XX.僕は“好き”が欲しい
フィアンセ(婚約者)。
将来を誓い合い、結婚の約束を交わした関係のことをさす。またその約束のことをエンゲージと呼ぶ。
※財閥界では確かな世継ぎと未来を確保するため盛んに許婚、婚約が取り結ばれる。
□ ■ □
「蘭子。作った僕が言うのもなんだが、これはあんまり美味しそうには見えない。君が作りなおしてくれないだろうか?」
「駄目ですよお嬢様! 蘭子さんに作り直してもらうなんて。折角お嬢様が作ったのですよ? 空さまに召し上がってもらわないと!」
「左様でございますよ。私が作ってしまえば元も子もございません。気持ちが大切なのです、気持ちが」
前略、同財閥対峙により、多忙な毎日を過ごしている父さま。母さま。
あなた方の息子、じゃない、娘は料理という強敵に手こずっている次第です。
男装を好み、気持ちも男になりきる僕が何故厨房に立っているかと言いますと、話せばとても短いのですが、退院したばかりの婚約者が体調を崩してしまったのです。度重なる出来事に疲労が出てしまったのでしょう。今朝から布団に入ったままです。
思い起こせば僕と婚約してからの幾月。不慣れな環境、立場、借金に実家との二重生活、過剰な勉学、軟禁、誘拐、事故、入院。色んなことがありました。病院で体を休めたとはいえ、体調を崩す要素は満載です。
お家騒動に一段落ついたからこそ緊張の糸が切れたのかもしれません。本当は実家に帰して療養させてやりたいところですが、布団から動けそうにないようです。熱はないようですが、本当に具合が悪そうでわるそうで。
だから僕なりにできる労りを、と思ったのですが。
「月見うどんなのに玉子がばらばらのぐちゃぐちゃ」
自分の作ったうどんに眉根を寄せてしまう。
月見うどんの“月見”は玉子が月に似ているから、そう呼ばれるのであって、これじゃあ曇天うどんだ(もしくは霞うどんか?)。スープの表面に漂った白身の残骸を一瞥して吐息をつく。黄身の姿なんてどこへやら。
ただうどんに卵を落とすだけなのに、どう手順を間違ったのだろう? 麺ものびていそうだし、家庭科の成績がこの料理で判断できるほどの酷さだ。我ながら不器用さには恐れ入るよ。
「お嬢様が今までお料理からお逃げになった結果ですよ」
痛烈な一言を蘭子から浴びせられる。
頬を膨らませる間もなく、盆に丼と小皿を載せた蘭子が「これを持って」空さまの下に行って下さい。お腹をすかせていますよ。有無言わせない微笑で押し付けてきた。
体調不良だから美味しいものを食べさせてあげたかったんだが……、慣れないことなんてするもんじゃない。
(鈴理ならきっと美味しい月見うどんを作るんだろうなぁ。あいつは獰猛ながらも女子力はあるから)
それにひきかえ、僕の女子力はてんで駄目。
男子力はそこらへんの男子に負けないほどの力を持っていると自負しているけれど。……あー、こんなところでライバルとの差を見せ付けられるとは思いもしなかった。女子力を高めたいと思ったことはないが、典型的に家事が駄目なのも考え物だな。
口を曲げつつ、盆を持って厨房を後にする。
「大丈夫ですよ。お嬢様。空さまなら、きっと喜んで下さいます」
急須の盆を持っているさと子に顔を覗き込まれた。
見栄えの悪いうどんに唇を尖らせ、「これ。食べたいと思うかい?」彼女に視線を流す。「え」新人女中は正直な表情をしてくれた。そうだよな、人もそうだが、料理もある程度の見た目は大事だよな。豊福は喜んでくれるだろうか?
