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09.悪化した草食のトラウマ



□ ■ □



「鈴理先輩、おはようございます」



 学生にとって週の始めとなる気だるい月曜日。

 壮絶な眠気と戦いつつ、いつもどおり徒歩三十分以上掛けて登校してきた俺は、今まさに昇降口に入ろうとしている鈴理先輩を見つけて駆け足。


 彼女の名前を呼びながら手を振って挨拶をする。

 立ち止まって振り返ってくる鈴理先輩は、俺の声を聞くや姿を見るや否や「空!」大声で俺の名前を呼んでBダッシュ。


 猪突猛進に突っ込んできた。うん、駆け寄って来たじゃないよ、突っ込んで来たんだ。

 本能的に急ブレーキを掛ける俺に対し、先輩は小柄な体躯もなんのその。ガバッと飛びついたと思ったら、俺の体を引き倒して、背中に手を回してきた。


 俺の目の前には高く青い空と先輩の顔。

 図体のでっかい阿呆後輩がビューティー先輩に支えられているという、なんと目に毒な光景。


 これは朝っぱらから辛い。


「ちょ、朝からそんなに、なんで情熱的なんっすかっ」


 ここはスペインっすか? 情熱大陸っすか?

 どーでもいいけどっ、周囲の目を気にして下さい! 今更な台詞だけど、気にして下さい先輩! なんてヒロイン(?)の訴えを物の見事に退けてくれる、麗しき俺のヒーロー(?)は「遠慮するな」とキラキラキラキラエンドレス、いつまでも輝いた目で俺を見つめてのたまう。


「一昨日、そして昨日とあんたに会いに行けなかったからな。寂しい思いをさせただろう? ったく、会いたいなど愛い言葉を。で、それはセックスの誘いと受け取っても?」


「会いたいイコールお誘いなんて言語道断っす! “会いたい”にそんな意味合いがあるなんて、俺、ぜぇえったい認めませんっすよぉおお!」


「またまた照れる。誘ったのが恥ずかしかったのか?」


 相変わらず先輩のお耳は幸せっすね、俺は全力投球で否定しているのに肯定に変換とか!


 ああくそっ。

 俺はマジで先輩のこと好いているみたいで、顔が熱くっ、ああああっ、朝からなんったる羞恥心!

 ついでに先輩、そろそろこの格好から脱したい。かんなり注目を浴びている。恥ずかしいのなんのってこの場から消えたいの嫌がらせだ!


 「お、起こさせて下さい」あたふたする俺に、「ではご要望に応えて」意外にもすんなり体を起こしっ、ちゅっ。


 ……駄目だ、俺は羞恥のあまり溶ける。溶けちまう。


 体は起こされたものの、触れるだけのキスをされて俺は身悶え。その場で蹲ってしまう始末。

 いつもはもーっと濃厚なことされているけど、朝から攻められてみ? ぜーって俺みたいになるから。


 敢えて周囲の目は見ず、先輩の目も見ず(見られるもんか!)、立ち上がって俺は改めておはようございますっと小声で挨拶。もはや顔が赤一色だったけど、気にすることなかれ。

 こんなんで気にしてたら身が持たない。ついでに心臓も持たない。


 にやにや、あくどいお顔を作る先輩は挨拶を返して腕を引いてくる。昇降口に行こうってことだろう。従順に俺は彼女の隣を歩きつつ、話題を土曜の夜に切り替えた。ちょっと決まり悪くなりながら、「土曜はすんません」詫びを口にする。


「突然夜分遅くに電話してしまって、ちょっちおセンチになっていたみたいで」

 

 よくよく考えると非常識だったよな。あの電話。

 せめて21時台に電話すりゃあ良かったものを。23時手前にお電話とか。断りのメールを入れてから電話すれば良かったとか、配慮に欠けるとか、色々悶々しちまう。


「馬鹿だな」


 先輩は気にしているわけないだろ、と一笑。

 寧ろ嬉しかった、付け加えて本当に大丈夫だったのかと憂慮を向けてくれる。俺は頷いてみせた。大丈夫も何も元気ハツラツだ。

 

「おかげ様で今は超元気っす。遅い五月病でもきてたんっすかね」

 

 笑声交じりに靴を履き替え、颯爽と俺は彼女と教室に向かうため階段に差し掛かる。

 だけど階段を前に俺は足を止めてしまった。

 

 なに、この階段。

 土曜日まで感じなかったけどめちゃくちゃ高くね? え、これを平然と上っていたの? うそん、マジで?


