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始まりとしては王道

 一体どうしてこんなことになったのだろうか、少年は棒立ちになったまま止まったはずの思考で考えを巡らしていく。考えても答えなんて出てくるはずもない。起こったこと自体が普段平凡に過ごしている彼にとって、あまりにもかけ離れすぎている現実だったからだ。

 彼がまず最初に感じたのは暖かな霧状に漂う水蒸気、いわゆる湯気というやつだ。体にまとわりつくような水気に彼は眉をひそめた。次に感じたのは鼻腔をくすぐる柑橘系の甘酸っぱい匂い。リラックスのためだろうか……。加え鼓膜を刺激するのは水音、ジャバジャバと落ちる水が水面を勢いよく叩く音が聞こえる、一人暮らしの彼にとってこの音を聞くだけで頭の中に水道代と言う単語が出てきてしまうのは致し方ない。最後に視覚、真っ白な湯気が払われたその先には一人の少女が立っていた。布一枚、いや一糸すらまとわぬ姿を彼の目の前に晒していた。

「は?」

 最初に声帯を震わしたのは彼だった。目の前には裸の少女。メリハリはないものの整った体たちをしている。きめ細やかな肌は仄かに上気し、真っ赤な髪は湿気に濡れ体に張り付いているのが妙に色っぽい。目鼻立ちは作られた人形のように整ってるが特筆すべきは大きなまあるい紅の双眸。瞳の奥には彼の顔が映し出され、慎ましやかに添えられた唇の端は横に広がっている。まるで次に言を発する前触れのように。

「き……」

「き?」

「きやぁああああ!」

 当然の反応だろうと彼は思う。そしてなぜ彼はまったくもって動じていないのか。既に弁明してもこの場を収束させるだけの力量や度胸や自信を彼は持ち合わせていないからだ。

 突如として彼の耳にはスライド式の扉が開け放たれる音が聞こえた。そして憤激の篭ったようなキサマァと言う恐ろしい声、床をける音。胸ぐらを捕まれ体に浮遊感が襲うと同時に落下、濡れた床に叩きつけられたのか、着ていた衣類がしっとりと濡れていく気色の悪い感触、そして衝撃と味わったことのない痛み。

「かっ……はっ」

 肺の空気が吐き出され奇妙な嗚咽感とともに視界が歪む。グラグラ揺れる視界の中でギラリと強烈な光を見た。彼は咄嗟にマズイと感じた。何がマズイのか、どうしてマズイのか、答えのいらない全身を強く動かすほどの悪寒。彼は咄嗟に真横へと弾かれるように飛び出した。耳に入るのは金属が鋭い勢いで打ち付けられる音。平凡な彼にとってはまず聞かないであろう殺しの音。

「ゲホッ……クソっ! 何がなんだかわからねぇぞおい!」

 誰に向かって怒鳴っているのかさえ彼には分かっていない。ただ瞬時に生命の危機を感じた彼は一時的な興奮状態に陥った。

 彼は距離を取ろうと後ろに歩幅を広げるが、横に飛び退いた勢いを殺しきれず、さらに踵が階段ほどもある段差に引っかかり、空中に背を向け体を投げ出すに至った。

 二度目の落下を受け止めたのは硬い床ではなく熱いお湯だった。ブグブグと滑らかな湯を楽しんでいる暇など語るに無く、彼はすぐさま水面から顔を出す。そしてそこでようやくここがどこだか理解する。暖色のオレンジ色に包まれた大きな空間、それに先程から感じている湯気。かかとを引っ掛けたのは浴槽の淵、自分が落ちたのが巨大な浴槽なのだと把握した。

 だが意識はそこから瞬時に離れていく、集中すべきは今この状況をどうにかすることだ。どうにもならないと分かっていてもどうにかしなければいけない。

「思考が矛盾だらけなのは分かってんだけどな」

 重い視界で彼は前方を見据えた。攻撃をふっかけてきた対象を捉える。だがグワリグワリと明滅する視野ではボヤけて人物と認識するだけが精一杯だ。そしてその対象が息を短く吐いて迫ってくる。悪寒を誘う強い光はおおかた刀か剣の類だろうと彼は決め付ける。つまりあの攻撃は死んでも避けて行かなければならない。

「おい、銃刀法違反で現行犯だぞ」

「何を意味の分からないことを言っているっ!」

 袈裟懸けのように凪振るわれた凶器を彼は全力で避けきってみせる。これだけでも奇跡だろう。害虫が人間の振るったスリッパをかわしたのに等しい。だがこの奇跡が一体いつまで持つのか、続くのか。次いで二撃、三撃目と恐ろしいほど絶望的な確立を彼はこなしていく。これほどまで彼がかわし続けられているのには、彼の立っている場所が水場だからというのが大きい。向こうも動きの連動が上手くいっていない。しかしだからと言って得物を持っているものとそうでないものではいずれ、いや、瞬時に決着はつく。

 壁際だ。敵が迫ってくるのだから彼は意図せずとも後退せざるを得ない。よって相手方の数度の素振りによって容易く彼は袋に誘い込まれるネズミの如く、追いつめられる。

「冗談じゃないぞ、ったく」

 戻り始めた視界の中、愚痴をこぼしながらも彼は必死になって退路を探す。無駄なこととは知りつつも、既に詰でチェックメイトだとわかっていたとしても。だが、時間というものは平等であり残酷で、探す暇の合間すら潰す勢いで的確に首筋に死は迫る、命を刈り取る死神の鎌のごとく。

 彼は矛盾を発見した。どこの物語でも主人公が死に直面したとき、例えば今彼が置かれている状況に立たされたほとんどの人間は、必ず既で目を瞑る。だが、彼は瞑らなかった。瞑れなかったと言い換えることもやぶさかではないが、彼は目を閉じなかった。反射的に、命の灯火が吹き消される寸前で目をつぶるのは嘘だと彼はその時思った。けれども、それは疑いを持たなければならない、なぜなら、彼が目を瞑る前に目を見張る現象が起こったのだから。

 明瞭になった視野で捉えたのは、意味も現象もわからない奇妙な力の放出だった。しかしその力の出処はなぜか自分だと彼は覚った。迫り来る死を彼の力は強引に跳ね返してみせたのだ。凄まじい、彼には聞いたこともないような高い、しかし重い音。

 驚いたのは彼だけではない、相手も同様だった。

「なっ……っ! 弾いただと!?」

「な、んだかわからないけど助かった!」

 声色で、彼は敵の動揺を察知する。逃げるなら今、千座一隅の時。彼は敵の脇をすり抜けようと浴槽の底を蹴る。

「!?」

 再び彼の視界は歪む。水面に水滴をばら撒いたかのように、光の屈折がバラバラになっていく。足は地に張り付いたかのように動かず、つんのめるかのように彼は抵抗もなしに着水する。

 わからない。彼の思考は脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回されたかのようにまとまらない。意識を保てない。視界で踊る光のコントラストは次第に色を落とし、後にあるのは深い深い黒い海。温かさに全身を撫で回されながら、彼、渡瀬わたせ 命斗めいとは目を閉じた。

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