23.「あたしはいつだってヒーローだ」
限界に近付いていた俺の首から男の手が離れた。
酸欠寸前の体はふらっと前に傾く。体を受け止めてくれるのはさと子ちゃんだ。
大丈夫ですか、しっかり、震える声音で応答を呼びかける。大丈夫だと相手の肩に手を置き、どうしてこうなってしまったのだと犯人達にガンを飛ばす。
狭い隙間を裂くように助手席に乗り込む浮浪者は、「安心しろ」お前は殺さん。大事な金づるだと肩を竦めた。……俺は? なら、巻き込まれたさと子ちゃんは? 反射的に彼女を背に隠す。ガタブルの彼女は俺の背にしがみ付いてきた。
バックミラー越しにこっちの様子を窺ってくる男は口角を持ち上げ、「信義のガキだな」面影が似てやがる、感想を述べてきた。
信義。
それは俺の本当の父さんの名前だ。なんでこいつが、俺の父さんの名前を。
対向車線を使い、まんま暴走車と化すこの車に幾度となくクラクションを浴びせられる。
ドッドッド、ドッドッド、ドッドッド。
高鳴る鼓動を抑えていると、「裕作もスキモノだな」キャツが語り部に立つ。
悪意ある眼で俺を捉え、まさかあの万年貧乏くんが兄貴の子供を引き取るなんて思いもしなかった。ガキなんて引き取ったところで家計を圧迫するだけだろうに。あいつの神経が分からん。安月給で生活を凌いでいるくせに。
一々俺の神経を逆撫でる言の葉を羅列するその浮浪者は、相棒から程ほどにしとけよ、と窘められていた。
片割れから、「濱」という名前を聞いた瞬間、愕然としてしまう。
濱。
忘れもしない名だ。
そいつは俺の父さんの従兄弟であり、ろくでもない人間として親戚から疎んじられていた。その男の名義により、いつの間にか連帯保証人にされてしまった父さん。俺達豊福家が借金地獄を味わう羽目になった元凶。
そうか、お前がっ、お前が父さんの従兄弟っ! 俺達に借金を押し付けた張本人っ!
「お前がっ、濱っ……どーりで父さん達のことを知った口振りで話すわけだ! よくもっ、よくも俺達家族を貶めたな!」
「おっと」掴みかかろうとする俺の眉間に無機質な物体が押し付けられる。
過去にもお目にかかったことがあるそれ、引き金を引けば一発でお陀仏になるであろうチャカと呼ばれる凶器にさと子ちゃんが悲鳴を上げそうになった。けれど激昂している俺には通用せず、「撃てばいいだろ!」早く撃てよ! 撃っちまえクソ! 挑発して相手を煽った。
「そ、空さま駄目です!」
背にしがみ付くさと子ちゃんが胴に腕を回し、必死に止めてくる。
けれど何も目に入らないほど俺は怒り心頭していた。
お前のせいで俺達家族はどれだけ辛いを噛み締めたと思う?
父さんは見覚えのない連帯保証人の著名に絶句し、母さんは俺を借金の肩代わりにしなければいけない現実に涙した。見てみぬ振りをしてきたけれど、二人は何度も息子に謝罪していた。借金の負担を息子一人に押し付けてしまう、親で本当にすまないと何度も、なんども。
御堂家が俺達に手を差し伸べなければもっと見ていただろう、その借金地獄。
いや肩代わりの日々も優しくはなかった。御堂先輩、夫妻が支えになってくれていたけれど、今までにない束縛された日々を送る。それは並々ならぬ苦痛だった。あの家族には言えないけれど、幾たびも俺は挫折していた。自分の意思すら砕かれ、ただただ他人のために生きる。誰かのために生き、そして死ぬことは心が死んでいることも同じ。
俺が俺のために生きることを許されない。本当は嫌だった、泣きたかった、しんどかった。
でも救済の手を差し伸べてくれた御堂家のためならば、といつだって前向きに努力してきたんだ。
お前にその苦労のっ、努力のっ、何が分かる?
