XX.王子は声を我慢する姿がお好きらしい
「――先輩」
まるで拒絶されたかのように閉められた障子を見つめ、俺は伸ばしていた手を力なく下ろす。
止められなかった。ゼリーはいらないと言ったのに。いらないと言ったのに。なにより、傍にいて欲しいと願い乞うたのに。
吐息をついて、枕元に置いているグラスに手を伸ばす。
ポカリを口に含み、火照った体を冷ますよう試みるけれど、効果は薄いようだ。体温がポカリの冷たさを奪ってしまうのだから。
「空さま」俺の様子を見かねたさと子ちゃんが声をかけて来る。宙を見つめたまま苦笑を零した。
「先輩の心の傷は深いね」彼女の垣間見えた心情に寒気を感じ、傍にいて欲しいと切に思ったのだから。御堂先輩の思考のすべては読めないけれど、俺の目にしたあの心情は、表情は、確かなる憎悪だった。誰に対する憎悪なのか、想像しなくとも分かる。
さと子ちゃんも気付いていたのだろう。
しゅんと項垂れてしまう。
チャームポイントであるポニーテールも畳に向かって力なく垂れていた。
「仕方のないことだと思います。大旦那様のされたことは、お嬢様の御心を傷付ける他ないものでしたから。空さまだってあの事故は」
そっと人差し指を立てると、さと子ちゃんが大慌てで口を噤んだ。
きょろきょろと辺りを見渡す彼女に、「真相は秘密でしょう?」注意を促す。
ごめんなさいと反省の色を見せたさと子ちゃんに、今度から気を付けてくれたらいいよ、と笑って肩を竦めた。怒ってはいないんだ。怒っては。
ただ御堂先輩の耳に入ったら、それこそ取り返しの付かないことになってしまう。今でさえ憎悪が垣間見えているのだから。あの姿を見ていると、傍にいたい気持ちが増す。
「さと子ちゃんは大丈夫? 事件に巻き込んでしまったけれど」
「本音をいえば、まだ悪夢を見ます。でも大丈夫です。お二人がいらっしゃいますし、蘭子さんも気に掛けて下さいますから」
元気なのだとガッツポーズを作るさと子ちゃんの空元気に目尻を下げた。
見え見えの演技だけれど、目を瞑ってあげよう。彼女が俺の空元気に目を瞑ってくれるように。
「七瀬さんがいなくなった分、お仕事も増えちゃいましたけど、これくらいどうってこと……、ううっ、どうってこと……、ないんですから」
グズッと涙ぐんでテーブルに伏してしまうさと子ちゃんに、俺はいつまでも頭上に三点リーダーを浮かべていた。
この状況にも目を瞑るべき、なのかな。
慰めの一つでもかけてやるべきかも。彼女は彼に恋をしていた身の上だから。
(博紀さん、異動でこの家からいなくなっちゃったんだよな。今頃は淳蔵さんの側近をしているんだろうけど)
御堂財閥の内紛は耳にしている。
淳蔵さんと源二さんが対峙した今、俺は御堂先輩の幸せを願い、思い、最後まで源二さん側につくことだろう。それこそ何があろうとも。
知らず知らずペットボトルを握り締めてしまう。
淳蔵さんを敵に回すことがこんなにも怖い。命を狙われたと知っているだけに。
それでも俺は自分の意思で、婚約者でい続けようと決意をしている。それを覆す気はない。支え続けてくれた彼女の傍にいると、守り続けると心に誓ったんだのだから。
「先輩の憎みはいつか、復讐心に変貌してしまうかもしれない」
俺の呟きに、テーブルに伏していたさと子ちゃんが顔を上げる。
「そんなことっ」否定しようとして唇を噛み締めた。頭から否定できないのだろう。そんな彼女に俺は笑みを向けた。
「だから俺とさと子ちゃんで精一杯守ってあげないとね。淳蔵さまのことを忘れてしまうくらい、楽しい毎日してあげよう」
見る見る彼女の表情が晴れていく。
うんうんっと頷き、「空さまは早く」お嬢様に抱かれてくださいね、と手を叩いた。
今まさにポカリを口に含もうとしていたため、盛大に液体を噴出す。ゲホゴホと咽る俺は顔に熱を集め、なんてこと言うのだと反論。きょとん顔を作るさと子ちゃんは、「空さまがお嬢様を抱かれるのですか?」と首を傾げる。
いや、そういうことじゃなくってさ!
