20.王子vsあたし様
□ ■ □
【御堂玲の控え室にて】
ドレッサーと向かい合っていた玲は、鏡面に映る己の姿に誰だお前はと嘲笑したくなっていた。
短髪に飾られた髪留めつきの薄紫色のコサージュ。ぼたんを彷彿させるような形をしているそれは見事に花開き、自分の髪を飾っている。綺麗に化粧された顔、頬紅はもちろんのこと、薄紅色の口紅まで塗られて、さも乙女感が出ている。
桃色のパーティードレスを着ているその人間を見つめていると、ああ、男装少女も化けるものなのだとしみじみ痛感してしまう。
どんなに男になりきろうと自分は生粋の女であり、男とはまったく別の生き物なのだと、そう思ってしまう。
あんなに好きな男を攻めていようと、やはり自分は女なのだ。
「可愛いと、豊福は言ってくれるかな」
先ほど、ワンピース姿で彼の前に立ってみた。
見事に彼から“女性”を意識され、少しならず優越感に浸ってしまった。
ああいう反応をされると彼も自分を意識しているのだと実感、大きな期待を寄せてしまう。
今宵、眠れない夜が訪れる。
利用されることに反対の念を見せつつも覚悟を決めている彼と、明かすであろう一夜。コドモからオトナに羽化する今夜。どのような時間が訪れるのか、玲にすら想像がつかない。
ただ自分の行動は些少ならず視える。
きっと彼を貪るのだ。彼の覚悟も感情も体温もすべて自分の中に取り込むように貪り、本当の意味でおのれのものにしてしまうのだ。今の自分はそれを切望している。
受け男改め、自分の我が儘を受け入れてくれる男だ。
彼は自分の荒い行為を優しく受け止めてくれるだろう。どんなに荒くても手を伸ばし、わっしゃわしゃと髪を撫で仕方がない人だと笑いながら、そっと受け止めてくれる。喘ぎ、啼き、オンナの立ち位置に強いられても彼は自分を受け入れてくれる。揺るぎない確信があった。
自分は強く彼を抱き締めながら、堕ちていくのを感じていくことだろう。借金の枷に嵌っている彼と、どこまでも。
……暗い展開だと玲は吐息をついた。昼ドラか、独り言を呟く。
「鈴理のことは言えないな。僕もとんだ獣だ。……堕ちていきたい、か。豊福はそんなこと望んでいないだろうな」
かと言って、彼を見捨てて他の男と付き合うつもりもない。男嫌いを舐めてもらったら困る。
アーモンド形に目を細め、玲は鏡面を睨む。「ジジイの言いなりになっても」守るべき人がいる。チラッと視線を動かし、鏡面越しに掛け時計を見やる。もう時間だ。会場に行かなければ。
腰を上げようとした時、扉がノックされた。返事をすると失礼します、と共に扉が開閉。教育係の蘭子が中に入ってくる。
今日はいつもよりも着物がおとなしめだ。けれどそのおとなしさに華があり、扇面模様の入った着物は見事である。
「見違えましたね」嬉しそうに微笑み彼女は玲の下に歩み寄った。立派な女性だと絶賛する蘭子。長髪ならばもっと淑やかな女性に見えただろうに、余計な感想を述べて肩に手を置いてくる。
鏡の向こうで笑みを向けてくる彼女に目で笑い、「僕は大丈夫だよ」そう心配しなくてもいい。蘭子の心意を見抜いて返答した。
すると素顔になった蘭子が眉を下げる。
「蘭子はいつでも貴方の味方ですよ」何かあればすぐに言って下さいね、優しい心遣いを垣間見せ、背後から軽く抱擁してくれた。
だから彼女は好きなのだ。二度、三度、大丈夫と返し、その腕を握った。
「そろそろ会場に行く時間だ。蘭子、先に行っててくれ」
「ご一緒しますが」
「気持ちを察してくれ。僕も緊張しているんだ。情けない姿は見られたくない。僕は豊福の王子だからね」
ウィンクすると仕方が無さそうに彼女は笑い、そっと自分から離れ、先に会場に行くと言って退室していく。
声なき声でありがとうの五文字を紡ぎ、玲も腰を上げた。
蘭子の後を追うように控え室を出ると能面に表情を変え、彼女が向かったであろう会場とは反対の方角に足を伸ばす。少しくらい主役が遅れても構わないだろう。自分に至っては準備に手間取った、で話が終わる。
