束の間の緩衝
来週は無理と言いましたね、あれは嘘です。来週は不明です
初の仕事、ということで命斗は來葉に連れられて、城内を歩いている。向かう先はこの城の時期王女、ミスティアの部屋だという。あくびを咬み殺す命斗をとなりで見る來葉が口を開いた。
「眠れなかったの?」
「まぁ、そうだな」
「間の抜けた返事ね、次の日が遠足だったら寝付けなくなるタイプかしら?」
冗談めかして來葉は言う。だが、いつもなら不満そうに返ってくるはずの返事がない。來葉が不思議に思い命斗を窺うと、視線をそらしながら頬をかいていた。來葉の視線に気がついたのか、バツが悪そうに唇を噛む。
「し、仕方ないだろ? バイトだって俺はやったことがないんだよ。それに初の仕事が……まさかこんな馬鹿でかい城内での業務とあっちゃ、緊張もするさ」
と言い訳じみた弁明を口にした。
「意外とお子様な一面もあるのね。びっくりしたわ」
「……うるさい」
命斗自身この話題を引き伸ばしたくないのだろう。無理矢理話題を変えた。
「それよりも、随分と畏敬の念を集めているんだな。俺としちゃそっちのほうが驚きだけど」
今しがたすれ違った兵士の一人が頭を深々と下げている。來葉はそれに慣れているのか、時折はおはようと声をかけ、時々は何も言わずその横を通り過ぎていく。命斗としては頭を下げられるたびに、自然と自分の頭が低くなっている気がする。これが国民性、というやつだろうか。
「そうね、私にも色々あるのよ。ローナから聞いてないの?」
「いや、特には……話題に上がらなかったし」
「少し寂しいわね、気にならない? 私がこの国でどんな偉業を成し遂げたのか」
「自分で偉業と言ってる時点で聞く気が起きなくなった」
「あら、残念。まぁ私も話す気はなかったのだから、どちらにしてもこの会話は意味がないわね」
「じゃあなんで自分から言ってきたんだよ」
「だって話題をふって来たのは命斗くんじゃない。私はそれに乗っかっただけよ」
「乗っかるというより乗り捨てたって感じだよな今のは」
來葉の足が不意に止まった。目の前には重厚で落ち着いた色合いの扉、來葉はその扉を三度叩く。暫くすると、どうぞ、と透き通ったような綺麗な音色が扉越しに返って来た。
來葉が扉を開けると、中は客室とは全く違ったものだった。当然といえば当然。ここは王や王女のいわば居住の場所なのだから。
紅い絨毯は寝転がっても十分なほど柔らかく、天蓋付きのベッドは一人で寝るのには大きすぎるほど。衣装箪笥は命斗の部屋にあるそれの三倍近くはある。ベッド脇にある机の上にはジュエルボックスだろう。朝日が差し込んでいる窓淵にも丁寧で繊細な装飾が施され、朝日すら彩られているかのようだった。
「やっぱり、クルハさんでしたか」
声の主はベッドの淵に腰をかけていた。幼さを残した柔和な微笑みが注がれた。彼女がこの城の次期王女、ミスティア。
「おはようミスティア、少し早かったかしら?」
「いえ、そんなことは……寝巻き姿でいるのが少し恥ずかしいですが」
照れたようにミスティアは膝の上に手を置いて首をかしげてみせる。薄桃色のワンピースに似たミスティアの寝巻きは、彼女によく似合っている。
ふと、ミスティアが命斗の方に視線を移した。暫しの沈黙、命斗も特に何もいうことがない。ミスティアの紅い瞳は命斗を凝視する。すると突然気がついたかのようにハッとしたかと思うと。頬を赤く染めて、顔を伏せてしまった。
「え、ええと……あの、メイトさん、ですよね?」
「え? ああ、はい、そうです」
気を張っていた命斗が、少し声高にそう答える。
「先日はすみませんでした。私を含め、アリムがあなたに働いた行動も……」
「いや、全うな行動だと思います。それに貴女は国を背負っているのですから、アリムさんの行動も間違っていないと思いますし……それに俺の方こそ、謝らなければなりません」
「あっ、あのことは、で、できればあまり思い出さないでくださいね?」
「は、はい」
ぎこちないながら会話は、妙な空気を残してそこで終わった。