唸り声をあげて相手を見据えていると、「めでたい奴だ」嵌められたことすら知らずに御堂家を慕っているなんてな。浮浪者改め濱が大袈裟に肩を竦めてくる。
どういう意味だと詰問。
車は左にカーブし、信号を無視して直進する。ネオンの明かりを視界の端に入れつつ、濱は銃口を二、三度、ぐりぐり押し付け鼻を鳴らした。
「ま、どうせ金を貰ったらトンズラするわけだし」喋っても構わないだろう。嫌みったらしい笑みを作り、分厚い唇を開けた。
「怨むならお前に恋したご令嬢を怨むんだな」
御堂先輩を? 意味が分からない。どうして彼女の名が。
「ご令嬢がお前にお熱をあげたことがすべての始まり。―――御堂淳蔵と俺が契約を交わすことになった引き金はあの男装お嬢さんだ」
おっと困惑しているようだな。
お前さんは御堂家に多大な恩義を感じているようだし、途方に暮れているのも分かる。
だがこれは紛れもない真実。男嫌いの御堂玲が一端の野郎に恋に落ちたと知るや、あのじいさん、俺に連絡をよこしてきやがった。どっから個人情報を入手したのか分からないが、俺に名を貸せと交渉してきたよ。裕作を連帯保証人に貶めるために、な。
報酬は五百万。
お前等が負った借金の額をまるっと俺に渡すと約束してくれた。金には困っていたが半信半疑。
詐欺なんじゃないかと疑心になりながら名前を貸したら、本当に五百万が預金通帳におさまってやがった。ただ名を貸すだけで一般リーマンの年収がごっそり通帳に入る。そりゃ快感も快感だった。
感謝したぜ。お前に恋したお嬢さんを。
あのじいさんがお前にどんな利用価値を見出して貶めようとしたかは知らんが、いい金づるになった。
今、こうしてお前の身を捕獲したのも紛れもないじいさんの差し金。捕まえれば報酬百万、指定された場所に運べば五百万が入るって寸法だ。お前、どんだけ金になんだぁ? まじ助かるぜ。
「ショックか。恩を抱いていた財閥の真実を知って」
呆ける俺の表情をさも面白そうに見やる濱。
ショックか? 大ショックも大ショックだよ。まさか、俺達を助けてくれた家族が≪真犯人≫だったなんて絶句も絶句。目の前真っ暗だよ。
御堂先輩が俺に恋をしたから、だから淳蔵さんは目を付けた。豊福家を平然と奈落に突き飛ばし、偽善者ぶって救済の手を差し伸べる。狡いこと極まりない。俺が恩を返そうとしていた行為は一体……、ああでも。でも。だけど。
脳裏に御堂先輩の横顔が過ぎる。
あの人は何も知らなかったんだ、この事実に。
今なら分かる、彼女がどうして俺達家族を不幸だと称したのか。なんで俺に何度も謝罪していたのか。傍に居て欲しいと切望していた眼が哀しみにくれていたのか。彼女は俺より先に真相を知り、罪悪を抱き、なおも俺を好いて淳蔵さんの言いなりになろうと成り下がっていたんだ。
それがせめてもの罪滅ぼしだと言わんばかりに。俺のことを好いてしまった、その後悔を噛み締めながらも、想いを寄せてくれていた。
―――怨めるわけない。彼女のことを。
「どうした? 絶望のあまり、声も出ないか。もしやあのお嬢さんも」
「そ、空さま。お嬢様は大旦那様とは違います! 玲お嬢様は本当に空さまを想って」
―――怨めるわけがない。本当の関係を欲していた彼女のことを。
「ま、俺なら怨んで仕方がないだろうがな。あのあばずれを」
「先輩をわるく、言うな」
―――怨めるわけがない。借金の呪縛から解き放とうとしていた彼女を怨める筈がないんだ。
「これ以上、御堂先輩を侮辱するならマジ相手になんぞ。俺は薄汚い金で交渉に応じ、家族を売り飛ばしたお前の方がよっぽど憎い!」
利き手で勢いよく銃口を払った。
瞠目する濱の手を捻り、その物騒な凶器を手放させる。見事な連携プレイでさと子ちゃんが銃を奪い形勢逆転。
かと思いきや、彼女は銃を拾うや違和感を覚えたのか軽くそれを振る。
「も、もしかして」銃のボディを触り、おもむろにひっくり返す。
中から小さな弾が出てきた。オレンジ色の弾は見覚えがある。誰しもが一度は触ったことがあるであろうBB弾。遊戯銃だと顔を引き攣らせるさと子ちゃんに俺も面食らった。お、おもちゃに脅されていたってか?!
