化物との戦闘
短い昔話をしよう。
神隠しというものがあった。伝承としては古くから存在し、誰が、どうして、何のために、この三つですら何も分かっていない。人が何の前触れもなく、里や街から忽然と姿を消す怪現象の一つ。
柳宮來葉は、その神隠しの被害者とも言えるだろう。彼女がこの世界に来た時、彼女はまだ干支を一週しかしていなかった。彼女自身あの時のことはよく覚えていないらしい。どこかの社へ向かった際、不思議な光に包まれたかと思うと、すでにそこは彼女の記憶にない樹海の奥だったからだ。
幸か不幸か、その樹海の奥には、二人の人間がいた。一人は壮年の男性、手入れの行き届いていない髪は、自由に飛び跳ね、頭皮という限られた中で尽く蹂躙し尽くしていた。残念ながらも清潔とは言い難いそのいでたちながら、その柔和な微笑みは不思議と、彼女の不安な心を沈めていた。
もうひとりは來葉と同じ位の男の子だった。真っ直ぐな黒髪を頬まで伸ばし、顔の半分を隠しているほどだった。最初こそ來葉は警戒したものの、その男の子の性格は成に反して優しいものだった。彼女が彼に、彼が彼女にそしてお互いに口数を増やしていくのは暫しあとではあったが、決して長い沈黙はなかったと言える。
そして遅ればせながら、この二人がこの樹海にいた理由は、男の子の修行のためだったという。
その二人の人間は、魔法という來葉の世界にはない新しいものを行使する人間だった。男は魔法ではない何かを、來葉から感じ取ったのだろう。どこのものかも知らない來葉を男は保護することになる。ここがどこかもわからない來葉にとって、その男と男の子は心の支えとなった。
そしてたった一年だった。來葉の力、魔法ではない、直接この世界に現象を引きこす例外の能力は、円熟することになる。そして、数百年ぶりの平和をこの国は手にすることになった。
「反吐が出るわ」
アムナリアから東方、距離としては約五キロ。その砦の城門の外に立ち。獣の匂いに來葉は眉根を深刻に寄せていた。
來葉がこの場所に飛んできた際、この砦は崩落寸前というところまで追い込まれていた。砦内部には攻め込まれてはいないものの、城門が破壊されればあっという間だろう。慌ただしく往来する砦で、來葉はくるなり近くの兵士に言葉を投げかける。
「どうなっているの? 兵たちの人数が明らかに足りていないようなのだけれど」
來葉はあたりを見回すと異変に気がついたように兵士に言った。
「ク、クルハ様!? い、いつのまに」
「問われたことに素早く答えなさい」
「は、はい! 実は夕刻前に兵の交代のため、多くの兵士がここから西方の砦へと移動したのです。その隙をあの魔物たちに狙われて」
「周りの確認をしなかったの? 手薄になるのだから、周辺の偵察は基本でしょう?」
「じ、実はあの魔物、じ、地面から忽然と出てきたんです! なんの前触れもなく!」
「地面から?」
「は、はい」
嘘をついているようには見えない。そもそも原因を突き止める前に、この状況をどうにかする事が大事だろう。來葉はそう、と簡単に答えると再び口を開いた。
「外に出ている兵士を砦へと戻して、これ以上犠牲を増やすわけにはいかないわ」
「で、ですが」
「いいの、私が出るから、早く命令を伝えて」
「わ、わかりました!」
兵士が走り去る。迅速な命令は直ぐに伝わり、二三分後、撤退が無事に終わったとの報告を受け、來葉は一人、砦の外へと歩を向けた。
「それにしても解せないのよね」
小さく、風に消えるほどの声音で來葉は呟いた。城門付近まで攻め込んでいたのもかかわらず、魔物の群れはこちらに侵入をしてくる気配はない。見張り台からの連絡だと、魔物の群れの種類はどれも知能の低い、ゴブリンやワーウルフ、大きいものではトロルだと聞いている。
「知能の低い魔物が統率した動きをしてる……何かを感じて進撃してきていないのが、その証拠、かしらね」
城門の外、來葉は優雅にそこに立ちふさがる。目の前には視界では収まりきらないほどの魔物の群れが、唸りとともにこちらに敵意を受けている。数百という魔物の眼に視線を注がれながらも、決して尻込みする様子も見せず、美然とした立ち振る舞いでそこに、來葉は立つ。
「かかってこないのかしら? それとも、だれかの命令?」
來葉の言葉が引き金となったかのように、まるで津波のような動きで、魔物が咆哮とともに襲いかかる、空気が反響し、爆音のような衝撃が砦を震わす。