かつかつと履き慣れないヒールを鳴らし、エレベーターに乗り、【△】ボタンを押して玲が向かう先。
最上階一室、和室スイートルーム。
今宵、自分達が身を預けるその部屋のカードキーを通し、玲はそっと扉を押し開けた。
明かりを付けるとやたら広い畳部屋が二部屋、顔を出す。一部屋は八畳、もう一部屋は六畳ある、広いひろい一室。この部屋の従業員は大層仕事が早いらしく、既に床の間となる六畳部屋には敷布団が敷かれていた。
ヒールを脱ぎ、それを靴箱に置かず、手に持って部屋に上がる。
二人分の敷布団に目を落とし、「気が利かないね」ここは一人分のみ敷いてくれるものなのでは? 玲は肩を竦める
床の間から居間に足先を変える。
短脚テーブルに着くため、そこに歩んでいたのだが、途中で足を止めてしまった
四隅に積まれている座布団の一部が不自然に盛り上がっている。昼間は彼が部屋にいたため、そのことに気付く余裕がなかった。スルーすれば良い話なのだが、なんとなく目を引いてしまったため、ヒールを畳に置き、おもむろに積まれた座布団を捲ってみる。
茶色い紙袋が出てきた。手にとり、口を開いて中身を確認。
数秒後、玲の能面が見事に崩れ、おおきな笑声が一室を満たした。
「豊福はほんっとっ、馬鹿生真面目で可愛いな。くくっ、勉強していたのか。ちゃんと準備までしてきているし」
まさか博紀が用意した、などとは露一つも思わないだろう。
「この本で勉強していたのか」ぱらぱらっと実用書の中身を捲り、また笑声を漏らす。
本は挿絵付きだ。絶対に赤面し、自分にはできないと身悶えていたに違いない。そりゃそうだ、彼は生粋のヘタレなのだから。受け身にはなりたくないような節は垣間見えるが、残念、自分は攻め身であり、攻め受けの相性は最良である。
これは今宵が非常に楽しみだ。どれほど勉強できたのか、少々弄くってやってやりたい。
「ま、どう勉強しても僕が上なんだけどね。ごめん、豊福」
リード権は譲らないよ。
ぱたんと本を閉じ茶色い紙袋に本を仕舞う。彼の名誉のために(そしてネタにするために)、座布団の下にそれを戻し、ヒールを持って今度こそ短脚テーブルへ。
ドレスに皺が寄らないよう細心の注意を払いながら、その場に正座してテーブル上に視線を留める。テーブルには複数のカゴが置いてあった。昼間はなかったものである。覗き込めば、誰とも知らない鞄だったり、ポーチだったり、携帯だったり、私物がひしめき合っている。
カゴには番号が振ってある。
数字を確認するまでもなく、玲はそのカゴから一つのスマホを手に取った。右のヒールを静かにひっくり返す。小さなチップが出てきた。本当に小さなチップで、それは爪ほど。綺麗な正方形をしている。
玲はスマホのバッテリーカバーを開け、それをバッテリーと本体の隙間に挟んだ。
たったこれだけの作業。されどこれほどの作業。玲の指先は軽く震えた。邪念を振りきるようにカバーを元の位置に戻した。
「――今から祝われる主役がこんなところで何をしているのだ?」
前触れもなしに聞こえた声はやけに平坦だった。
心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥るが、すぐに冷静を取り戻す。
ぱちんとカバーを閉め、「覗き見とは悪趣味だね」あくどい笑みを浮かべて顧みた。いつからそこにいた? ちゃんと扉を閉めたことは確認したのに。部屋の入り口に目を向ける。
そこにはイブニングドレスを身に纏った好敵手が腕を組んで壁に凭れていた。
憮然と肩を竦め、「カードキーくらいコネを使えば幾らでも入手できる」所詮この世は金で動く社会なのだ。憮然と言葉を返す鈴理にそうか、と素っ気無く返した。同意に値する意見である。
「此処は僕と豊福の泊まる部屋なんだけどね」
意地の悪い笑みを向ければ、「ほお」では此処は愛の巣になると言うのだな? 鈴理は眉を上げてわざとらしい驚き方をする。
