プロローグ
プロローグ
それは俺だけが知ってる、この学校の秘密だった。
この学校では屋上が解放されていない。そこへ至るドアに鍵がかけられ、一般生徒は立ち入りが禁止されているのだ。
だが、俺はその限りに含まれない。
偶然だが、屋上のドアの鍵を管理している用務員さんの弱味を握り、それをネタに脅しをかけ、放課後の数十分、もしくは数時間だけ、屋上への立ち入りを認めさせたわけだ。
もしかしたら、この話を聞いた誰かが、俺の事を『人の弱味を握って言う事を聞かせる、非道なヤロウだ』と思うかも知れないが、用務員のおっさんが在校生女子に手を出していた所を目撃したと聞いたら、きっと掌を返してくれると思う。
で、まぁ。俺はこの日も屋上にやってきたわけだ。
夏の近いこの時期、屋根のない屋上と言うのはかなり暑い場所であったが、屋上の入り口の裏側にあった日陰は思いの外過ごしやすく、ひんやりした床と日陰に吹く心地よい風が眠気を誘い、いつの間にか眠ってしまっていた。
起きると、空はビックリするほど夜だった。
「……やべ」
起きた瞬間、口を出た言葉はそれだった。
慌てて携帯電話を取り出すと、既に時刻は午後七時を回っており、さらには着信とメールがめっちゃたまっている。内容を確認してみると、我が親からの『いまどこにいる、何をしている?』と言うものばかり。心配かけてスマンな。寝てた。
とりあえず、手短にメールを飛ばしておいた。説教が怖くて、電話はかけられなかったよ。
さて、では目覚めたからには早速帰ろう、と思い、俺は軽く伸びをしながら屋上の出口へと向かう。夕方には心地良かった風が、この時間には少しヒヤリとする。夏の初めなんかこんなモノか。
「あら、おかしいですね」
大きなあくびを隠しもせずに歩いていると、前方から声が聞こえた。
そちらに目を向けてみると、月下に映える美少女がそこにいた。
「屋上には誰も入って来れないはずですが……どこから来たんですか?」
質問を投げかけてきたのは少女だった。
風貌からするに、この学校の生徒であろう。学校指定のジャージの上着を着ており、スカートの方も夜闇の中ではわかりにくいが、学校の制服である事がうかがえる。
「えっと、いや」
少女の言葉に対する返答を探しながらも、俺は彼女から目が放せなかった。
短めの黒髪、対照的に白い肌、薄い紅の唇、どこか深い闇を思わせる瞳、そして彼女の手に持っている剣。
どこのアニメ、ゲーム、マンガ、ラノベかと思った。
月夜の屋上に、超の付くほどの美少女が、剣を持って立っている。
コスプレイヤーの撮影でなければ、これは一体なんなのだろうか?
「き、キミこそ、どうしてここに?」
何とか思考の平静を保った俺は、そんな風に尋ね返していた。
質問で返された事に思うところがあったのだろうか、少女は眉根を寄せる。
しかし、剣をクルリと回して鞘から抜き放ち、切っ先をこちらに向けて答える。
「動かないで下さい」
正確には、俺の質問に対する答えではなかったが、それは彼女なりの応えだったのだろう、と何とか自分を落ち着ける。
怪しく光る刀身を見て、俺は反射的に両手を挙げていた。
凶器を持った相手に対して、こちらに抵抗の意志はないと示すには、これが一番効果的だろうと思ったからだ。
しかし、彼女はお構いなし、と言う事だろうか、身をかがめ、その下半身に力を込める。
腕は折りたたまれているが、切っ先は変わらず俺を見据えてブレない。
間を置かず、彼女は足にためられていた力を一気に解放する。
その跳躍は人のモノとは思えないほど高く鋭く、速い。
さしもの俺も、あわや剣に貫かれるところであったぐらいだ。
「あ……っぶねぇ!」
間一髪で回避する事が出来たのは、日ごろの訓練の賜物かな。いや、特に筋トレとかはしてないけど。やってるとすれば脳内シミュレートぐらいか。
床を転がりながら、俺は少女から距離を取る。
「ちょっとやめたまえよ、キミ! それが贋物の剣だったとしても危ないだろうが!」
「……今回はおかしいですね」
なんだ、コイツ、何言ってる? おかしいのは彼女の方だろ?