目を見張る現象が起きた。消えたのだ。目の前から、忽然と、なんの脈絡などなく、前触れなどなく、魔物の群れは残り香を残して、目の前からすっかりなくなった。砦の見張り台から、兵士のは? と言う気の抜けた声が、まるで大音量で流していたラジオの電源を切ったあとのような静寂に響いた。一陣の風が森と砦の更地を駆ける。なんの妨害も障害もなく、ぶつかるものなどなく、優雅に空へと帰っていく。
「私ね、賑やかなのは好きよ、だけど五月蝿いのは嫌いなの、反吐が出るわ」
ふ、と小さく息を吐くと來葉は踵を返す。だが。
「やっぱりすごいねぇ、クルハ~、神隠しは健在ってわけだぁ」
來葉の表情が凍りついた。その声一言だけで、その空気の振動のみで、優雅に佇む彼女の表情を閉じ込めた。
「覚悟はしていたのだけれど、やっぱり復活していたのね……」
彼女は再び振り返る。魔獣が消えたはずの更地に、影ができる。薄暗くなり始めた景色の中に、異様な不気味さを含んだその影は、やはり口しかついていなかった。
「これを復活と、そう呼べると思うかい、クルハ~、まぁでも声帯までは取り戻せたよ、この前の捕食でねぇ」
人型の影、その口だけが動く、見ているだけで全身を虫が這いずるような悪寒が走る。來葉は瞳の奥に怒りを湛え、その影を睨んだ。
「あの時に違う次元へ飛ばしておくべきだったわね」
「あの時っていうのは、五年前のことかい? それとも少し前のことかい?」
おちょくるように影が歪に形を変える。
「まぁでも少し前のやつは僕の分身だからさぁ、意味ないよ消しても、あ、だから五年前か、ごめんねぇ鈍臭くって」
「それで、わざわざ私に消されにここに出てきたの? それならとんだ馬鹿者ね」
「僕を、俺を馬鹿呼ばわりするんじゃねぇよドブスがぁ!!」
スイッチが切り替わるように、嘲笑から怒声へと声色が変化する。
「俺がお前に殺されてから五年だ! 苦しかったよ! 痛かったよ! 憎かったよ! 殺したかったよ! クルハァ!!」
「それじゃあ何のために私の前にのこのこ顔をだしに来たのかしら? 魔物を操ってまで私をここに誘い込んで」
「……なんだ、知ってたの?」
「いいえ、でも統率した動きをあの魔物ができるはずもない、だから裏で糸を引いている人物がいるだろうと推測しただけよ、でも、そんな事どうでもいいもの。私が問うているのはあなたがここに来た動機よ」
「俺の研究成果をどうでもいいと抜かすのか……っ! まったく醜い女はこれだから嫌いなんだよ! まぁ、いい……。ここは僕が大人になろうじゃないか、確か名前は、メイトだったかな?」
「!……」
「あぁ、いま眉が動いたねぇ、アハハッ! メイトメイトッ! お前みたいにクズみたいな名前だから覚えるのに苦労したよぉ。お前とおんなじ例外の力の持ち主だろぉ? あいつ……僕が喰っちゃおうかなぁ? イヒヒヒッ!」
グネリグネリ、楽しそうに嘲るように、影が動き回り、気味の悪い奇声をあげる。
「素直に私を喰おうと思わないのね、勝てる見込みがないから逃げてるんでしょう? 情けない男」
「あぁ……そうだねぇ、この状態じゃあ君には勝てないよ、そこは認めざるを得ないから、僕は怒らなぁい、君を動揺させただけで今は満足さぁ! でも、お前じゃなくてあいつなら喰えるっ! 喰って僕は蘇るのさっ! そして僕がこの世の法となるっ!」
「誇大妄想もここまで来ると何も言う気が起きないわね……消えなさい」
來葉が踵で地を叩く、影の真下が白く光り輝いた。
「ちぃ!」
影が形を液状に変える、砲弾の軌道のように、大きく弧を描いて法陣から逃れるようにドチャリと汚らしく移動する。
「いいのかい? 分身を消しても意味なんてないんだよ?」
「あら、じゃあ避ける必要ないじゃない? それに嫌でもわかるのよ、反吐が出そうな気味の悪い雰囲気がね」
「ケッ! なーにご満悦に語ってんだよブス! それになぁ! さっき見せた神隠しみてぇな規格外の能力さえ使わしちまえば、俺がお前に勝つことはできなくても、負けることもねぇんだよ!」
影が蛇のように來葉のもとへと這うように滑っていく。來葉は二三後ろに下がりながら、地面を踵で叩く。
白く法陣が光る、來葉の姿がその場から一瞬でいなくなった。移動先は影の背後。
「虫歯ができちまうほどあめぇなぁ!」
