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アレから数日後。
俺は毎日のように、昼休みに一年二組の教室へと通うようになっていた。
周りの下級生からは『同学年に友達のいない、可哀想な先輩』とでも思われてるのか、はたまた『クラスに馴染めていない女子を放っておけるならしめたもの』と考えているのか、二、三日経った辺りからは、それほど気にもされなくなった。
誤解のないように言っておくが、俺は別に友達がいないわけではない。特別親しい友人がいないのは事実であるが、我がクラスに居場所がないワケではないのだ。いや、ホントに。信じてね?
そんな可哀想な視線で見られる事にも慣れてきた昨今、俺は今日とて蓮野の前の席に陣取り、彼女が文庫本を読む風景を眺めている。
「センパイはいつも、そんな風に私を眺めていて楽しいですか?」
「これもこれで悪くはないと思うよ」
チラリ、とこちらを窺ってきた蓮野に対して、俺は笑顔で返答する。
考えても見たまえ。美少女がいる風景を眺める男が、どこに不幸を、不満を抱えていると言うのだろうか。
「惜しむらくは、眺めているだけじゃなく、蓮野とお話がしたいけどね」
「それは無理です、不可能です。諦めてください」
簡単にバッサリと切り捨てられ、俺はいつものようにため息をついた。
アレから数日経ったのだ。
にも拘らず、蓮野は未だにこんなに冷たい。
普段の蓮野を眺めていればわかる事ではあったが、彼女は基本、誰に対してもこんな感じなのだった。クラスメイトに対しても、話しかけられれば受け答えはするが、これと言って話題に華を咲かせようとはしない。
極力、自分に他人を関わらせないようにしているのだ。
それには、あの『ムリ』とやらが関係しているのだろう。
変に友人を作って、蓮野の抱えている異常な事件に巻き込みたくないのだ。
それは蓮野自身が言った事だし、そこに嘘はないだろう。
だが、他人を巻き込みたくない事と、友人を作りたい気持ちは相反する物だろうか?
蓮野を見ていると時々思う事がある。
文庫本に走らせている視線が、時折迷うのだ。
それはクラスに響く笑い声であったり、外から聞こえてくる元気の良い掛け声であったり、色々な物に反応して、文字でないモノを追う。
そんな視線の揺らぎに、俺は蓮野の本心を見ているような気がしているのだ。
故に、俺はここに来るのをやめない。何故なら、蓮野の不思議な力が効かないのは、今のところ俺だけなのだから。
もし、俺にも彼女の力が通用するなら、蓮野は即刻、俺を遠ざけるようにするだろう。
それは彼女の覚悟が故に。他人を危険に晒したくないという正義感故に。
でも俺にはそれが通用しないから、蓮野は仕方なく、俺を遠ざける事はせず、ここに置かせてくれているのだ。
ならばその特権をフルに使って、俺は蓮野を寂しがらせないようにしてやろうと考えているわけである。これは俺なりの覚悟と正義感と言って差し支えないね。
困ってるやつを助けるのに、理由なんかちっぽけで充分なのだ。
「なぁ蓮野」
「……」
文字を眺める視線は止まらず、俺の言葉に対する返答はなし。
いや、だがこれもいつもの事。俺は構わず話を進める。
「俺たちが友達になってから、もうすぐ二週間、つまり半月が経とうとしているわけだが、これについて、キミはどう思うね?」
「……そもそも、私とセンパイは『友達』などではありませんから、前提条件からして間違っています」
彼女は頑なに、俺と友人関係を結んでいると言う事実について認めようとしない。
「でもさ、蓮野だってクラスメイトとかに、『蓮野さんって、あのイケメンなセンパイと友達なんでしょ?』的な事を聞かれたりするだろ?」
「まずクラスメイトに話しかけられるようなことはありませんし、私はセンパイとの関係を問われても他人だとしか答えませんし、そもそもあなたは一般的な『イケメン』と言う概念に関して、その範疇ではないと思います」
「うーん、蓮野は喋り方が堅いな」
「性分ですので」