いやいや、そんな事よりも、だ。
「今、『今回は』って言ったか? もしかして、こんな危ない事、何度となくやってるってのか? 大量殺人犯?」
「失礼な事を言わないで下さい。私はそんな法を犯すような事はしません」
「現に刃渡りン十センチの剣を持ち歩いてるよね!? それって立派な銃刀法違反だよね!? 完全に法を犯してるよね!?」
「妙すぎますね……」
俺の言葉を聞いてか聞かずか、少女は思案するように顎を押さえ、俺を眺めた。
他人に自分を眺め回されるのはあまり気分の良いものではないが、先ほど俺も彼女を眺め回してしまったのでお相子だと思おう。
しばらく俺を眺めた後、少女は
「試してみますか」
と、独り言を呟き、ジャージのチャックに手をかける。
そして、一気に引き降ろした。
「う……わ」
自然と声が零れる。
本当は目をそらそうと思ったのだ。『バカな真似はやめろ』と言いたかったのだ。
だが、目は釘付けという言葉がピッタリ合うように動かず、口は驚嘆の声しか漏らせなかった。
彼女はそのジャージの下に何も着ておらず、その綺麗な肌を晒していたのだ。大きく開いたジャージからは慎ましやかな双丘が見え、すこし肉付きの悪い印象を受ける身体からは庇護欲がこの上なく掻き立てられる。
あ、いや、言い直そう。ブラはしてるっぽい。
そして、その綺麗な肌に縦一線、大きな傷跡が刻まれている。
美しい肌と生々しい傷跡。その二つが折り合わさって、俺は何と言っていいのかわからなかった。ただ、そこに下劣なエロさなんか微塵もなかったのだ。
俺が言葉もなく見惚れていると、少女はブラのフロントホックを外した。そこでやっと、俺にも自我が戻る。
「な、ななな、何をやってるんだ、エロガキ! そんな事で俺を悩殺しようなどと、下衆の発想はやめていただこうか!」
「と言いつつ、あなたの目線が私の身体から離れていませんが?」
「う、うるさい。これは男としてのサガだ。この俺様のお眼鏡に適っているのだから、貴様は自分の身体にもっと自信を持つがいい。そして、今すぐジャージを着なおせ!」
「……ふむ」
少女は再び思案するように唸った後、ブラのホックを戻し、更にはジャージのチャックも上に戻した。
「ああ……」
「どうして残念そうな声を出すんです? あなたが着なおせと言ったのでしょう?」
「うるさいな」
人間、美しい物はいつまでも見ていたいと思うものなのだな……。
いや、そんな事より、だ。
「一体なんなんだよ、キミは。俺を誘惑して性犯罪者にでも仕立て上げるつもりだったのか? それでキミの銃刀法違反がうやむやになるとでも思ったか!」
「そうではないのですが……どうやらあなたは『ムリ』ではないようですね」
「そりゃ、俺はキミとの性交渉について、誘われれば『無理』などとは言わんよ」
「そんな事は言ってません。変態ですか」
「テメェに言われたかねぇよ、露出魔!」
俺がヘンタイなら、コイツだって充分ヘンタイだろう。何せ、見ず知らずの俺に、いきなり柔肌を見せて挑発してくるのだ。これを痴女と言わず、何と言おう。
「いたいけな女の子を捕まえて露出魔などと……あなたは口も悪いようですが……私の敵ではなさそうです」
「キミが俺の敵でないなら、俺もキミとは仲良くしたいね」
「態度が軽薄ですね。あまり係わり合いになりたくありません」
「キミが俺をどう思おうと、しっかり説明してもらうぞ。今のが一体、なんだったのか。どうして俺に襲い掛かってきたのか。そうでないと納得できない」
「納得なんてしていただかなくて結構です」
そう言って、少女は自分の目に手をかざす。
すると、指の間から見える彼女の瞳の色が深い闇のような黒から輝くような紅に変わる。
