや、何で急に卑屈になってるんだよ!? 違うし! 俺が異論を述べたいのは、友達である事と言うよりも、友達止まりである事についてでだね!」

「え、それって、どういう……?」

「だから、友達よりも、より深い関係を目指したいと言う意味で……」

 あー、なんか説明するのも恥ずかしくなってきた。

 蓮野の顔も血の気を取り戻し、むしろさっきまでのように紅潮し始めている。ヤバいな、俺も顔が熱くなってきた。

「おーい、ちょっとよろしいかなぁ!?」

 そこへ突然、背後からの襲撃。

 馴れ馴れしくも俺と肩を組み、会話に乱入してきたのは……

「す、隅谷!?」

「こんにちわ、クラスメイト! そして麗しい後輩!」

「……センパイ、誰です、この人?」

 一瞬にして、蓮野の顔がクールな仮面に戻っていた。顔の紅潮なんてありませんでしたが、なにか? とでも言いたげだ。その変わり身の早さにも唸ってしまうね。

「コイツは隅谷。俺の……一応はクラスメイトなんだが……」

「こぉんにちわぁ、蓮野さん! 俺の名前は隅谷好助! 仲良くしようねぇ!」

 馴れ馴れしい雰囲気をバンバン発しているが、彼は蓮野の顔が見えないのだろうか。

 さっきからずっと眉を寄せ、眉間にしわが寄りそうな雰囲気を醸し出している。女の子がそんな顔をしちゃいけません!

「失礼ですが、隅谷さんはセンパイとどの程度のご友人なんですか?」

「つい今日まで、会話もまともにしなかったレベルかな」

「つまり、センパイはあまりこの人と仲が良くない、と」

「歯に布着せないとそうなる」

 俺の返答を受けた蓮野は、小さく『わかりました』と呟いて頷くと、目を紅くする。

 あ、これアレだ。変な力使う時のヤツだ。

 と、俺が思った瞬間である。

「じゃあ、俺は用事があるから、これでぇ」

 フッと生気をなくしたような顔になった隅谷は、俺の肩から手を退け、教室の中に戻っていった。

 フラフラとした足取りは周りの人間からも心配を投げかけられる程度であったが、隅谷は『大丈夫大丈夫』と手を振って、自分の席に着いた。友人からは至極心配そうに接されている。正直、俺も状況が読めなければ保健室へ連れて行こうかと提案してしまうぐらいだった。

 俺も蓮野と初めて会った時、下手をすればあんな感じになっていたかもしれないのか。恐ろしいな。

「センパイ、友達は選んだ方が良いですよ」

 振り返ると、ふくれっ面の蓮野が。目の色は既に元に戻っている。

「蓮野はヤンデレの素質もあるのかもな」

「そんなの、ありませんよ。病んでなんかいませんから」

 ツーンとそっぽを向いた蓮野は、小さく会釈をするとそのまま廊下を歩いていってしまった。

「蓮野ぉ、ホント、ありがとうな!」

 最後に声をかけると、蓮野は背を向けたままプラプラと手を振り、廊下を曲がって行った。

 ……まぁ、今日のところは蓮野の可愛い姿を見れたので、良しとしよう。

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