「ははっ! 当たり前だろ。本物を持っていたら銃刀法違反で捕まっちまう」
けどな、こういうものは護身用として持てるんだよ。
濱は俺の隙を見て、利き腕に折りたたみナイフを突き刺した。
「空さま!」さと子ちゃんの悲鳴と俺の悲鳴がハモッた。堪らずに身を引く。刺された箇所を押さえると、指の間から鮮血が滴った。深く刺されたようで、相手の持つナイフの刃は全面的に濡れていた。ぺろっと人の体液を舐め、シニカルに笑う濱はおとなしくしていた方が身のためだと忠告してくる。
でなければ可愛いお嬢さんがどうなるか。濁った瞳を宿す目玉がきょろっとさと子ちゃんを捉えた。青褪めている彼女を車窓に追いやり、「ふざけるな」金づるは俺だけだろ。痛みに声音を震わせながらも、相手を睨んで威嚇する。
「そうだ」
だからそこの付録は不要なのだと濱は嫌みったらしく頬を崩す。
それでも付録は活用するつもりなんだろう? どいつもこいつも人の弱味を握るクソッタレな真似ばっかりしやがってからに。これを乗り切ったら護身術でも教えてもらおうかな。俺、誘拐され過ぎ。利用され過ぎだろ。さすがに学習しようと思ったよ、まじで。
ズキズキ疼く右腕を押さえ、しかたがなしに相手の言うことを聞く。
今はおとなしくしていないと俺は勿論、さと子ちゃんにも危害が及びそう。それだけは阻止しないと。彼女は巻き込まれただけなのだから。ああ、迂闊だったな。相手が刃物を持っているなんて。脅しの代物はBB弾銃だったくせに、刃物は本物とか反則だろマジで。
生唾を飲んで痛みに耐えていると、「だ。大丈夫です」絶対にお嬢様たちが助けてくれますから。背後から怖々とした励ましを頂戴する。
ハンカチで止血した方がいい。
さと子ちゃんが上着のポケットに手を突っ込んだ。
その瞬間、用心深い濱が動くなと喝破してくる。携帯で一報されると思ったらしく、妙な真似をしたら刺すと脅しにかかった。ひゅ、喉を鳴らす彼女に「言うとおりにしよう」俺は大丈夫だから、首を捻って弱弱しく微笑んだ。
「ごめんね。巻き込んで。さと子ちゃん、関係ないのに」
「そ、そんなこと言わないで下さい。私が勝手にっ、空さまをお助けしようとして首を突っ込んだだけなのですから」
だけどそうしてでも関わりを持ちたかったのだとさと子ちゃん。
俺に遠まわしな絶交宣言をされても、何を言われても、どうしても見捨てておけなかったのだと彼女は言ってくれる。あんなにひどいことを言ったのにも関わらず、さと子ちゃんは―――…そこまで思った時だった。
車のスピードがグングン上がっていくのを肌で感じ、俺達は顔を見合わせる。
濱も異変に気付いたのだろう。
運転手にどうしたのだと尋ね、速度メーターを一瞥。顔を顰め、ここは一般道路だ。逃走しているとはいえ、もう少しスピードを落とせ、サツに目を付けられたら面倒だと苦言する。
けれど車のスピードは減速しない。寧ろ、赤信号に変わったというのにも関わらず、車を追い越して道路を突っ切った。
歩道に乗り上げそうになり、急カーブを試みる運転手。その表情は青褪めていた。濱の喝破に、「ブレーキが」利かなくなったんだ。なんぞとほざきやがった。
え、つまりスピードは出るけど出たまんま止まれないって状況? うそーん……マジで?!