「今日見た事は忘れてください。そして、もう屋上には近付かないで下さい」
彼女の発言が夜の学校に染み渡るように広がる。
それは不思議と、音の波が視覚に訴えかけてくるようであった。
波紋はゆっくりと学校の敷地全体を包み込むように広がり、やがてゆっくりと消えていく。その様は、本当に音の広がり方を目で見るようなものだった。
……だが。
「えっと……嫌だけど?」
「えっ!?」
俺の返答を聞いて、少女は目を丸くした。
「あれ、おかしいな……もう一回言いますよ。今日見た事は忘れて、屋上には近付かないでください!」
またも、音が波となって三次元に広がる。
だが、それだけだ。
「えっと、嫌だと言ったはずだが」
「う、うそ……」
信じられない物を見るような目で、彼女は俺を見ていた。
何を言ってるんだコイツは。何の条件もなしに、今の出来事を忘れろだなんて、どう考えたって無理に決まってるだろうが。俺だってそこまでお人好しではない。
「どういう事なの……力がなくなってる?」
「キミはどうやら中二病も患っているようだな。邪気眼系か。直せと言って直る様なものでもないだろうけど、後々後悔しない様にしろよ」
彼女が中二病であるというのなら、この一連の事件も納得できる。
邪気眼と呼ばれる『マンガやゲームなどでよくある異能力を持った自分』と言う幻想を抱き、それを現実世界にまでも持ち込んでしまう病。大別して中二病と呼ぶが、彼女がその患者であるというのなら、あの剣も夜に屋上に忍び込んでしまうのも、中二病ならありえない事でもないか、と思えてしまう。
まぁ、警察に呼び止められたりしたら普通にお説教を食らうし、学校に忍び込んだのがバレれば、最悪停学くらいの処分は受けるだろうけど、中二病なら仕方ない。
かく言う俺も、その手の病気は患った事がある。いや、今もその気が残っていると言っても良いだろう。どこか自分が特別な存在であるのではないか、と常日頃から思っていたりするのだから、手前事ながら手に負えない。
そんな事はさておき、だ。
「キミも、あまり遅くならないうちに帰れよ。用務員さんだって、いつまでも屋上の鍵を開けておいてくれるわけじゃないからな」
そう言って俺は踵を返す。
用務員さんとの約束は午後六時くらいには鍵を閉めるという物。とっくに時間は過ぎているが、あの少女が屋上に来ているというのなら話は違うだろう。きっと出られるはずだ。そうでなかった場合なんか考えない。
無根拠な論法を頭の中で組み立てながら、俺は屋上の出口へと足を進めようとするが、そんな俺の前に巨大な壁が立ちはだかる。
「な、んだ、こりゃ」
それは壁なんかじゃなかった。
見上げるとそこにはうすぼんやりと外枠だけを象った顔があった。まるで子供の落書きに出てくる棒人間の肉付きを良くしたような、出来の悪い人形がそこにいたのだ。
そして更に驚く事に、その人形はひとりでに動き、こちらを見下ろしてくる。
そう、見下ろしてきているのだ。この人形、背丈がハンパなく高い。
言うなればコイツは、身の丈三メートルほどの、半透明の巨人だった。
その巨人は輪郭だけがぼんやりと明るく、身体は水がそこにあるかのように、背景を揺らがせている。
それは見た事もない生物であった。いや、いっそ生物であるかも疑わしい。
頭らしき部分はあるモノの、目鼻口はなく表情の読めない巨人は、しかし確かに俺を見たような気がした。
『……ムリ』
巨人は口もないのに、そんな言葉を呟いた気がした。
そして呆気に取られている俺に向けて、いつの間にか掲げていた拳を振り下ろしてきた。
俺の視界は暗転した。