ならばいっそのことこの部屋を利用できないよう汚してしまおうか。
そうすればケッタイな行為は避けられるだろ? 何故ならハジメテを頂くのはこのあたしなのだから、不敵に笑う好敵手に嫉妬は醜いと皮肉った。
これだから元カノという存在は厄介なのだ。さっさと諦めれば済むことを、往生際悪く足掻き、蛇のように執着心を向ける。未練がましいオンナだと酷評し、いっそのこと君の前で食べてしまおうか、笑顔を向ける。
「さすがの君でも諦めもつくだろう?」
そう問えば、「この腹黒女」あんたの素はそれだ。紳士王子なんて言語道断、耳が痛いわ。鈴理が毒言した。お褒めの言葉として頂戴しておこう。
会話が一区切りし、双方に沈黙が流れる。
互いに出方を窺っている、といったところだ。冷気を纏う空気が肌を刺す。
「それは父のスマホなのだが?」
先制してきたのは鈴理だった。
玲の持つスマホを指差し、澄んだ茶の瞳を据えて、確か受付のフロントで預けた筈だと眉根を寄せてくる。
挙式の会場は機器類や荷物の持ち込みは原則禁止されている。内輪だけの挙式と違い、正式に行われる財閥の挙式は非常に厳かなのだ。だから父や自分達は荷物を預けた。その荷物が何故、この部屋に移動されているのか。そしてあんたは何をしているのだ? 尋問が徐々に詰問へと変わっていく。
「僕が何をしているように見える?」スマホを握りなおし、相手の鋭い眼光を受け止める。
「そうだな」しいて言えば、犯罪か? 鈴理は容赦ない言の葉を返した。
「玲。父のスマホを返してもらおうか。今、あんたが仕込んだのは盗聴器だろ?」
ご名答である。
自分はたった今、彼女の父のスマホに盗聴器を仕込んだ。
豆粒のようなチップをスマホに仕込む、それだけの簡単な作業を自分はしたのだ。
本当は彼女の父のスマホに仕込んだ後は大雅の父の携帯に仕込む予定だったのだが、事はそう上手く運んでくれないらしい。
「業務でも盗聴しようと思ったか? 戯け者め」
これまたご名答である。
「困ったね」君にばれてしまえば、この計画がパァになるじゃないか。いつからつけていたのだと質問を返す。
それには答えず、「ゲームオーバー」あたしの勝ちだと鈴理が口角を持ち上げる。「違うね」君は負けている。だって今日が決着日、君は婚約を白紙にさせたのかい? させていないだろう? 僕の勝ちだと玲は目を閉じた。
「そうだな。あんたがあたし達から逃げ回ってくれていたせいで、勝負のことなど念頭にすらなかった。あんたを止めたい一心だったのだよ」
「負け惜しみかい?」
「仕方がないではないか。好きな男に助けを求められたのだから。これで動かなければ、攻め女失格だ。あたしはあいつの騎士だぞ」
ゆるりと壁から背を離し、彼女が体ごと向かい合ってくる。
再び行為について咎め、こんなことをやったところであんたのためにはならないと説得される。どうせ祖父の命令でやらされているのだろう? ならすぐにでもやめろ。それが玲のためだと鈴理。
しかし玲は聞く耳を持てずにいた。自分のためにならないのは百も承知しているのだから。それが立場上、三財閥の関係を壊すことになっても玲は引くつもりはない。命じられたことを忠実に遂行する。それだけのために此処にいるのだ。
「淳蔵さんの言いなりになるつもりか?」焦燥感を含めた問い掛けに、「ああ」そのつもりだよ、あっさり肯定してみせた。
心底毛嫌いしている祖父の犬になると宣言。これは“忠誠心”を見せるための試験だとシニカルな笑みを浮かべた。
「あいつの言いなりになることで豊福が守れるなら、喜んで犬に成り下がる。たとえ、僕等の関係が壊れてしまうことになっても」
「空の起こした行動が無碍になるではないか。あいつがなんのために淳蔵さんの命令に逆らったと思っているッ……あんたの未来を守りたいからだろう? あたし達、財閥の共存を願ってのことだろう?」
その気持ちを無駄にするつもりなのか。それでもあたしの好敵手か。らしくない。
空を人質に取られているからか?