「もっと砕けた喋り方してみようぜ? さぁ、リピートアフタミー! 『ってかぁ、あの先生マジでキモいんですけどぉ。チョベリバー』。はい、セイ!」
「ってか、センパイ、マジでキモいんですけど……」
うわ、ストレートに傷つく。
言葉の暴力に晒され、いたく傷心した俺を見て、蓮野はため息をつきながら文庫本を閉じた。
「……センパイは飽きもせずに毎日、昼休みになってはここに来ていますが、何が目的なんですか?」
「そりゃもう、蓮野とお近づきになろうと思ってだね」
「無理です。不可能です。諦めてください」
「うーん、こればっかりは諦めきれんなぁ」
蓮野の目を見ると、こちらを威嚇するように強い光を発している。
だが、そんな威嚇が俺に通用すると思っているのか。もっと怖い視線だって、俺は耐えてきたのだぞ。
「考えても見ろよ。男にとって美少女とはそれだけで価値のあるモノだ。遠くから眺めるだけでも心が豊かになり、それに近づけるのならば更に、会話が出来るのならば輪をかけて、触れ合えるのならば極上にその価値を増すだろう」
「理屈はわからないでもありませんが、この状況でそれを口に出せるセンパイの神経を疑います」
「自分が美少女であると言う事は否定しないのか?」
「ええ、私、美人である事はわかってますから」
「うわ、腹立つ」
「センパイを苛立たせる事が出来るのならば、この美貌も無駄ではありませんでしたね」
自分で美貌とか言っちゃう辺り、この娘も大概性格悪いな。
だが、意外な反応ではあった。まさか、蓮野がこんな話に乗っかってくるとは。
てっきり『うるさい、バカ、死ね。関係ないでしょそんな事』と、いつも通りバッサリと切られると思っていたのだが……。
これはちょっとした進展だろうか。
そんな蓮野の成長を噛み締めていると、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「ふむ、此度の逢瀬もこれで終わりか。ほら、蓮野、いってらっしゃいのチューをするチャンスだぞ」
「いっぺん死んでもらえますか? あ、いえ、いっぺんと言わず、何度でも死んでください。お願いですから」
「そこまで懇願しなくても良いじゃん! 蓮野のバカぁ!」
辛辣な言葉を浴びせられた俺は、ラブレターを渡した瞬間に破り捨てられた乙女よろしく、泣きべそをかいて一年二組の教室を出て行った。
こんな光景を見せられても、これと言って反応を示さない一年二組の連中は俺に鍛えられていると言っても過言ではなかろう。
****
世間一般では、昨今のような季節の事を夏と呼ぶそうである。
更に加えて一般論をひけらかすならば、夏とは人が……いやさ花鳥風月が開放的かつ活動的になり、生者も死者も一緒くたにしてアグレッシブ精神が燃え盛るようなのだ。
事、人間に限って言うならば、夏と言う季節はレジャーにうってつけの季節なのだとか。
人は夏になると往々にして山や海、それらが難しければ川やプールなどのレジャースポットへと赴き、涼をとったり思い出を作ったりするのだと言う。
ならば、我々とてその例に漏れず、大衆の流れに身を任せ、山や海へと足を向けたらいかがだろうか。
……というような話をしてみた所。
「センパイは馬鹿なんじゃないですか?」
と、冷めた顔をしながら切り返されてしまった。
時刻は午後五時半ごろ。件の屋上にての事件であった。
「って言うか、どうしてここにいるんですか。ムリが現れる時間帯には私に近付かないって話でしたよね? 約束破るんですか? 信じられません、そんな事する人だったんですね、幻滅しました」
「幻滅するほど、俺に理想を抱いていないくせに」
「そこは見抜かれましたか」
ほぼ無表情な顔してそんなに切れ味のいい事を言うのだから、蓮野鼎は恐ろしい。
彼女は屋上に現れる時、決まってジャージを着ていた。そして、その下には下着以外何もつけていない事を、俺は知っている。
故に、あんまりジロジロ見ていると殴られる。しかもそのパンチが割りと重いんだ、これが。
恐ろしい後輩である……。
「そんな事より、私の質問に答えてください」
「うん、まぁ興味本位だよね」
「センパイ……これは冗談でもなんでもなく、本当に死にますよ?」