そんな馬鹿なと濱が横から足を出す。
向こうの制止を聞きもせず、ブレーキを何度も踏んでいるけれど結果は同じ。車窓から見える夜の景色は速度を上げ、流れ消えていく。
デッドドライブの始まりである。
街中を暴走する車はエンジン音を轟かせながら、どけどけ、どかねぇか! と言わんばかりに車道を走る他の車を押しのけて直進していく。障害にぶつからないよう四苦八苦しているお仲間さんだけど、その顔色には血の気がない。まずい状況に陥っているのだと一目で分かる。いつ衝突事故を起こしてもおかしくない。
「そ。空さま」縋ってくるさと子ちゃんに、「座席の下に隠れて」万が一のことを考えておこうと顔を顰め、席を移動した。
「重いかもしれないけど、勘弁してね」
頭を低くさせている彼女の上に、強く覆いかぶさる。
右に左に大きく揺れる車内は尋常じゃない。まるでジェットコースターに乗っているような気分。高所恐怖症だから、本物には乗ったことがないんだけどさ。
急ブレーキをかける音が聞こえてくる。多数のクラクションに、何かがぶつかる音。暴走車による被害が聴覚で確かめられた。前部席で濱と仲間の言い合いが聞こえるけれど、一々内容は確かめられない。恐怖心ばかりが募る。
嗚呼、どうか、どうかっ……最悪の事態だけには。
前部席から喚き声が聞こえた。
―――くる。
大きな波がくる。
本能が警鐘を鳴らし、下にいるさと子ちゃんをきつく抱き締めた。
眩い閃光が走ったと思ったら、クラクションが絶え間なく鳴り、鼓膜が破れるような衝突音。ぶつかる頭部に硝子の飛び散る音。すべてが一つの音と化し俺達に襲い掛かった。
喪心。
それが数秒なのか、数分なのかは分からない。
ただ、気付けばさと子ちゃんが俺の下でもがいていた。車内灯はついていない。なのにはっきりとさと子ちゃんの顔が確認できるのは何故だろう? それに妙に空気が熱い。なんで、どうして、ああ、判断力が低下しているのは頭部をシートで強打したせいだ。ぐわんぐわん脳みそが揺れている。
自力で下から這い出したさと子ちゃんが周囲を見渡す。次いで、焦ったように俺の体を揺すり、上体を起こすよう懇願してきた。
「空さまっ、逃げましょう。車が炎上しています!」
えん、じょう。
脳内で変換するけれどすぐに漢字が出てこない。どういう字を書くっけ。
ようやく彼女の出した漢字と状況が一致する。車の向こうでオレンジ色の光が不安定にゆらゆらと揺れている。火事? いや車が燃えているんだ。きっとぶつかった拍子にエンジンが物と衝突。ガソリンが漏れ出して火を噴き始めた、というところだろう。
軋む首を動かし、視線を前部席に向ける。
そこにはグシャグシャにフロントガラスが割れ、人間がシートと車のボディでサンドイッチされている凄惨な光景が待っていた。
助手席はぺしゃんこ。運転席ではエアバックが発動し、白いクッションが人間を守ろう守ろうと必死に働いていた。二人の顔は窺えないけれど、彼らはもう手遅れなのだと思う。ぴくりとも動いていない体といい、滴っている血といい、微かに垣間見える首の不自然な位置といい……トラウマがまた増えそうだ。
「さと子ちゃん、けがは」
視線を戻す俺に、「空さまよりマシです」自分は擦り傷程度だと涙声で答えた。
言葉通り、彼女に目立った外傷はなさそうだ。また相手のくしゃっと歪んだ顔を見る限り、俺は目立った外傷を負っているらしい。自分では気付けない。体の神経が麻痺しているのだろうか?