だとしても、何故あたし達を頼らないんだ。何故ひとりで解決しようとする。勝負があってのことかもしれないが、そうも言ってられないだろう。
言いなりにならずとも解決できる方法は沢山あるではないか。
空自身、嫌がっていなかったか? あいつは目付けに見張られながらもあたし達にSOS信号を送ってきたぞ。玲を助けて、友人を助けて、と。あんたの好きな男は、あんたがじいさんに利用されることを望んでいないんだ。
あまりにも借金のことでじいさんがあいつに圧力をかけてくるようならば、あたし達で救い出せばいい。
空だってそうしたじゃないか。圧力を掛けられ、ご両親を人質に取られながらも、あたし達財閥の共栄を願って逆らった。壊したくないんだ、あたし達の関係を。起こした行動で財閥がいがみ合う可能性があるから。
「玲、今からでも遅くない。こんなことはやめろ。支配ではなく、共栄を」
「どうでも、いいんだ」
「なに?」面食らう鈴理に、「支配とか共栄とか」そんなこと、どうでもいい。自分はただ好きな奴と幸せに過ごしたいだけ。
なにより婚約者の泣き顔を作らないようにするため、行動を起こすのだと無感に返す。
周囲に恨みを買われようが、殺意を抱かれようが関係ない。この手に抱き締められる人間を幸せにできればそれでいい。いやそうしなければならない。守られてばかりの自分は、それだけのことをしなければならない。それが贖罪の一歩にも繋がる。
「ジジイは言った。命令を遂行することができれば、豊福を僕に返す、と。ジジイが奪おうとしている家族の縁、環境を戻してくれる、と。さすがに学校は転校しなければいけないようだけど、それでも、あいつの生活は随分マシになる」
「返さないかもしれないだろう。これを乗り切ったとしても、これから先、淳蔵さんは空をダシにあんたを利用するに違いない」
「それでもいい。覚悟の上だよ――鈴理、邪魔立てするようなら容赦しない」
言うや否や、畳の上に転がっていたヒールを幼馴染に投げた。
紙一重に避ける鈴理はふざけるなと言わんばかりに舌を鳴らし、此方を睨みつけてくる。
簡単に受け流し、「手間が省けたよ」どうせ君のところにも赴く予定だったと玲は笑みを深くする。祖父の命令は二つ。ひとつは盗聴器の件。彼女が述べたとおり、業務を盗み聞こうとした。そしてもうひとつ、祖父は他財閥の知名度を下げるよう命じた。
栄光に輝く財閥の知名度を下げることなど容易い。ちょっとした不祥事を起こせば良いのだから。
皮肉にも彼女と自分の関係柄は恋敵。少しばかり手を加えれば、元カノが自分に嫉妬して関係を壊すために暴走したという口実も作れるのだ。利用しない手はない。
それに薄々と勘付いたのか、「悪いがそれはさせん」あんたに負ける気すらしないしな、鈴理がうぇっと舌を出してきた。
「いいか玲。こういうパターンをケータイ小説で展開させる場合、独り善がりな行動を起こす女が負けるというロジックが成り立つ。つまりあんたの負けだ。非王道カップルめ。お呼びではないのだよ!」
若干カチンである。
誰が非王道カップルっ……、まさか自分と婚約者を指しているのでは?
「ということは君達は王道カップルとでも? あんなに大雅とイチャイチャしておいて?」
「馬鹿め。あたしの起こす行動はまさしくヒーローではないか! 純愛していたあたし達カップルに親の魔の手。引き離された愛は横道にそれつつも、一途に愛を貫き、よりを取り戻そうとする。真のヒーローだな。最後はらぶりんとくっ付く、これが王道だ。後からやって来たあんたは所詮、あたしのお飾り! 派手に盛り上げてあたしを目立たせてくれ」
……このアマァ。
こめかみに青筋を立てる玲は握り拳を作り、「だったら君達はテンプレカップルだ」おとなげなく反撃した。
「て、テンプレ」口元を引き攣らせる鈴理に、「新鮮味がないね」そういうカップルはパターン化していき、ついにはマンネリ化に陥るのだと鼻を鳴らした。ケータイ小説でいえばすぐに読者から飽きられるカップルなのだと皮肉る。
これからの時代は斬新さもなければ。
飄々とおどける玲の言葉に、「いっぺん地獄に落ちろ」中指を立ててくるあたし様。「君は奈落に落ちるべきだよ」うぇっと王子は舌を出す。
間、間、間。
笑顔、笑顔。
また間があり、双方に火花が散った。
「大体気に食わなかったんだ、玲。あんたはいつもいつもいつもいつも、あたしの好きなものを好きになって。こんのパクりオトコオンナ!」
ピキッ、玲のこめかみに青筋が立つ。
「そういう君こそ、平然と我が物顔であれが好き。これが好き。僕の真似をしているのかい? 諦めの悪い野獣オンナ!」
カチンッ、鈴理の表情が険しくなった。
「だあれが野獣だ! お腹真っ黒のくせに王子? お笑い種だ」
「君は単純単細胞だろう! 騎士? チビが騎士になれるとでも?」
もう片方のヒールを相手に投げつけると、手で叩き落され、投げ返される。
つい同じ行動を起こしてしまった玲だが、若干冷静を失いつつあった。
グルルッ、唸る鈴理に対抗して、フンと鼻を鳴らす玲。手当たり次第に物が投げられ、部屋に多々放物線が描かれるのも時間の問題だった。