「危なそうだったら全力で逃げるってば。俺に気を使わず、ムリとの大立ち回りは気楽にやってくださいな」
ここ数日の付き合いで、俺がどういう人間なのか悟ったのか、蓮野はそれ以上、俺を遠ざけようとはしなかった。無駄だという事を理解したらしい。スマンな、蓮野。俺はこう言うワガママ人間なのだ。
そんな蓮野からの情報によると、ムリは決まって黄昏時から日没直後辺りに出現し、それ以降は翌日の同時刻帯まで全く現れないらしい。不思議と律儀な怪物共であるが、蓮野が言うには、
「星だって話せばわかってくれます」
らしい。どうやら星とやらと会話が出来るそうなのだ。
「そう言えば、蓮野。お星様との会話ってどれぐらい出来るもんなの? 雑談とか出来るわけ?」
「いきなりなんなんですか。……って、センパイに脈絡なんか求める方がおかしかったですね、失言でした」
「俺の事、軽くディスるのやめてくれる?」
「星との会話内容でしたね。割りと何でも話せますよ。今では私のメル友……いや、電話友達? みたいなものです」
「意外と気さくなんだな、お星様って……」
なんかイメージとしてはかなりご大層な雰囲気がするんだが、蓮野に対してはかなりフレンドリーらしい。
「この間も、他所の星の話をしてくれました」
「よ、他所の星!? 星の間では星同士のコミュニケーションが取れてんの!? なにそれ、ハイテク!?」
「どういう技術かはわかりませんが、普通にお話ぐらい出来るらしいですよ」
なんだか星のイメージがどんどん近所のおばちゃん風になっていくんだが。我らが母星とは言うが、そこまでかーちゃんっぽくなられても困る。
「星曰く、ここから遠く遠く離れた星には、人間のような知的生命体を有する星が幾つかあるそうです」
「へぇ、異星人発見ってか。テレビ番組で取り上げれば視聴率がっぽりだな」
ソースが『星からの垂れ込みです』なんて不確かな物でなければ、の話だが。
「センパイは異星人っていると思います?」
「いるんだろ? 星が言ってるんだし」
「私の言葉だって、嘘かもしれませんよ」
「良い男ってのは女の嘘には騙されてやるもんさ」
「うっわ……」
「あの、明言せずに行動だけでドン引きするのやめてくれる? 結構傷つくんだけど」
更に蓮野は見かけが美少女なんだから、そんな可愛い娘に引かれるとか、かなりダメージでかいわ。……あれ、これもいっそ気持ちよくなれば天国が見られるかもしれない。
む、危ない思考に飛んでいきそうだった。
俺は調子を取り戻すために、話を戻す。
「ってか、異星人云々は嘘なの?」
「いえ、本当です。星が私に嘘をついてなければ、の話ですが」
「じゃあさ、その異星人ってのを蓮野の力でここに呼び出したり出来ないのか?」
蓮野の持ってる力はとてつもない物らしかった。
なんでも『思った通りに世界を変える事が出来る』とか何とか。その反動でムリが現れてしまうのが玉に瑕というヤツだが、それさえ考えなければ何とチートな事か。この力さえあれば、蓮野は無敵なわけだ。
その力があれば、何万、何億、何兆光年先にある遠くの星に住んでいる異星人を連れてくることさえ……
「不可能ですね」
「えっ!? なんでっ!?」
予想外の言葉に、俺は蓮野を見返した。しかし、彼女の方は澄ました顔を崩さない。
「私の力は、この星に働きかけて、この星の中のモノを好きなように出来る力です。この星の上にないモノはどうこうできませんよ」
「何でも出来るように見えて、意外と制限があるんだなぁ」
「……でも、この星の上のモノは私の思うがままですから! いっそ支配下ですから! センパイが思うほど制限はないと言っていいかもしれませんね」
「何をムキになってんだよ」
「なってませんけど」
子供っぽくつっかかってくる蓮野は、正直可愛い。
いつもは気位が高いように振舞ってるくせに、やはり歳相応の幼さは見え隠れする。
なにせ、ちょっと前まで中坊だったんだしなぁ。それぐらいの可愛げがないとね。
俺だって過日、『いつまでも少年心を忘れないね』と適度に幼さを指摘されたのだから立つ瀬がない。
