08.「人肌恋しいだけっすよ」
□ ■ □
「あら、おかえりなさい空さん。遊びに行っていたの?」
家に帰ると、母さんが台所に立っていた。夕飯の仕度をしているらしい。
トントントンとリズミカルに奏でていた包丁の音を止めて、玄関で靴を脱ぐ俺に声を掛けてくる。
「ただいま」俺は笑みを浮かべながら挨拶をして、ちょっと遠出して遊んできたと返事する。
流し台に立って手を洗いつつ、切られた野菜を目にやって俺から話題を切り出す。
「着替えたら俺も手伝うから。ちょっと待ってて」
「そう? じゃあ、私は味噌をといておくから着替えたら、和え物を作ってて」
分かった、俺は頷いてタオルで手を拭くと寝室に向かってブレザーを脱ぐと、ハンガーにそれを掛ける。
皺の寄らないよう気を遣いながらハンガー掛けにハンガーを戻して、カッターシャツのボタンを一つひとつ外した。
随分歩き回ったから汗掻いてる。洗濯しないとな。俺はぞんざいな手つきでシャツを机に放った。
と、シャツの向こうに見える写真立てに気付く。
目を細め、ぎこちない手つきで写真立てに手を伸ばした。手に取ったのは実親の写真。
父さん……母さん……。
「空さん、今日は誰と遊んできたの?」
我に返った俺は、「アジくんとだよ」写真立てを定位置に戻して嘘をついた。
「楽しかった?」母さんは味噌をときながら俺に感想を求めてくる。
「うん、アジくんの地元に行って来たんだ」
俺はうそぶいてズボンを脱ぐとジャージを手にして着用。
ズボンもハンガーに掛けてしまい、シャツの袖に腕を通しながら母さんの手伝いをするため、俺は台所へと向かった。
再度手を洗い、和え物作りに精を出す。ただ食材を酢で和えるだけの簡単な作業だ。
和え物を作りながら、俺は母さんと他愛もない会話を交わしていた。
出来上がった頃合を見計らうように父さんが帰宅したから、三人揃っての夕飯。
これまた他愛もない談笑を交わしつつテレビを観て、家族団らんの時間を楽しんだ。その後、俺は机に向かって勉強、父さんは母さんと晩酌をして時間を過ごしていた。
「勉強もほどほどにな」父さんが途中乱戦してきたもんだから、「特待生だし」と俺は自慢げに返す。
「ちょっとでも気を緩ませたら成績が落ちるからね」
「空くらい勉強熱心だったら、父さんも今頃ハーバード大学に入れてたかもな」
またそうやって息子を茶化す。
拗ねる俺に、「本当さ」空はそれだけの力を持っていると褒めてくれた。
嬉しくないといえば、それは嘘になる。
だって両親に褒められたんだ。やっぱ嬉しいじゃん。実の子じゃない息子をこうやって褒めてくれるんだ。尚更嬉しいよ。此処にいてもいい気がするから。
これからまた暫く勉強に浸っていると、母さんに風呂に入るよう促された。
返事をする俺は勉強道具を片付けて早足で風呂場に向かう。んでもって今日一日の汗を流してリラックス。極楽極楽を満喫した後、風呂から上がって寝る支度へ。部屋が狭いから敷布団を寝室と居間の双方に跨って敷かないといけない。
テーブル台を片付けて俺は母さんと三人分の敷布団を敷くことに専念。
「あら、これ」
と、母さんの声。
振り返ってどうしたのかと訊ねれば、俺の制服付近で屈んでいた母さんはクモを見つけたみたいと苦笑いを零した。
そりゃあ古く狭い家だもんな。イエグモくらいしょっちゅう出るって。
クシャリ。
向こうから聞こえる紙音に気付かなかった俺は、布団を敷いてしまうと机上に置いていた携帯を手に取って、窓辺付近に座った。あくまで付近。窓辺には絶対に近寄れなかったから、付近の壁に腰を下ろして後ろに凭れ掛かる。
イチゴくんから早速メールが来ていたから返信。
その後は着信履歴を呼び出してボタンに指を掛ける。
時間は22時50分か。
躊躇うけど、まだ起きているかもしれない。非常識な時間帯だけど、ちょっとだけ、ちょっとだけ。
俺はボタンに指を掛けて携帯を耳に当てる。
向こう側で聞こえる機械のコール音。三度、四度、五度目のコールで先輩が出た。
ちょい慌てた声音で『空か?』、俺は笑って「遅いっすよ」、昼間の仕返しをしてやる。
少し決まり悪そうに唸って先輩は髪を乾かしていたんだと弁解。もっと弄ってやっても良かったけど、仕返しの仕返しが怖かったから何も言わないでおく。
『どうしたんだ? 空からだなんて珍しいな』
嬉々の含む声音に一笑して、俺は率直に伝える。ムショーに声が聞きたくなったんっす、と。
これまた珍しい、先輩は笑声を漏らす。いいじゃないっすか、俺だってそういう気分になるんっすよ。
だって俺は、ねえ、先輩……俺は。
「先輩。俺っすね」
『ん? なんだ?』
貴方のこと好きなんっす、大好きなんっす。
攻め女に落ちちまった、どーしょうもない受け男なんっす。
出掛かった言葉を呑み込んで俺は、別の言葉を探して探してさがして、誰にも聞こえない声でポツリ。
「今すぐ先輩に会いたい」
胡坐から体操座りに態勢を変えて、俺は抱えている膝に頭を乗せた。
どうしよう、ムショーに会いたいじゃないっすか。
先輩のせいで、いつも攻め倒してくれる先輩のせいで、貴方のことがすっげぇ恋しい。
先輩に会いたい。
俺の我が儘聞いてくれるなら、公開ちゅーしてくれたって構わない。お姫様抱っこも、百歩譲って許す。女装は内容によってはやってもいい。セックスはノーっすけど。
馬鹿みたいに俺、今、先輩に会いたい。情けない顔をしちまうくらい、先輩に会いたい。
『空……何かあったのか?』
「何もないっすよ、ただ人肌恋しいだけです」
軽く自嘲を漏らして俺は言葉を繰り返した。人肌が、人肌がちょっと恋しいだけ。付け加えて、ちょいと寂しがり屋さんになってるのかも、冗談をかましてやった。
『空、大丈夫なのか?』
名前を呼ばれるだけで安堵する。嬉しくなる。笑っちまう。
「もちっすよ。今だけっす、寂しがり屋さんは」
明日にはきっと、元の俺に戻っている。
嗚呼、こうやって何気ない日常が凄く俺にとって癒された気分になる。
そう思わないといけないんだ。
だってそれが今の両親の望むことだから。
そうだろ? 父さん母さん。向こうにいる父さん母さんだって、きっと同じことを思っている筈。はずなんだ。
「どうした。久仁子」
居間側の敷布団の上で、ぼんやりとテレビを観ていた久仁子は夫・裕作に声を掛けられ、ふっと我に返る。
なんでもないですよ、と微苦笑を零すが向こうには嘘がお見通しだったようだ。肩を竦めて隣に腰を下ろしてくる。暫し口を閉ざしていた久仁子だったが、観念して自分の枕したから一通の茶封筒を取り出した。
それは息子の制服下に落ちていたもの。多分ズボンのポケットに入れていたのだろう。
箪笥に仕舞っていた筈の手紙を裏返し、記載されている差出人の名はボールペンで“豊福 由梨絵”。
あの子の実母の名だった。