「ふざけるのも大概にしろよ、玲! あたしは高1からの半年間、ずっと空に片思いしてきたのだ! 人がこつこつ努力をしてようやく結ばれたというのにっ、いけしゃあしゃあと人の物を強奪するとはいい度胸だ。言っとくが あんたの想いなど豆粒に等しい、覚えておけ!」
「ッハ。大破局した彼を健気に支え続けたのは誰だと思っているんだい? 僕がいなければ、彼は完全に現実に屈していただろうさ。このまま僕に任せておけば良かったものをっ。君の想いなんて蒸発ものだよ」
「蒸発だと? 馬鹿を言え。あたしの想いは未来永劫だ。その証拠に、空は今もあたしにめろんめろんだ。なにせ、あたしの所有物なのだから!」
「ははっ、妄想も行過ぎると痛いよ。鈴理!」
座布団、ヒール、紙袋、枕、カゴの中に入っていた私物エンドレス。
居間から床の間、六畳間から八畳間、物が行き交う。
折角のスイートルームも、物が飛び交うことにより凄惨な光景になりつつあった。
しかし恋に燃える二財閥の令嬢の目には映らない。止めることも、命令も忘れ、自分の感情を相手にぶつける。謂わば日頃から募らせていた恋に対する鬱憤の嵐だった。
「鈴理。玲は止められっ、オワァアア?! 部屋がむちゃくちゃじゃねえか! な、何やってるんだよ、てめぇ等! 止めるどころじゃねえ事態ってどういうことだよ!」
二人のいがみ合いに大雅が割って入って来た。
彼は今まで、部屋の外で見張りを受け持っていたようだ、が、いつまでも鈴理が戻ってこないため、不安に駆られ覗いてみたのだ。するとどうだ。あたり一面に物が散らばっている。カゴに入っていた物も外にぶちまけられ悲惨なことに。
異様な光景にドッと冷汗を流す彼は、何がどうなってこうなっているのだと双方を見やる。
そうしている間にも物が投げられ、「アブネッ!」彼は危うく剛速球の餌食になるところだった。
足元に落ちた物を拾ってみると、ッアーな本が開かれ大雅を見上げていた。挿絵の部分が卑猥だったために、俺様は渋い顔を作るほかない。
非常に居た堪れない気持ちになる彼に非はないだろう。
どうにかして止めなければ、俺様が果敢に声を掛けるものの、「煩い!」「邪魔をするな!」般若のような顔をする令嬢二人に睨まれ、見事に硬直。オンナの修羅場には大雅も俺様が発揮できない模様。
一方、二人は火花を散らし、物を投げながら言い合いを繰り広げていた。
折角のドレスも豪快に物を避けていくことで皺が寄る。玲に至ってはこれから挙式だというのに、おめでたい披露宴に顔を出せる姿ではなかった。それほど凄まじい物の投げあいを繰り広げる攻め女達である。
昂ぶった感情をそのままに、「玲は本当に馬鹿だな!」どうしてそこまで一人で何もかも背負おうとする! 鈴理が喝破した。
たった一人で“財盟主”と呼ばれた実力者の一人から、好意を寄せている男を守れるとでも思っているのか? 無理だろう。まだまだ財閥界を知らない子供の自分たちだ。いい加減に守って、また同じことを繰り返すだけだとあたし様は声音を張る。
一度の過ちはまた同じ過ちを呼ぶだけ、分かっていて一人で背負おうとしているならただの馬鹿だと罵った。
その言の葉に激昂したのは玲である。
「何も知らないくせに知ったような口をきくな!」
あいつは僕のせいで人生が狂った。
だから責任を取る必要があるのだと苦言。誰ぞと知らないポーチを鈴理に投げつける。
「責任?」やや冷静になる幼馴染が訝しげな眼を向ける。
その視線を受け流し、「僕が好きになったせいで」豊福の、豊福家の、人生が狂った。狂ってしまったのだと顔を歪めた。
自分が好きになったばかりに、彼の家族は嵌められ借金を作ることになった。五百万という大金の重荷を背負うことになったのだ。すべては祖父の思惑通りに。
胸につっかえていた感情を吐き出した言の葉に驚愕したのは傍聴者達だった。
つまりそれは、五百万の借金を淳蔵が負わせたということか? 二人の問いに、「そうだ!」借金は祖父の差し金だったのだと叫ぶ。一室を満たす声は悲鳴に近かった。
祖父宅に行った際、なおざりで借金を作った張本人と電話のやり取りをし、事実を知ったのだと奥歯を噛み締める。
「まさかジジイがっ、豊福家と繋がっている従兄弟とコンタクトを取っていると思わなかった。借金を押し付けるよう差し向けるなんてっ。僕の恋心を知りッ、彼を利用しようと根回しをしていたなんて。僕は何も知らず、彼を支えてきた。原因が僕にあるとも知らず、彼を支えてきたんだ」
「……玲」
「豊福は馬鹿みたい恩を感じて、御堂家を慕っている。策略に嵌ったことすら知らず」
御堂家は借金を肩代わりしてくれた。
自分達、家族を助けてくれた。支えてくれた。借金地獄に陥らずに済んだ。恩は返さなければ。少しでも恩を返さなければ。
……豊福は、常々そう想って僕の婚約者に見合おうと努力していた。
たとえ理不尽な命令をされようとも、睡眠時間を削られようとも、自分の時間がなくなろうとも、僕のため、家族のために努力してきたんだ。
僕はそんな彼の姿を傍で見てきた。時間に追われ疲弊している彼に安らぎを与えてきたし、借金のことで傷付いた彼を支え続けてきた。なにより些少ならず彼が僕の傍で幸せを感じてくれていると知っていたから、少しでも彼の糧になろうと思っていた。いたのに。
まさか、こんな真実が息を潜めていたなんて。
鈴理、君はヒトの人生を劇的に変えてしまったこと、ないだろう?