「さと子ちゃんっ、俺と御堂先輩は高校生なんだよ。つまり何が言いたいかっていうと……シないよ!」
「またまたぁ。空さまったら、恥ずかしがらなくとも良いんですよ。雄々しく食べられてください!」
全力で応援していますから!
握り拳を作るさと子ちゃんが勢いよく立ち上がり、「耳栓だって常備するようにしました」着物の懐から小さなゴム製品を取り出してニッコリ。
「これで、いつでも声を出して大丈夫です。あ、ウォークマンも買ったのですよ!」
えへ、私もできる女中になったでしょう? 褒めて褒めてと言わんばかりに胸を張ってくるさと子ちゃん。
ズーンと落ち込んでしまったのは言うまでもない。
「あ。あれ?」どうしたんですか? 慌てふためくさと子ちゃんに、「新手の苛めだ」シクシクと嘆いた。
誰だよ、さと子ちゃんにこんな至らん入れ知恵をしたのは。蘭子さんか? 先輩か? それとも異動した博紀さんか? ああもう、俺が嬌声を上げる前提でやんの。先輩じゃなく俺が声を上げる前提。泣きたい!
でも現実問題、本当にそうなのだから否定もできない!
半泣きのまま布団に潜り込もうとすると、「空さま!」さと子ちゃんが侵入してきた。
間の抜けた声を出して驚く俺に、「私はお二人の味方ですから」お二人を応援するのだと綻んでくる。
彼女は俺の想い人が誰なのか知っている。三角関係を知った前提で、俺と御堂先輩を応援してくれているんだ。本音を言えば俺と御堂先輩の仲を応援したいところなのだろうけれど、さと子ちゃんは優しい。だから個々人を応援してくれている。一友人として。
「できれば空さまとお嬢様が結ばれてくれるのが一番なんですけどね」
ぺろっと舌を出すさと子ちゃんに微苦笑を零す。
と、その時、障子が無遠慮に開かれた。
ゼリーを取りに行った御堂先輩が戻ってきたようだ。王子は部屋に入るなり、足を止めて眉を寄せてくる。
「何をしているんだい?」揃って布団に入って。交互に指差してくる王子に、俺達は顔を見合わせる。「何って」「それは勿論」簡単な会話を交わし、いそいそと布団に潜水。
「こら、二人とも」
訝しげな顔をしているであろう王子が歩んでくる。
毛布を引き剥がす頃合を狙い、二人で捨て身ののしかかり。「うわっ!」驚きの声を上げる御堂先輩を下敷きにして笑声をあげた。
悪戯に成功する俺達に呆気取られていた王子も仕方が無さそうに笑い、「まったく。この状況は」両手に花じゃないか、と俺とさと子ちゃんの頭に手を置く。瞬間、抱き締められた。二人でギブギブと白旗を振ると、今度こそ彼女はあどけなく破顔する。
その表情に安堵感を覚えた。
御堂先輩はそれでいいんだ。今の表情を作る先輩が一番いい。
もし感情に暴走することがあれば、俺達が全力でとめる。だから、ずっとそうやって笑っていて欲しい。そう願うことは贅沢だろうか?
よっこらせ。
親父くさい掛け声と共に布団の上に座り込み、「しんどいや」暴れすぎたと苦笑いを零す。
くしゃみを一つすると、「本当に不調だね」風邪の引き始めみたいだし、御堂先輩が憂慮を見せた。「毛布を増やしましょう」あったかくして寝ていれば治りますよ、さと子ちゃんが襖に向かう。
あ、やべ、あの襖の向こうには!