「だ、大丈夫ですって」空さまはお嬢様の気持ちに喜んで下さる筈です! さと子が大袈裟にフォローしてくれる。
あまり過剰にフォローされると、それはそれで虚しいものを感じるんだが。
気乗りしないまま障子の前に立つ。
盆を持って佇む僕に対し、連れはその場に両膝をついて、一旦持っている盆を置いた。「空さま」お昼のご用意ができましたよ。部屋の主に声を掛けるけれど反応はない。寝ているのかもしれない。
さと子と視線を合わせる。彼女はさっきよりも大きな声音で「失礼しますね」、そろそろーっと障子を開けた。
すると向こうから魘されるような、細い声が僕の鼓膜を振動させた。
早足で中に入ると、顰めた顔でうんうん唸っている婚約者の寝顔が。よほど恐ろしい夢を見ているらしく、毛布を握り締めるように眠っている。
もしかしたら“あの事件”が尾を引いているのかもしれない。
退院して間もないんだ。悪夢を見てもおかしくない。人の死を目の当たりにしてしまったあの事件、巻き込まれたさと子だって、今は平然としているけれど当時は精神的に参っていた。心身共に完治するには時間を要すだろう。
と。
「せく、はら……、せんぱ……、うぅ……、えぐ、い」
死にそうな顔で魘されている、その寝言を聞いてしまった僕。
あわあわとしているさと子がこっちを一瞥して、「ひっ」と悲鳴を上げていたけれど目を瞑ることにしよう。
そうかそうか。
悪夢を見ている内容のすべてを把握することはできないが、僕の心配する内容ではなかったようだね。
果たして婚約者が、僕の悪夢を見ているのか、元カノの悪夢を見ているのかは定かではないけれど、非常に失礼な悪夢を見ていることだけは明言できる。
なら、僕の行動すべきことはひとつだ。
長テーブルに盆を置き、パキポキと軽く指を鳴らした後、「楽しいお目覚めの時間だよ」悪夢なんて吹き飛ばしてあげるさ。相手を見下ろし、ニンマリ口角をつり上げた。
布団の上に膝をつく。唸り声を上げている唇にそっと人差し指を這わせると、ゆっくり輪郭をなぞる。
「何をする気なのですか」さと子の疑問に、「こうするんだ」にっこり微笑んで人差し指を口腔へ。「え゛」声を上げるさと子を無視して、柔らかな舌を人差し指で探った。
「んっ」
息苦しさからなのか、それとも感触への違和感からなのか、豊福が眉根を寄せた。
無意識に指を食む彼。意識がないため、加減なく食まれたけれど(……痛い)、構わず上顎を擽る。「んんっ」指の腹で顎裏を撫でると、豊福が首を振った。そろそろ目覚めそうだな。
予想通り、豊福の重たそうな瞼が持ち上がった。濁った瞳を覗き込む。焦点が定まっていない。寝ぼけているようだ。
「おはよう豊福」
舌を指で押してやると、「んーっ?!」目を白黒させた彼が悲鳴を上げた。
なんで自分の口内に指が?! パニックになっている彼の口から指を抜き、代わりに熟れている唇を食んでそのまま塞ぐ。
その際、「さと子が傍らにいるから」声を出したら恥ずかしい思いをするよ。と、助言してやった。何がなんだか分からない豊福は、僕の助言のみ受け取ったらしく、声を上げぬようシーツを手繰り寄せ、そのままそれを握り締める。
いいねぇ。あからさま声を上げられるより、そうやって声を我慢してくれる方が僕としては燃えるよ。とても燃える。
「っ、ぅ、ぁ」
そして我慢できずに声を漏らして、自分の声に羞恥心を噛み締める姿が最高にいいんだ!
僕の舌に自分の舌を絡め取られ、豊福は声を上げそうになる。それでも必死に声を抑えようとする姿が健気だ。息継ぎすらも声を抑えようとする姿はとても可愛い。
「お、お嬢様。そろそろ解放してあげないと空さまが。あわわっ、お嬢様! 空さまは病人ですからねっ!」
いそいそと衣服を取っ払おうとする僕をさと子が全力で止めたのは、この数秒後のことだった。
「―――…なん、で寝込みを襲われたんっすかね俺。……凄まじいキスでしたよ。ほんと」
ぼさぼさの髪をそのままに、上体を起こしてこめかみを擦っている豊福が深い溜息をついた。
きょろっと彼の目玉が動く。行為の追究をしているのだろうけれど、するまでもないと僕は思っている。原因は十中八九、豊福だ。すべてにおいて非礼を口にした、いや無礼な夢を見た豊福が悪い。
ぶすくれている僕を余所に、茹蛸のように頬を紅く染めているさと子が「情熱的だった」と胸を押さえている。初心な彼女には刺激が強かったかもしれない。
刺激に関しては豊福も同じことが言えるようだ。
キスで無理やり起こしたところまでは良い。
けれど、目覚めた彼は蒼白した面持ちをしていた。今朝からずっとこれなんだ。本当に具合が悪そうでわるそうで。
蓄積された疲労が今になって出てきているのだろう。「熱っぽいね」額に手を当て、軽く体温を測る。「寒気は?」その手を首筋に滑らせた。体は火照っているようだ。いつもよりも熱帯びている。
首を横に振り、彼は水分補給がしたいと口にした。さと子が気を利かせてミニ冷蔵庫からポカリを取り出し、グラスに注ぐ。