因みに、そんな感想をぶつけてきたのは、我が幼馴染のハル姉さんだった。くそぅ。
「なにニヤついてるんですか。気持ち悪いですよ」
「いやぁ、蓮野が可愛いなぁって思って」
「は……はぁ!? いきなりなに言うんですか!?」
「ニヤついてる理由を質したのはキミの方だろう」
「そ、それはそうですけど、そんな理由は想定外って言うか……あ、ほら、ムリが来ますよ! 警戒してください!」
話題の変更に成功したらしい蓮野は慌ててムリの現れた方向へと向き直る。
そこにいたのは、俺が初めて見た時のような巨人タイプ。
どうやらムリには色々な形のバリエーションがあるらしいのだ。
今、出現している人間型のモノがあれば、先日現れたような犬型もあり、それら全てが基本的に半透明でスケールが大きい物ばかりであった。ただし、姿形を模す物に一定のタブーがあるらしい。一度、虫型のムリが出てきた事もあったらしいが、それは蓮野が本気で気持ち悪がった所為で、星もその手のムリは出現しないようにしたそうな。優しいお星様であります。
今回現れた巨人タイプのムリを見ていると、最初に見た時の恐怖を思い出しそうになり、多少寒気を覚えてしまうね。
「おかしいですね」
現れたムリを見て、蓮野は首を傾げた。
「どうしたんだよ?」
「いつもよりムリが大きい気がします。昨日はそれほど大した能力を使ってないはずなんだけどな……」
出現するムリの強さや大きさは、ムリの現れていない期間に使った能力の難易度や頻度に比例するらしい。
より強い能力を操ろうとしたり、能力を何度も頻発させたりすると出現するムリは大きく強くなる。
「蓮野、もしかして今日のお昼ごはんを多めに盛って欲しい、とかお願いしたんじゃないのか?」
「そんな浅ましいお願いなんてしません! って言うか、今はダイエッ……いえ、何でもありません」
「それだ。星の方も蓮野に気遣って、キミの体重を落とそうとしてるんだよ。それでストレスがかかり、ムリも大きくなってしまった、と。あ痛!」
言葉が終わる前に、蓮野から肩パンチを食らってしまった。無言だったのがちょっと怖い。
「センパイのバカ。デリカシー欠乏症」
「えぇ? なに、蓮野も俺に一端の女の子として扱って欲しいの? 他の人は寄せ付けないのに、俺にだけ甘えたいとか……しょうがないなぁ、ってアイタ、痛いって、マジで痛いからやめて、お願い! 謝るから!」
かなり本気目の重いパンチを何発も食らってしまった。むぅ、この方向でイジるのはやめた方が良いか……。
蓮野も人の子だ。体重の事を言われたらちょっと傷ついたりするのだろう。
俺が一人で今後の方針について考えを改めていると、ブワと風が舞う。
気がつくと、ムリがもう一回り大きくなっていた。
「あの、蓮野さん? また何か使いました?」
「使ってませんよ! と言うより、ムリが現れてから肥大化するなんて初めての事です! どういう事なの、これは……!?」
「あと、心なしか俺を睨んでるような気がするんですが……」
「実はセンパイが何かしたんじゃないですか?」
「俺なんて取りとめて論う所もない一般人ですよ!? あんな人知を超えた存在に影響与えるなんて無理に決まってるだろ!?」
「でも、それじゃあどうして……?」
考え事をしている間に、ムリは俺たち二人に向かって突進を始める。
身の丈に見合って、それなりの質量を有しているらしい巨人は、その五メートル近い体重で床を踏みしめている。
屋上の床は悲鳴を上げるが如くにひび割れる。
あえて言おう。あの迫力は一般人がビビるには充分すぎるものだ。
俺の足は根が生えたかのように地面に張り付き、ビクリとも動かない。
その割りには腰が引けて、客観的に見ればかなり恰好悪いポーズをとっているだろう。
だって仕方ないじゃん。俺、アイツに一回、殺されかけたんだよ?
「センパイ、避難してください」
蓮野の言葉で我に返り、『動きたくなぁい』とボイコットを起こす我が両足に鞭打って、転がるように屋上の端まで逃げ出す。
代わりに、蓮野はその手に出現させた細身の剣を持ち、ムリに相対する。