正直精神的に参ってしまいそうだよ。ヒトの人生を変えてしまうということは。豊福が実親に対してトラウマを持つのも納得してしまう。それだけつらく、心苦しく、罪悪に苛んでしまうものなんだ。
あの日、あの時、あの瞬間、あいつと出逢わなければ、豊福はこんな苦痛な生活を強いられることはなかったに違いない。
今日も、明日も、あさっても、愛すべき家族と和気藹々に過ごしていたに違いない。
誰より守りたい、幸せにしたい男を、誰よりも不幸にしていたなんて耐え難い苦痛だ。好きにならなければ良かったと思うほど。
―――…けれど、それ以上に豊福が失うことが怖い。
怨まれることが怖い以上に、失いたくない。それだけ僕はあいつに好意を寄せてしまったんだ。
初めてだったっ、僕の男装……、男でありたい気持ちを酌んでくれる人間は。そして女の僕を受け入れてくれる人間は。
これからも僕は男という異性に羨望と嫉妬を抱くだろう。
その度に豊福は相槌を打ちつつ、女の僕を肯定してくれるに違いない。そして僕に見合おうと、守ろうと、努力するに違いない。
だってあいつは生真面目馬鹿だから、両親と僕を天秤にかけて後者を取った。
大切な両親よりも、多大な恩があると信じて疑わない御堂家長女を取ったんだ。
なら、僕もそれだけのことをするまで。
少々心苦しくてもジジイの言いなりに成り下がってやるさ。それであいつが守れるのなら。現実に傷付くあいつの泣き顔はもう沢山だ。笑っていて「自惚れるな!」
玲の言葉を遮るように鈴理が憤りを含んだ声を出す。
あからさま不快感を示す玲に対し、「何が責任だ」加害者ぶったことを言いつつ、結局、内では祖父に嵌められた被害者という立ち位置に甘えているだけじゃないかとあたし様は苦言した。
ますます不快指数を高める玲に、「好きになったせいで?」そうだ、好きになったせいでヒトの人生すら変えてしまうことがある。もしあんたの主張が成り立つなら残念だったな。真の責任を取るべき女はここにいる、と鈴理。
おのれを親指で指差し、白々しい笑みを浮かべてみせた。
「この財閥界に空を引き込んだ契機はあたしにある。そう、このあたしだ。ははっ、あんたはあたしと空が付き合わなければあいつに会うことすら儘ならなかったんだ! ザマーミロ! あんたよりも、あたしと空の方が根深い関係!」
……なにが好きになったせい、だ。
あんたはじいさんの脅しに屈して臆病風に吹かれているだけではないか。どうして抗おうとしない。自分ひとりで抗う、という視野を脱して、誰の手を借りてでも抗おうという視野を、どうしてあんたは持たないんだ。
言いだしっぺはあんたじゃないか。死ぬ気で環境を変えろと諭し、あたしに教えたのはあんたじゃないか。
まだ抗える可能性が残っているのに、どうして屈してしまうんだ。あんたはそんなヤワな女じゃないだろう? 可愛げのある娘じゃないだろう? 好きにならなかったら良かったなど、都合の良い現実逃避の口実にしか過ぎんよ。
あたしから見たらな、あんたはとても羨ましかった。
好きな奴と堂々婚約した上に親に祝福してもらえる、だなんて。
あたしなんて祝福どころか、ボーイフレンドと固定された上に引き離されてしまったのだぞ? 半年間、空を見ているだけの生活から片思い、ようやく結ばれた両思いも儚く消えてしまった。まるで泡沫のように。
先にあいつと出逢ったのはあたしなのにっ、なんでこんなことになったのだと、どれほど嫉視したか。親を説得すらできなかった自分の不甲斐なさにどれだけ嫌悪したか。
今の空は、きっとあたし以上にあんたが“大切”なヒトだ。
女に対する“好意”は知らん。あたしが勝っていると主張したいが、真実はあいつの胸の内にしかない。
それだけあんたはあいつを支えてきた。あいつの気持ちを変えてしまうほど支えてきたんだ。
あんたの気持ちに嘘偽りはないのだろう?