 ドッと冷汗が出る俺は今朝のことを振り返る。

 そういえば今日の家を出る際、めちゃくちゃ会談に手間取ったよな。マジ下りるだけで半泣きになってやんの。下りるだけで五分は掛かってやんの。ダッセェとか思うんだけど、真面目な話、どうしよう、上れない。無理。怖い。逃げたい!

 

 三点リーダーを絶え間なく出す俺は、ガタブルで階段を上ろうとしている先輩に視線を流す。

 異変に気付いてくれた先輩は、「怖いか?」と一声。ブンブンと首を横には振れず、正直に頷いて「どうしよう」俺は苦言を漏らした。このままじゃ遅刻しちまうって。ああでもでもっ、上るって行為が無理。上に向かう。それが俺にとってめっちゃ怖い。

 

 こんな情けない彼氏を放っておかないのが我が彼女。

 「手を貸せ」誰かと手を繋いで上にのぼれば問題ないだろうと提案してくれた。

 それで効果があるのかどうかは分からないけど、駄目元でレッツトライ。右手で手摺、左手で先輩の手を握って、一段一段ゆっくりと段を上がっていく。


 不思議なことに先輩と一緒に上ると怖さが半減した。


 なんでだろう、先輩が一緒だとホッとする。

 ぬくもりが恐怖心を緩和しているっつーのかな? 彼女の手のぬくもりが安心するんだ。

 ブルブルと震える体を無視して、俺はしっかりと彼女の手を握りながら階段を上った。


 「先輩」「もう少しだ」励ましを貰って俺はどうにかこうにか目的の階まで辿りつくことに成功する。

 上り終えたことにホッと胸を撫で下ろし、先輩に礼を告げた。


 おかげ様で無事に階段を上りきることができた。先輩がいなかったら始終、階段麓でオドオドブルブルしていたに違いない。

 うははっ、それで遅刻とか担任どういう言い訳すりゃいいんだ?! お笑い種だぜ、マジで。

 

 大したことはしていない、と先輩。

 だけど神妙な顔つきで高所恐怖症が酷くなったんじゃないかと指摘してくる。階段から下りるだけじゃなく、上ることにさえ恐怖心を抱くとはある意味重症だぞと正直にズバッと言ってくれる。

 

 変に遠慮をしてくれないところが有り難いな。先輩らしい発言だ。

 俺は「そうっすね」と曖昧に笑って、チラッと後ろを一瞥。

 どどーんっと待ち構えている某急斜面さまに眩暈がした。今日は移動教室もある。ひとりで上り下り、果たしてできるのだろうか。その光景を想像するだけで眩暈、吐き気、動悸が。


「困ったなぁ」


 苦笑する俺を意味深に見つめていた先輩は、たっぷり間を置いて「まあとにかくだ」話題を明るい方向へ持ち直す。


「これでは生活に支障が出るだろう? 現状を見る限り、階段で相当苦労しているみたいだからな。何かあればすぐにでも駆けつけたいが、あたしにも限度がある。だから空、何か遭ったらばあやの名を呼べ」


「え、お松さんの名前っすか?」


 そこで何故にお松さん?


「そうだ。ばあやはあたしが学院にいる間、いつでもどこでもどんな時でも空を見張っておく……ゴッホン。空を見守っておくよう頼んでいるんだ。

 どうしても階段の上り下りで支障が出るようだったら、ばあやの名前を呼ぶがいい。すぐに飛んで来るから」


 さらっと言ってくれる彼女だけど、え、いつでもどこでもどんな時でも俺を見守って(見張って)下さっているんっすか、お松さん。それはそれで怖いんだけど。

 世間ではそれをストーカー行為と呼ぶのでは。


「大丈夫っすよ。そこまでしてくれなくても」


 遠慮する俺に「アホか!」先輩が怒声を上げた。


「あんたに何か遭ってからでは遅いのだぞ! 例えば階段を下る途中、恐怖心からその場で佇んでしまうとしよう。その時の空の顔は、きっと半泣きで欲情を煽る表情だと思う。そんな顔を他の女が見て押し倒そうとしてきたらどうする! あんたのお初はあたしと決まっているのだぞ!」