体躯はムリと比べて四分の一ほど。そんな小柄で華奢な女の子が、あの怪物に立ちはだかるのだ。どこかの映画やアニメを見ているようである。
蓮野は抜き放った白刃を閃かせ、ムリの足元を通り過ぎざまに、右足を払い抜く。
刃が通った場所は切り飛ばされ、ムリはバランスを崩して屋上に倒れこむ。
だがその勢いは衰えないようで、前回り受身の要領でダメージを最小限に抑えつつ、更に前方へと走りこんでくるムリ。
「え、ちょっと待って」
様子を窺っていた俺は、そんな言葉を零していた。
ムリがこちらに向かって走りこんできているのである。
「嘘だろ、おい! 今までそんな事なかったじゃん!」
ムリは完全に俺をターゲットとして認めたらしく、切れた足を再生させつつ、こちらにダッシュしてくる。あのままの勢いで向かってこられたら、俺なんかすぐに圧殺されてしまうだろう。
だが、逃げ道はない。
無様にも屋上の隅へと逃げ込んでしまった俺は、自ら退路を断ってしまった事になる。ああ、何と言う間抜け。
これは……絶体絶命だ。
迫り来るムリは俺を逃がすまいとプレッシャーをかけている。左右へ逃れるのはまず無理だろう。あの極太の足に踏み潰されるのがオチだ。
だが、だからと言ってこのまま何もしなければ、アイツの突進によって、はたまたパンチによって、もしくは蹴りによって……なんにしろ一撃のもとに、俺は小虫のように殺されてしまうだろう。
さらに、背後に逃げ道はない。フェンスがガシャンと鳴り響き、俺の背中を押してくる。
視野が狭まり、視点がブレる。
全身から血の気が引き、真夏に凍えるような寒気を覚える。
恐怖が思考を埋め尽くす。
一縷の望みと言えば、俺がムリと初めて相対した時、俺は何が原因か、ヤツのパンチをどうにか無力化出来たらしい、と言う薄ぼんやりした事実。
偶然か奇跡か、その時の状況が再現できたのだとしたら、この窮地も脱出できるだろう。
しかし、その状況を再現するための方法も条件もわからない。そもそも、再現できるような物なのかすらもわからないのだ。今の俺に、そんな事が出来るはずもない。
絹糸のような最後の望みすら絶たれた。
こんなにもあっけなく、こんなにも圧倒的な力によって、俺は死ぬのだろうか。
「センパイ!」
悲鳴のような蓮野の声が聞こえた。
不思議と、ムリのやかましい足音にかき消されず、彼女の声は俺の身体に染み入るように響いてくる。
その声を聞いて、絶望的な答えしか出さなかった俺の身体に、何故だか生きる気力が湧いて来た。
まだ、諦めてなるものか。
「うおおおおおおおお! やったらああああぁぁぁぁぁ!!」
怯える自分の根性を奮い立たせ、俺はムリに向かって駆け出す。
もつれそうになる足を必死で動かし、相手になめられないようにムリと視線を合わせる。
ムリは何の遠慮もなしにこちらへ猛進してくる。アレに潰されれば一撃でアウトだ。
俺は決死の覚悟で挑むしかない。
それほど距離のなかった二者の間合いが詰まり、ムリの腕が振りあがる。
相手の手の内は読めた。あのまま平手を振り下ろし、虫を叩き潰すが如く、俺に掌を打ち付けるつもりだろう。
だが、俺だって人間だ。虫のように潰されるワケにはいかん。
タイミングを見計らい、俺は前方へと飛び込む。
「うおおおおおおおお!!」
気合いだけは充分。あとは天に運を任せる。
狙いはムリの股抜きである。大股をあけて踏ん張っているムリの足元はがら空きだ。あの間を通れば、蓮野の近くにいける。そうすれば蓮野がどうにかしてくれるだろう。
賭けはこの一瞬のみ。相手の攻撃を回避する事が出来れば俺の勝ち。そうでなければデッドエンドだ。
振り下ろされる豪腕を見ないように、俺は目を閉じて着地する。
ほぼ同時、ムリの拳が屋上の床を突き割り、轟音を立てて床が崩れ落ちる。
舞う土煙。飛び散る床材。床にヒビが走り、周りのフェンスがひしゃげる。
その攻撃は必殺。普通の人間なら――いや、人間でなくとも耐えられるようなものではない。コンクリートの床を打ち砕くほどの衝撃を受けてまともでいれる生物がいたなら、それはスーパーマンであろう。
だが――俺はそんな攻撃を回避して、生き延びたぞ!