例え、淳蔵さんが仕組んだ婚約だとしても、あんたの想いは真摯なものだったのだろう?
あたしだってそうだ。親に引き離された残酷な現実はあるが、あいつを純粋に想っていた。身分などなければ、と嘆いたがどうにもならん。どうにかするには抗うしかないのだと気付かされ、今、自分のすべてを賭けて闘っているところだ。
玲、あんたも頼むから抗え。
好意に責任を感じ、好きにならなければ良かったと現実逃避するな。逃げるな。背を向けるな。
あんたがそんな想いを抱くというのならば、あたしもまた責任と後悔を抱かなければならん。“空を好きにならなければ良かった”と想いたくもないことを想わねばならん。
一生後悔しなければならんぞ? あたしも、あんたも。空以外の男を好いた時、同じことを繰り返すかもしれん。
「そんなのっ、虚しいではないか。好きになって後悔ばかりなどっ……、正直あたしは幸せだった頃の思い出を噛み締めておきたい」
あたし様の表情から余裕の笑みが消え、クシャクシャと皺が寄ってしまう。
きっと自分も同じ表情をしているのだろう。玲は他人事のように思って仕方がない。
蚊の鳴くような声で、「好きなんだ」と呟けば、「あたしもだ」空のことが好きだ。そして好敵手のことも腹立たしいが好きだと鈴理。幼い頃から好敵手の立ち位置。
今は恋敵の立ち位置にいる、そんな友人が大切なのだと彼女が吐露する。
「あたしが苦しい時。挑発しつつも助言とチャンスを与えてくれたな。なら、あたしも毒言と、助言と協力の手の三つを与える。可能性がまだあるんだ。じいさんに屈するな。じいさんの手を借りて勝つのではなく、ちゃんとあたしと勝負して元カノを降せ。でなければっ、同じ攻め女としてあたしはあんたを軽蔑する」
早足で歩み寄ってきたあたし様がそっと見上げてきた。強い光を宿した双眸に泣き笑いを零す。
「言いたいことばっかりっ、言ってくれるね。可愛くない。素直に慰めればいいものを」
小さな体躯をしている好敵手と抱擁を交わし、その場に崩れる。皮肉を零しているのに声はすっかり涙声だ。
「何を言う。人が打ちひしがれている時に、塩どころか唐辛子をおくってきたのはあんたじゃないか。目の前で空とイチャイチャ……、腹立たしいったらありゃしない」
「僕も君に多々文句がある。傍にいるのは僕なのに、根底で想われているのはいつも鈴理なんだ。ふざけるなっ、どれだけ心を独占したいんだ。君は」
「あたしの勝ちだな」「全力否定するからな」「だからと言って負けてもいない」「負け惜しみ」「まだ数時間ある」「それで勝てるとでも?」「可能性があるなら何度でも抗うさ」「往生際が悪いと言うんだよ」
互いにむき出しの肩に額を置き、抱擁を交わし、グズグズと今の感情を吐き出す。
ただ好きでいたかっただけなのに、どうして大人の都合で振り回される恋愛をしているのか。こんなことなら財閥の令嬢になど生まれてこなければ良かった。普通の女の子になりたい。身分も借金も家柄も考える必要のない、庶民になってしまいたい。
玲の吐露に、鈴理は一つ一つ相槌を打ってくれた。彼女もまた同じ気持ちを抱いている女子、自分の気持ちは痛いほど分かってくれるのだろう。
つらいと弱音を吐き、仕組まれた婚約の真相に嘆き、本当はどうすれば良いのか分からなかった。途方に暮れていたと本音を漏らす。やっぱり鈴理は相槌を打ってくれた。好敵手でありながらも、彼女とは一番近い存在だ。気持ちを理解してくれるのだろう。
「で、どうする?」今しばらく抱擁を交わしていると、鈴理がこれからどうする? と意地の悪いことを聞いてきた。分かっているくせに、嫌な女である。
つい玲は負けん気を出した。「今夜、豊福と寝てやる」と。
途端に鈴理の眉がつりあがる。
「こんな散らかった部屋でヤるというのか? スキモノだな。あんたも」
「君には負けるね。それに、この部屋でなくてもセックスはできる。ホテルなのだから部屋は沢山あるさ」
「……ふっ、玲。やはりあんたは此処で仕留めておく必要性がありそうだ。なに、心配するな。空のことは任せておけ。美味しく頂いてやるから」
「……へえ鈴理。もしかして僕を伸そうとしているのかい? チービな君が大きい僕を伸せるとでも? いいよ。豊福は僕が食べてあげておくから」
「……あたしはあいつの性感帯を開拓した女だ。耳攻めが弱いのはあたしの努力が実った証拠だな。喘ぐようになったのもあたしの頑張りがあったからこそだ」