「安心して下さい。学内の隅々を探しても先輩の妄想するような危険人物はいませんっす」


 寧ろいっちゃん危険人物は貴方っす、鈴理先輩。


 引き攣り笑いを零す俺に「遠慮せず呼べよ」お松さんを頼るよう強要してくる。

 んー、此処まで言ってくれているんだし、本当の本当にやばくなって、動けなくなったらお松さんを頼ろうかな。


 ただ一つ疑問が。

 すぐに来てくれるってお松さんって、いつも何処にいるのだろう? 疑問を投げ付けたかったけれど、返答が怖かったからそっとしておく。


 俺の心配をしてくれているのか、先輩は教室までついて来てくれる。

 何から何まで朝から申し訳ない気持ちで一杯になるんだけど、「この恩は体で返せばいいから」しっかりと下心発言をしてくれたおかげで感謝心が霧散。

 コノヤロウ、それが目的かよー、心の中で盛大にツッコんだ。あくまで心の中で。


 先輩と別れた後、フライト兄弟がやって来て挨拶代わりに朝からラブいなっと茶化されちまった。


 ついで、「花畑から聞いたぜ」アジくんがイチゴくんの話題を出す。


「あいつと仲良くなったんだって? てか、隣人さんだったんだって」


 矢継ぎ早の質問に一々頷いて俺は肯定する。


「隣人と言ってもお互いに憶えていないんだけどね。でも彼と話していたら、懐かしい感じはしたよ」


「ふーん。花畑が言うには、家に帰ったら前触れもなしにお前がいたと言っていたけど」


 そうなんだよな、それでイチゴくんをめちゃくちゃ驚かせちまったんだよな。俺自身もお邪魔するつもりはなかったんだ。

 ちょっとだけ花畑さんとお話できたら、そう思っただけだから。冷麺は美味しかったな。


「でも、なんであいつの家に?」


 アジくんの問い掛けに、「思い出の旅をしたくてさ」俺は曖昧に笑った。

 そう、俺はただ思い出に浸りたかっただけなんだ。あのプチ一人旅は高所恐怖症を治すための、思い出の旅。なんてことのない、けど懐かしくも優しい思い出の旅だった。

 結果的にイチゴくんとまた仲良くできた。今度こそイチゴくんと記憶に残る思い出を作っていきたい。


 そして、早く高所恐怖症、治さないと。

 このままじゃ駄目だ。絶対に、絶対にさ。


 なーんて決意を胸に刻む俺の思いとは相反して、日に日に高所恐怖症は酷くなっていた。

 苦になっている階段は普段お松さんに頼って……いるわけじゃなく、フライト兄弟や先輩と一緒に階段を上り下りしてもらっているし、廊下を歩く時は極力壁際を歩くし、教室にいる時も窓の方には絶対に目を向けない。


 それらを抜かせば生活に支障はきたしていない。取り敢えずは。


 唯一俺の頭を悩ませているのは自分の家の階段なんだ。


 親に心配されたくないから、高所恐怖症が酷くなったなんて言えない(言ったら引越しを考え始めてくれるだろうけど、お金掛かるじゃん!)。

 どう親にばれないよう階段を上り下りするかが決め手になるんだけど、狭い家で毎日顔を合わせているんだ。ばれないようにするってのは至難の業。


 今の俺は窓辺に立つことも困難だから、もしもうっかり恐怖心を表に出したら親に勘付かれてしまうかもしれない。

 こんな状態に陥っているなんて、絶対に親にだけは知られたくない。本当に知られたくない。


 家での俺は必死に欺こうと躍起になっている。

 あの人達に心配だけはさせたくないんだ。


 でもあの人達は察しが良いからな。

 いつまであの人達を欺き通すことができるのか……嗚呼、早く高所恐怖症を治してしまいたい。

 そうだよ、早く高所恐怖症を治して、先輩と観覧車に乗ろう。告白だってしたい。

 俺は攻め困ったさんの先輩が好きなんだ。観覧車に乗った時の彼女の喜ぶ顔を、誰よりも近くで見たい。


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