「さ、さと子ちゃん。自分で取るからいいよ!」
「え?」時既に遅し。さと子ちゃんが襖を開けてしまった。
中から顔を出したのは、お魚さんの形をしたお醤油入れ。ほら、よく弁当とかについているあれだ。あのお醤油入れが半透明のビニール袋に大量に詰め込まれている。上下段に渡って仕舞われている沢山のお醤油入れにさと子ちゃんと御堂先輩が硬直した。
まずい。これは非常にまずい。
指遊びをして、この場をどう乗り切ろうか考える。
けれど二人は時間すら与えてくれない。「あれは!」「何ですか!」ずいっと詰め寄られてしまい、えへへ、俺は誤魔化し笑いで凌いだ。
「あれは、お醤油入れ……です」
「それは分かっていますよ! なんですかっ、あの量?! いつの間に仕舞われていたのですか!」
「え、えっと。入院していた時に、母さんから分けてもらって、こっそり」
「こんなに沢山っ、何のために使うんだい?! コレクションするにも程があるだろう。捨てろ、今すぐに」
容赦ない御堂先輩の命令に、「駄目です!」声音を張って、この醤油入れは商品なのだと慌てふためく。
目を点にする二人に、「これは内職の商品なんです!」捨てられたら困るのだと洗いざらいに白状した。
内職の内容は醤油入れの蓋を閉めるだけ。一個当たり円以下、銭単位の商品だけれど、お金にはなるのだから捨てられたら非常に困る。
「入院中、あんまりにも暇で……母さんに頼んで内職の商品を分けてもらったんです。寝ているだけなんてつまらないですし、時間も勿体無いですから。これならお金になると思いまして。これが意外とハマッちゃって。あと少しで終わるんですよ。昨日も徹夜で……、あ、まずい」
片眉を痙攣させる御堂先輩がわざとらしく吐息をつく。
「徹夜……、なるほどね。君が体調を崩した一番の原因は寝不足にあるのか。徹夜は体調を崩しやすいからね。……っ、豊福! 何をしているんだい! まだ病み上がりなんだぞ! 体を考慮して一緒に寝ることを控えていたら、こんなことをしているなんて」
「ご、ご、ごめんなさい! でも、時は金なりっすよ? 時間は無駄に出来ません。ちょっとでもお金になるなら、頑張りたいじゃないっすか!」
「財閥の子息候補が内職だなんてっ、君って男は」
「俺の家は財閥なんて関係ないっすもん。父さん、母さんが楽になるなら、俺は頑張っちゃいます。これと実家の分を合わせれば、なんと五万も貰えるんっすよ!」
醤油入れの蓋を閉めるだけでお金になるなんて! 嗚呼、内職は魅力ですよね。
目をらんらんに輝かせて語り部に立つ俺は、「すっかり内職に魅せられちゃって」新聞の折り込みチラシや内職が載った情報誌を集め出したのだと敷布団の下から取り出した。あわよくば個人でしてみようと思うのだと得意げに話す。
瞬く間に婚約者から資料を奪われてしまい、悲鳴に近い声を上げてしまった。
「内職は元気になるまで禁止だよ。これも没収だ」
「ど、ど、どうしてっすか! 俺、寝ているだけなんて暇でしょうがないんですけど!」
「そうやって体を酷使するから体調を崩すんだ。いいかい、内職は勿論、治るまで勉強も禁止だ。僕が見ていない隙に好き勝手して、まーた体調を崩されたら困るしね」
そんな……、殺生な!
じゃあ本当にただ寝ているだけの日々じゃないっすか!
酷いひどいと喚く俺に、「暇なら」僕が相手をしてあげるよ、意味深長に王子が微笑んでくる。
本能が警鐘を鳴らした。
千行の汗を流し、それは遠慮すると後ずさる。
すかさず手首を掴んで逃げ道を塞いでくる彼女に、「お。おとなしく寝ていますから」だから御慈悲を。懇願を込めて許しを乞う。
体が布団に沈んだ。
覆いかぶさってくる王子を見上げ、ひっ、と声なき悲鳴を零す。
こうなったらさと子ちゃんに助けを……、あ゛! あの子、いそいそと耳栓をし始めたよ! ちょっ、さと子ちゃんっ、助けてって! SOS、SOS、SOS!
「暇だと思うくらい寂しかったんだね。ごめんごめん、僕としたことが」
「アイタタッ、お腹が痛くなってきましたっ! だから俺、寝ます! ホンット寝かしてっ、うわぁああああっ、どっこ触ってるんっすか!」
「さっきみたいなキスをしてあげる。声を我慢する豊福、凄く可愛かったよ。僕の燃えるシチュエーションの一つは相手が必死に声を我慢している姿なんだ」
「え、えげつな!」
「露骨に声を上げる姿より、断然声を必死に我慢する豊福の方が可愛いよ。あの姿、もう一度みたいな」
浴衣の袂に白い手が伸び、するりと中に侵入してくる。
肌着の上から体の全面を撫でられるだけで恐怖心が込み上げてきた。く、食われる!
「ほんっとうに勘弁して下さいって!」泣きべそを掻くと、「泣き顔はそそられるだけだよ」鬼畜王子がとんでもねぇことを仰いました。
大変である。何を言っても聞いてもらえない。俺は大ピンチのようだ!
貞操の危機を迎えている俺の傍らでは、急須からお茶を注ぎ、それで一息ついているさと子ちゃんの姿がいたりいなかったりである。
「仲が良きことは美しきことかな、ですかね。お嬢様、頑張ってお心を掴んで下さい」