「……僕はディープキスのやり方を教えてあげたよ。誰かさんが調教していなかったみたいだから。おかげで初ディープキスは美味しく頂けた」
「……、……、泣かすぞ?」
「……、……、それは僕の台詞だよ」
一変して険悪ムードが漂う。
抱擁していた腕が解かれ、「あたしに向かって生意気だ!」「傲慢女よりかはマシだ!」互いに頬を抓って上下運動。再び恋する乙女……、じゃない、王子と騎士のバトルゴングが鳴った。
見かねたのは大雅である。
二人の間に割って入り、「なんでまた喧嘩なんだよ」女の友情ってわっかんねぇな。いやお前らがわっかんねぇ。
溜息をつき、取り敢えず攻め女二人の頭をはたく。暴力だと口を揃えてくる女共に、「男女平等でぇす」特にお前等は≪女≫と見ていないのでご安心を。俺様は大袈裟に両手を挙げた。
「ちったぁ冷静になったみてぇだな。玲、まだじっちゃんの言いなりになるのは早ぇよ。鈴理、さっき森崎から連絡が入ったぜ。本多達が豊福と合流できたみてぇだ。目付けを撒けたらしいぜ」
「そうか。では空は無事に監視の目から逃れることができたというわけか」
彼等の会話に玲は目を削ぐ。
それに気付いた鈴理は口角を持ち上げ、「空も男だということだな」あんたを止めたくてうずうずしているらしい。可能性がある限り、足掻く男なのだと肩を竦める。
なんてことだ。とんだじゃじゃ馬姫である。
あれほど汐らしく待っていると言っていたくせに、また嘘をつかれたようだ。いや、彼のことだ。嘘はついていない。きっと今も自分の迎えを待っている。ただ言葉足らずだっただけ。あのお姫さんは≪行動しない≫と言っていないし、自分も≪起こすな≫と言っていないのだから。
結局、彼も男であり、一端の女性を守ろうと奔走する異性なのか。腹立たしい限りだ。
「土壇場で身を挺して走る。ヘタレ姫も男を見せてくれるものだ。僕の立場がないじゃないか」
「ふん、気持ちは分からないでもない。あたしも守られた経験があるからな。……玲、あたし達と来るよな?」
「愚問だね」頭に飾っていたコサージュを引きちぎり、畳に捨てる。
「おまっ!」慌てて大雅が背を向けた。構わず玲はドレスを脱ぎ捨て下着姿になると、床の間の窓辺に足を伸ばす。散乱している物を踏まないよう足元に注意を払いながら、カーテン下に放置されている小型キャリーバックに手をかける。チャックを開け持ってきた衣服に腕を通した。
また男装少女に戻るのか? 折角の馬子にも衣装が台無しだと鈴理。父のスマホから盗聴器を抜くため、カバーを外している。
皮肉をどうも。カッターシャツのボタンを留めると、スラックスを履き、ベルトを締める。学ランの上衣を羽織り、木綿のハンカチで口紅を拭う。
「空の借金。大雅と話していたのだが、楓さんにお願いして五百万を借りようと思っている。あたしと大雅とあんたの名で。データを守ってもらったんだ。名くらい貸せる。五百万、耳を揃えて払えば些少ならずあいつは自由になるだろう? ようは淳蔵さんの世話にならないよう、差し向ければ良い。あとは」
「婚約式は本人達がいない限り、成立しないから安心していいよ。豊福はジジイの手に落ちていないんだよな?」
「ああ。あいつは森崎達が保護している筈だ。念のため、行方を眩ませている理由付けとして駐車場に避難させている」
なるほど、駐車場に居させればどうとでも口実が作れるわけか。
凝った演出だと苦笑しハンカチを仕舞うと、入れ違いに二枚の紙切れを取り出して上衣を翻す。「それは?」鈴理の疑問に、二枚ともヒトの人生を左右する契約書だと素っ気無く返す。
なんの契約書かは謂わずも分かってくれるだろう。片方は金について、片方は将来について綴られた契約書が玲の手中におさまっていた。
将来についての契約書は対になっており、片割れは豊福家が持っている。
「これから交渉しに行く。君達の名、貸してもらうよ」
ひらひらっと契約書を見せつけながら二人に同意を求める。
元気になった途端これだ。偉そうだと大雅が呆れ、鈴理がそれでこそ好敵手だと口元を緩める。
「今頃、会場は大変なことになっているだろうな」ちょっと意地の悪いことを言えば、「構わないさ」僕と豊福が決めた挙式じゃないからね。大袈裟に肩を竦める王子は鼻を鳴らし、笑みを零した。
それは今日はじめて友人に見せる素の笑顔だった。