「そんなお見合いみたいな空気をさせないでくれる?」
來葉の瞳が細くなり、視線は命斗に刺さる。
「そうしたくてしたわけじゃないです、なんで不機嫌なんでしょうか?」
「覚えがないわね、それよりミスティア、グリムはいないの? この時間帯に来ればちょうど会えると思ったのだけれど」
來葉が周りを見渡しながら言う。
「ええっと、実は昨日少し片付けなければいけない事案がありまして、すこし寝不足だったので朝食の準備を十五分ほど遅らせていただいたのです。だからもう少ししたら来るのではないかと……」
ミスティアの言葉を遮るように、扉が四つノックされた。その後聞こえてきたのは低く落ち着きのある声「お嬢様、お目覚めになられていますか?」
はい、とミスティアが答えると、一人の男性が部屋に入ってきた。
燕尾服を体にまとった壮年の男。白くなった髪を後ろに撫で付け、同じく色の落ちたヒゲは定規で測ったのではないかと思うほどきっちりと整っている。年齢相応のほうれい線や目端にできた皺の一つ一つがこの男の渋さを漂わせている。
この男がグリムだろう。命斗はそう思いながら、グリムの引いているティーワゴンの邪魔にならないように、部屋の隅の方へと移動する。
後頭部から踵まで、全てが床と垂直と思える程の完璧な出で立ちでグリムは部屋へと入ってきた。命斗はその立ち姿に内心で既に憧れのような何かを抱く。否応なしに男の雰囲気から取れるダンディズム、素直にかっこいいとそう思ったのだ。
「お目覚めはいかがですかな? ミスティア様、紅茶はお飲みになられますか?」
「ありがとう、いただくわ」
「畏まりました。挨拶が遅れて申し訳ありません、クルハ様。おはようございます、して、お隣の聡明そうな方はあなたの?」
「あら、ばれちゃった? 釣り合うかしら?」
そう言いながらそっと命斗の腕に、來葉は手を回してくる。命斗は自身の体に、今以上の緊張が走るのが手に取るようにわかった。
「もちろんでございます。良いお方をお選びになったと思いますよ」
「あの、違いますよ……」
これ以上勝手に話を進められたは適わないと思ったのか、命斗は話に釘を刺す、打ち落とす。
「こういう時は乗ってもいいのよ? あわよくばでっち上げられるかも?」
「結構です。それより早く腕を離してくれませんか」
「つれないわね」
「クルハ様。質問を一つ、構いませんか?」
來葉は視線だけで承諾する。
「では、お隣の方は昨日話しに上がった……」
「そうよ、例の件でね」
「なるほど、ではお名前をお伺いしても?」
片時も紅茶の準備を怠ることなく、グリムは命斗に聞いてきた。
「あ、は、はい。渡瀬命斗と言います。よろしくお願いします」
なんの飾りっけもない返事で命斗は頭を下げる。
「アーデル=デュナ=グリムワンと申します。グリムという名で通っていますのでそれでお願い致します。貴方のことはメイトさん、でよろしいですかな?」
「はい」
紅茶の用意ができたのだろう、グリムは薄いお皿に乗ったティーカップをミスティアに渡した。そしてこちらに向き直ると、顎に指を持っていく。
「しかし困りましたな。如何せん話が急だったものですから、誠に申し訳ないのですが少し仕事が残っていまして。今からほかの執事に教えさせようにも、おそらく手の空いている者もいないのです」
「あらそうなの? なら空いている日でも構わないわよ? ねぇ命斗君」
俺は別に構わないけど、その旨を命斗が言葉を発するあいだに、扉がノックされる。
「お嬢様、お食事をお持ちいたしました。入ってよろしいですか?」
その声は命斗が聞き覚えのある声だった。ミスティアが返事をすると、食事の乗ったワゴンが入ってくる。
「あれ? メイトにクルハ様? どうしてこんなところに」
ワゴンを押して入ってきたのは、命斗の予想通りローナだった。
「ふむ、お二人はお知り合いでしたか、ならばちょうど良いでしょう」
グリムはそう言うと。
「ローナ、今日から貴女にはメイトさんの教育係になってもらいます」
ローナの猫目が丸くなったのは言うまでもないことだった。