「体、起せますか?」
「うんっ。なん、とか」
立ち上がるべく足に力を入れた。
脇に入り込んださと子ちゃんが手を貸してくれる。「早くっ、逃げないと」炎が車を包み込んでしまう。半泣きのさと子ちゃんに相槌を打った。
けれど上体を起こせない。起こすことが困難なんだ。
原因は左足。視線を流せば、ひしゃげた助手席の下に俺の足が挟まっている。衝撃の際、足が入り込んだようだ。
「くっそ」左足を引き抜こうと腹筋に力を入れた。でも抜けない。座席が歪んでいるせいで抜けるスペースが狭まっている。どうしても抜けない。さと子ちゃんが気付いて、俺の足を引き抜こうとする。
けれど非力な彼女じゃ力不足だ。足を引き抜くことも、助手席を動かすことも、俺の体を強引に持ち上げることも、難しい。
がくんと視界が揺れ、車内がやや傾斜になった。
傾斜と自重により左足が座席の下にのめり込む。何が起きてっ……。
「空さま。この車、ガードレールから突き出ているようです」
どうやら暴走車はカーブを曲がりきれず、道路標識とレールに衝突したようだ。
突き出た先に川があるらしく、このままでは共に落ちてしまうとさと子ちゃんが泣きべそを掻いた。
ああもう、次から次に大ピンチ。今年は厄年なのかなぁ。俺、一度お払いをした方がいいのかもしれない。受け男になってから運気が落ちている気がするよ。
立ち上る煙と火の粉により、咳き込んでしまう。
燻る車内をどうにかしようと、彼女が車の扉を開けた。ドア枠が見る見る炎に包まれていく。熱気のせいで向こうの景色が蜃気楼のように揺れていた。
俺の体を支えるさと子ちゃんの横顔を盗み見る。半パニックになっている彼女が見受けられた。本当は今すぐにでも逃げたくてしょうがないのだろう。でも俺の足は抜けない。
「にげ、て」
此処は危ない。早く逃げて。
さと子ちゃんに頼み込むと弾かれたように彼女がこっちを凝視してきた。
すぐに俺も後を追うから、さと子ちゃんは一足先に車から脱出して欲しい。
肩を上下に動かしながら意見すると、彼女はへにゃっと顔を一層歪めてかぶりを振った。いいから逃げろ、自力で脱出できる。強い口調で命令しても聞いてくれやしない。立ち込める熱気と煙により咳き込みながらも、彼女は一緒に逃げるのだと反論してくる。
怖くて仕方がないくせにさと子ちゃんは片意地張ってくる。俺は怒声を上げ、「余計なお世話なんだよ!」遠まわしながらも絶交宣言をしたのにどうしてそこまで構うのだと憤った。
早く逃げろ、邪魔だ、鬱陶しい。非道なことを言っても聞きやしない。
彼女は何度もかぶりを振って、「今の空さまはうそつきです」あんなに庇ってくれたくせに。今更暴言を吐いても無駄な努力だと、泣きっ面のまましたり顔を作った。
「空さまは私と一緒に逃げて、あの家に帰るんですっ。玲お嬢様と私と三人で帰るんです。そしてお茶をするんですよ……、楽しいだろうな」
私はあの時間が大好きなのですよ。
失いたくない時間なのだと、彼女は濡れた瞳をそのままにあどけなく笑ってくる。
「空さまがっ、うそつきだってことは知っています。優しいうそばっかりっ……、つく人だってこと、知っていますから」
さと、子ちゃん。
「貴方の決意と覚悟を何も知らず、ただただ暴言を吐いてしまった。空さまが私と接してくれた優しい日々は本物だったのに。私はこれを乗り切ったら、一番に貴方様に謝るんです」
まだお友達でいて欲しいと願い、新しく出来たお友達の体育祭に一緒に行くのだ。
それだけではない。地元を案内してもらったり、名所を教えてもらったり、舞台の役が貰えたらチケットを渡して自分の舞台を観に来てもらうのだ。
「だから」さと子ちゃんはぽろぽろと大粒の涙を零しながら、「私に助けられてくださいっ」そして私と仲直りをしてやってくださいっ。貴方は私の一番最初のお友達っ、こんな形で失いたくないと炎のうねりを妨げるような大声音で伝えてきた。