影の形が球状へと変化する。そして、まるでハリセンボンのように球体から鋭く尖った針が飛び出す。しかしそれは身を守るための短いものではなく、來葉の命を奪うための槍のように長い無数の刃だ。
「っ!」
來葉は再び後退する。だが無数の刃の一つが、來葉の頬を僅かに、だが確実に掠めた。彼女の頬から薄く血が流れ、きめ細やかな肌を染めていく。
「あぁららぁ! きたねぇ顔がさらに汚れたなぁ! 腕落ちたんじゃねぇか? たしかお前の能力って七年前に完成しちまったもんなぁ! あれ以上の成長は見込めないしぃ、もしかしたら老いて弱くなっちゃったのかぁ?」
來葉は頬の血を拭う。手は出さないで! 砦の方の、今にも援護を出そうと向かう兵士を押しとどめる。彼らでは、目の前にいる影は倒せない。逆に喰われ蓄えられる可能性もある。
「そうね、あの時から私の力は成長してないわ、相変わらず大規模な神隠しは一度しか使えない。でもね、あなたに負けるほど弱くはないの」
踵で地を叩く。影の真下に、二度目の法陣が光りだす。
「おいおい! 同じ手って何ですかぁ?」
影が逃れるように再び弧を描く。その影の着地場所、そこから謀ったかのように、魔法陣が出現する。
「楽しくねぇなぁ!」
あざ笑うかのように影が空中で軌道を変える、ボールの変化球のように、僅かではあるが法陣の範囲外へと逃れる。
パチリ、來葉の指が確かに響いた。何もない空中、影の軌跡を追い囲むように小さな法陣が無数に現れる。影の声に恨みがましさが滲んだ。
「クソが! すっかり忘れてた、これがあったなぁ」
影は高速で魔法陣から逃げる。
「逃がさないわ」
影の跳ねる方向、軌道の変化、すべてを把握するように、來葉は影へと全神経を集中させる。だが、既に日が落ち始め視界の明瞭でない場所で、ゆっくりとだが近づいてくる、背後の影の存在を來葉は意識しているのだろうか。
「死ね!」
逃げ回る影の声と共に、來葉の背後に迫った地を這う影から、鋭く尖った刃が伸びる。確実に、來葉の命を狩りとるために。
「馬鹿ね、フリよ」
來葉の真下で魔法陣が光り、伸びた刃は空を貫いた。だがそれでは終わらない、來葉が使った魔法陣は、まだ生きている。魔法陣へと向かって急激な空気の流れが起きた。魔法陣がその空間ごと、どこか別の場所へと抉り飛ばしたためだ。影の刃がゴッソリと姿を消した。加え、本体の影から絶叫が上がる。
「あら、分体も痛覚を持ってるの? 弱点を増やしたものじゃない、お馬鹿さん」
影が勢いをなくし地面にベチャリと落ちた。人の形を成した影は確かに片腕をなくしている。見えるはずのない片腕の欠損から、気味の悪い黒い液体がゴポリと音を立てて流れ出している。
「クソアマァ!! 絶対殺してやる! コロスコロスコロス!!」
影の近くに移動した來葉は、悶える人の形をなしただけの影を見下しながら、憐れむように口を開く。
「どこで道を間違えたのかしらね」
「うる、せぇ……俺の、道なんざ最初からねぇんだよ!」
「そう……せめて痛みなくして逝かせてあげるわ」
來葉が地面を踵で叩こうとした時だ。森の暗闇、そこから無数の鎖が一斉に飛び出した来た。來葉は咄嗟にその場から能力で距離をとった。鎖は鋭い杭のようなものが先端についているのか、地面に音を立てて食い込んだ。それは測ったかのように、蹲る影を守護するようにだ。そして、その鎖が底気味悪く紫に輝くと、地面がゆっくりと波打ち始め、蛇が獲物を捕食するがごとく、影をゆっくりと沈みこませていく。
「待ってろ、必ず、喰らってやる、キキキキキッ!」
憎しみと愉悦を含んだ声がやがて消えていくと、その鎖も森の闇へと戻っていく。來葉は森へと視線を投げた。暫く睥睨したのち、これ以上変化がないだろうと判断し、小さく息を吐いた。
「クルハ様! ご無事ですか!」
來葉の緊張が溶けたのを確認したのだろう。砦の兵長であろう人物が來葉に駆け寄ってきた。
「大丈夫よ、少し疲れただけだから」
「そうですか……ん? なんと、お怪我をなされているではありませんか! すぐに治療を! 治癒魔法師を呼んでまいります!」
來葉が気にしないでと声をかける前に、すでのその兵長は砦の中に戻り、声を荒げていた。
「まったく」
來葉は控えめに微笑むと、砦の方へと進む。ふと、來葉は影が飲み込まれた方へと視線が向かう。ほんの一瞬だけ、一瞥だけ。
「忙しくなりそう」
微笑みはなりを潜め、哀愁を内に秘めながら、來葉は静かにそう言った。