土煙の中をゴロゴロと転がり、俺は何とかムリの背後へと抜ける。
「よっしゃああ!!」
生還の喜びから、自然と声を張り上げる。
だが油断は出来ない。このままムリの足元では安心も出来ない。
俺は勢いを殺さないように立ち上がり、蓮野の許へ駆け寄る。
「後は頼んだ、蓮野ぉ!」
「せ、センパイ……良かった」
安堵のため息を零している蓮野。いや、そんな事より、ムリをどうにかしてくれ。
俺のアイコンタクトが伝わったのか、蓮野はジャージの上着についているチャックを下ろす。
夜の帳が降りかかった空の下、蓮野は綺麗なお腹を晒していた。
ブラのフロントホックを外し、控えめな胸をかすかに揺らして、縦一文字に入った傷をムリに向けた。
「還りなさい、これ以上の狼藉は許しませんから!」
蓮野がそう言うと、彼女の傷跡は電球でも内蔵しているかのごとくに輝き、その光がムリに届くと、巨人は光の粒子となって、蓮野のお腹へと吸い込まれていった。
それを確認すると、俺は床にダイブするかのようにへたり込み、荒い息を抑えもせずに空を仰ぐ。
「はぁ、はぁ、はぁ……し、死ぬかと思ったぁ」
散々、蓮野から『死ぬほど危ないですよ』と忠告されてはいたが、今日ほど死の危険を感じた日はなかった。
今更になって全身から汗が噴出し、夜の涼風に撫ぜられて、多少身体が冷えたように感じる。正直、すごく不快だ。
だが、生き残った。
死んでしまえば、こんな不快感すら覚える事はできない。
それを噛み締めると、なんだか自然と笑みがこぼれた。
「はは、はははは、スッゲェ! こりゃスゲェや!」
何がすごかったのか、俺自身にもわからなかったが、とにかくすごい体験をしてしまった。今まで死の淵にいたのが嘘のように、俺は清々しい気持ちでいっぱいになる。
一世一代の仕事を成し遂げたかのような充足感だった。
そんな俺の頭が優しく包まれる。
「うお!」
気がつくと、蓮野が俺の頭を抱いていた。
「センパイ……良かった……」
「ど、どうした、蓮野!」
「どうしたって……センパイの事、心配したんじゃないですか! センパイが死んだらどうしようかと……」
あ、そうか。コイツ、こうやって他人が危険に巻き込まれるのが嫌だから、他人を近づけないようにしてたのか。それがこんな風に巻き込まれれば、心を痛めて当然である。
くそぅ、俺は自分の不甲斐なさが情けない。
「すまんな、蓮野。心配かけた」
「いえ、謝るのはこっちです。やっぱり、センパイを巻き込むんじゃなかった……!」
気がつくと、俺の頬に零れ落ちた水滴がぶつかる。
見上げると、蓮野が涙を零していた。
ほぉ……そんなに心配させてしまったか。
「センパイ、やっぱりもう、これ以上私に近付かないで下さい」
自分の涙をぬぐいながら、蓮野はそんな事を言った。
「これ以上、私と一緒にいたら本当に死んじゃうかもしれない」
「まぁ、確かに今のはかなりヤバかったけど……って、ああゴメンゴメン! 別に蓮野を責めてるわけじゃないから!」
プルプル震えながら涙を再チャージし始める蓮野を見て、俺は慌ててフォローを入れる。
「蓮野、少し考えてみたまえよ。今回の件はキミの注意を真剣に受け止めなかった俺の責任であるし、キミが罪悪感を覚える必要はない」
「でも……」
「それに、だ。ここで蓮野に見放されてしまえば、俺は次にムリからの襲撃を受けた時、全く無力なまま、ボロ雑巾のようにされてしまうわけだが?」
「言われてみればそうですね……」
「だから、蓮野にはここで俺を見捨てないでいただけると、俺としては大変助かるのだが、その辺はいかがかね?」
「えっと……その……」
数秒、言いよどんでいた蓮野だが、瞳をウロチョロさせながら、小さく頷く。
「わ、わかりました。しばらくの間、ムリが出てくる時間帯はセンパイの傍にいます」
耳まで真っ赤にしやがって。そんなに恥ずかしいのか。こっちまで恥ずかしくなるわ。
「なんか、今のセリフ良いな。もう一回言ってみ?」
「……せ、セクハラで訴えます。塀の中ならムリも無茶できないんじゃないですか?」
「勝手に俺を前科持ち確定にするのやめてくれる? 仮に訴えられたとしても法廷での一発逆転劇だってありえるかもしれないじゃん」
「あら、無駄な努力なんかしない方がいいですよ。やった証明よりやってない証明の方が難しいんですから。それにちょっとぐらい暗い過去を背負った男性の方が魅力的ですよ」
「だからってリスク背負いすぎだよね。人生お先真っ暗だよね」
いつの間にか、蓮野もいつもの調子を取り戻している。さっきまでのちょっとしおらしい雰囲気はどこへ消えてしまったのか……。
まぁなんにせよ、そんなわけで蓮野との放課後ライフが始まろうとしていたのだった。
――その時、少し地面が揺れた気がした。
「ん、地震か?」
「そうですね。かなり小さめですけど」
気を張ってやっと感付く程度の微小な揺れではあったが、俺にはその小さな地震が、とてつもない凶兆に思えて仕方がなかった。
「よし、なんか疲れたし、早く帰ろうぜ」
「え? あ、はい」
蓮野の背中を押しつつ、俺はそそくさと屋上を後にした。