焼け爛れそうな熱気を感じつつ、呆けていた俺はそっと表情を崩す。
こんな時に何をしているんだろう。けれど伝えられずにはいられない。うそつきの俺に真っ向から勝負をしてくる友人に、伝えられずにはいられない。
「さと子ちゃんには、もう、うそ……通じないか。参っちゃったな。じゃあ本音を言うしかないじゃないか。またさと子ちゃんや先輩とお茶をしたいってさ」
ごめん、そしてありがとうを相手に贈る。
「帰ろう」先輩と三人で帰ろう。これを乗り切ったら俺と仲直りしてやって。
真摯に想いを告げれば、「はい」一緒に帰りましょう。涙に濡れた瞳が和らぐ。これにて一件落着、さと子ちゃんと俺の仲は修復されたのだった! ……と、なれば万々歳なのだけれど現実はまだまだハッピーエンドから遠い。
燃え盛る車内はまるでオーブントースターのよう。俺達人間はむせ返るほどの熱気と火の粉に、呼吸すら儘ならず身悶えていた。
轟々唸る火、徐々に傾斜の角度が上がり、俺達の体は前部席に傾いていく。
「さと子ちゃんっ。俺の掛け声に合わせてもう一度、足、引っ張ってくれないかな。まじやばい」
「ゲホッ……、はいっ、どこまでもお供しますから!」
やめてってそういうの、普通に友達でいようよ。主従関係だなんて俺達には不似合いだよ。
心中でツッコミつつ、『せーの』の掛け声と共に俺は左足に力を入れ、さと子ちゃんは運転席のシートに足を掛けて、足を引っこ抜こうと試みる。
ああくそっ、いっちょん抜けないよ父さん母さん! いっそのことこの左足を切り落としてしまおうか! 迷惑ばっかりかけてらにっ!
……抜けろっ。早く、俺の足、抜けやがれ。
俺もさと子ちゃんもまだ死ねないんだ。ここで俺達が死んでしまったら、それこそ悲しむ人たちが出てくる。俺は遺された人間の悲しみを痛いほど知っている。人の死によって一生消えない罪悪を抱くこともあると俺は知っている。
生きなきゃ。生きていれば何度だってやり直せる。
「くそっ、抜け、ろ」
生きていないとできないこと、沢山あるだろ。
「抜け、て。お願い」
つらくたって、苦しくたって、生きているからこそ手に入らないものがある。
だから、生きなきゃ。
「この野郎っ、抜けやがれ―――!」
刹那、さと子ちゃんの体が俺から強引に引き剥がされた。
腕を掴まれた彼女は車の向こう、揺らぐ炎の先に消える。「空さま!」手を伸ばす彼女に瞠目。さと子ちゃんの代わりに飛び込んできた女性に驚愕。かち合う瞳に絶句。
「す、ずり先輩」
揺らめく炎の中、俺は確かに想い人の姿を捉えることに成功する。
パーティードレスを着ていたくせに、彼女の格好は制服姿そのものだった。いつ着替えたのだろう?
また車内の傾斜角度が上がった。ずるずるっと体が滑る。説明する間もなく、彼女は俺の置かれた状況を察し、荒呼吸のまま左足に手を掛けた。「遅くなった」本当にすまない、荒呼吸のまま彼女は俺に詫び、勢い良く足を引く。
アイタタッ、途中で足首が引っ掛かり、痛みが走った。けれど彼女は人命を優先し、俺の訴えを退いて足を引き抜こうとする。
「せん、ぱい。まだ抜けそうに」
「あたしを誰だと思っている? いつも空を姫様抱っこしていたんだっ。その力を持ってすれば絶対に抜ける」
座席のくせにあたしに盾突くなんてっ、……いい度胸だ。
舌を鳴らし、鈴理先輩が渾身の力を込めて人の足を引いた。
すぽっ、抜けた音を言葉に表すとこんな感じだろう。ようやく抜けた左足に安堵する時間もなく、炎上する車が川に向かって滑っていくのを肌で体感する。開かれていた扉は滑る拍子にガガガッ、ギギギッ、ガードレールと擦れ、ぱたんと閉じてしまう。
チッ、舌を鳴らす鈴理先輩は反対側の扉に目を向けた。
小刻みに揺れる車内に恐怖することなく、彼女は俺越しに扉のロックを解除。持ち前の脚力で二、三度、扉を蹴った。熱せられている車はボディが歪み、扉が開けにくくなっている。それでも彼女は諦めず、扉を蹴り飛ばした。