「空さま。お昼のご用意ができています。玲お嬢様が作ってくださったんですよ。少し、お召し上がりになりませんか?」
並々とポカリを注いだグラスを持って戻ってくる女中の申し出に、彼は迷うことなく首を縦に振った。
「無理しなくてもいいんだぞ」ただでさえ僕の料理の腕はお粗末だし。もう麺がのびているかもしれないし。玉子はバラバラだし。口ごもりつつ、相手の体を気遣う。
「俺のために作ってくれたんでしょう?」なら尚更に食べたいです。はにかむ豊福に頬が上気した。改めて彼のことが好きなのだと痛感してしまう。調子が狂うな。何気ない言動にすら意識を傾けてしまうのだから。
―――本気で彼に恋しているんだな、僕は。
小皿に少量のうどん麺を移し、更に箸で麺を切って食べやすくする。最後はそれをレンゲで掬い、口元に運んでやる。
普段なら恥ずかしがって遠慮する彼だけれど、今日はその元気もないようで大人しく食べさせてもらっていた。「美味いっす」力なく綻ぶその表情に笑みを返す。うそばかりつく彼の瞳は誠意で溢れていた。本音なのだろう。
見た目はよろしくないけれど、味はよいと思っていいのかな。
「早く元気になるんだよ」
頭を引き寄せてキスをする。
さすがの彼もこれには羞恥心を駆り立てられたらしく、「さと子ちゃんがいるんですから!」と、抗議された。
「空さま。私のことは背景とでも思ってくれたらいいので」
にこにこっと笑うさと子。
一方で項垂れる彼は余計に恥ずかしくなる気遣いをどうも、と返事していた。いつまでたっても初々しいな豊福は。こうして和気藹々と過ごすのも久しい。
微笑ましい気持ちを抱く胸に微かな翳りが落ちる。誰にも悟られないように表情を作り、「そうだ」ゼリーも用意していたんだ。小皿をテーブルの上に置き、彼の髪をくしゃくしゃに撫でてやる。
「え。でも」うどんがあるのに。豊福の戸惑いに、「全部は食べられないだろ?」それに甘い物は疲労を癒してくれるから。目尻を下げ、腰を上げる。
火照った掌が手首を掴んできた。男子らしい肉付いた腕を目で辿り、相手と視線を合わせる。意味深長に見つめてくる彼が首を横に振り、「此処にいて下さい」ゼリーはまた今度でいいから。物静かに伝えてくる。
豊福は察しているのかもしれない。僕の気持ちに。
「嬉しい申し出だけど、少しでもいいから食べるべきだよ。戻ってきたら、うんと甘えさせてあげるから」
掴んでいる手の甲に口付けして、そっと彼から離れる。
「先輩」呼び声に手を振り、障子を開けて廊下へ。爪先を目的地にあわせ、ゆっくりとした歩調で厨房に向かう。
確信を得た。婚約者は気付いている。僕の翳りある感情に。だからこそ傍にいて欲しいと、らしくない甘えを見せた。少しでも翳ある感情に支配されないように、豊福は気遣ってくれている。
嬉しいけれど、こればっかりは豊福でも止められそうにない。
だって、僕はもう少しで“好きな人”を失うところだったのだから。彼のあどけない表情を見る度に心の底からホッとする。反面、奪われたかもしれない恐怖心に駆られる。結果的に残るのは憎悪だ。
(いつだって。それこそ生まれたその瞬間から、奴の手によって人生を引っ掻き回されてきた)
奴のせいで男嫌いになり、女の自分を受け入れ難くなり、肩身の狭い思いをしてきた。
挙句、あいつは僕達を駒のひとつとして辛酸な日々を味わわせた。許せるわけがない。
既に御堂財閥の一件は財閥界に事は知れ渡っている。派閥争いは避けられないだろう。勿論、激化していくであろう御堂財閥の内紛も。はっきり言えば御堂財閥はかつてない危機に追い込まれている。
けれど同時にチャンスだと思えてならない。
(奴は父と敵対している。それはつまり、僕とも対峙していることを示している。―――…いつか必ず、余す感情をあいつにぶつけてやる)
奴がいる限り、僕達に真の幸せは訪れない。
一時の幸せを得ようとも、それはすぐに脆く崩れるだろう。あいつの手中にいる限り、僕達は幾度も“駒”として利用される。明言できる。
だからいつか。いつの日か。
足を止めて庭園に視線を流す。
静寂を保っている庭から、微かに水音が聞こえた。池に身を置いている鯉が跳ねたのだろう。
嗚呼、平和だ。本当に平和だ。いつまでもこの平和な日常が続けばいい。
「やっと純粋な関係になれたんだ。豊福にはずっと傍にいて欲しい」
散々な目に遭っても、あの頃と変わらず、平日は僕の家で居候をすると決まっている彼(居候という表現は不適切かもしれない。花婿修行にしておこう)。
まだ事件のことを引き摺っている節は垣間見えるけれど、僕の傍にいてくれる選択肢をしてくれた。好きな女ではなく、守りたいと位置づけている僕を選んでくれた。なら僕もそれ相応の行動を起こそう。
これは僕の、彼に対する好意の表れだ。
なにより、はやく好きと言ってもらいたい。彼に好きな人と言ってもらいたい――。