ぶわっと入り込んでくる外気は冷たく、車内は蒸されるほど熱く、胴に回される腕は優しい。
完全に傾斜が垂直になった頃合を見計らい、鈴理先輩が俺を抱えたまま夜の外界に飛び出した。
その際、彼女は俺に言ってくれる。
「空、落ちるときは一緒だ」
放られた俺と鈴理先輩の体。
彼女越しに見える満目一杯の夜空が足元で輝き、無愛想な夜の雲が俺達の様子を冷然と見守っていた。
重力に遵って落ちていく感覚は高所恐怖症にとって多大な恐怖でしかないのに、抱き締めてくれる彼女の腕と、体温が不思議とそれを払拭してくれる。待ち受けているであろう地上が俺の視界に飛び込んでから恐怖しないのかもしれない。
最後に見たのは切り立ったカーブと、夜空の絨毯と、それから風に靡くいとしい彼女の綺麗な髪―――…水飛沫が上がった。
それから先の記憶はひどく曖昧だ。
凍てつく水が体の芯をこおらせ一瞬にして体が冷えてしまったところや、流れの速い川と絡みつく藻、重たくなる服のせいで、思うような泳ぎができなかったこと。どうにか水の中で背広を脱ぎ、まったく視界の利かない水面から顔を出したところまでは憶えている。
けれど後は何がどうしたのかちっとも……ごふっ、と水を吐いたところでやっと俺の意識は浮上した。
あれ、唇が異様に熱い気が。
「空!」
目と鼻の先に鈴理先輩の濡れた顔が飛び込んでくる。
ずぶ濡れの彼女を見つめ、見つめ返して、俺はそっと右の手を伸ばした。その手を掴み、指を絡ませてくる鈴理先輩は無事で本当に良かったと泣き笑いを作る。
瞬きを繰り返し、俺はようやく此処が川岸なのだと理解。痛い砂利のマットに寝そべっているのだと把握し、そっと首を捻って川の方角に視線を流す。「車は沈んでしまったよ」同乗していた奴等は……、先輩の言葉が濁る。
未だに夢心地な気分でいる俺は、彼女の手をきつく握り締め、顔をくしゃくしゃにする。
怖かったと叫びたかったし、恐ろしかったと泣きたかったし、どうしてこんな目に遭わなければいけないのだと悲観したくなった。でも違う。俺が今、言いたいことはこんな言葉じゃない。
俺の危険を察知し身を挺して駆けつけてくれた元カノを見つめ、「どうやって」俺のピンチを知ったのだと尋ねる。
するとあたし様は当然の如く言うのだ。
「言ったではないか、必ず迎えに来る、と。今がその時だったのだ。―――あたしは空のヒーロー。馬鹿をしてでもあんたのピンチには駆けつけるのだよ」
ウィンクするあたし様にどっと涙が溢れた。
それが安堵からくるものなのか、恐怖からくるものなのか、はたまた別の感情からくるものなのか。それは分からない。
ただ涙した。
うそつきならこういう時こそ嘘を吐いて、格好をつけるべきなのに、俺は相手に縋って泣きじゃくった。
抱擁してくれる彼女を抱き締め、「ごめんなさい」貴方を傷付けてばかりでごめんなさい。感情を弄ぶような行動を起こしてごめんなさい。これまでの行いを謝罪する。
「馬鹿を言え」そんなもの、お互い様ではないか。あたしもあんたを振り回してばかりだ。すまない、本当にすまない。なにより無事で良かった。鈴理先輩は有りの儘に自分の気持ちを贈ってくれた。
双方、謝罪の嵐。
ならもう謝罪するのはやめにして、別の言葉を贈ろう。嘘偽りのない言葉で、着飾らない言葉でありがとう、と貴女に贈ろう。
遠い遠い空の向こうから聞こえるサイレンの音。
住宅街で起こった事件事故ゆえ野次馬が集い始める中、俺達は暫しの間、身を震わせて抱擁しあう。それは別れ以来の抱擁。今だけは許される、体温の共有だった。
懐かしいぬくもりを噛み締めながら、俺は目を閉じる。
きっと目を開けたら、また沢山のうそをつかないといけない現実が待っている。なら、そのうそをつくために充電しよう。体に染み付いているあたし様のぬくもりで、充電をしよう。
だって俺の最初の所有主は、この人だったのだから。




