17.父さん母さん、息子の挙式ですよ!
□ ■ □
挙式当日の朝。
博紀さんに揺すり起こされた俺は鉛のように重たい体を起こし、ぼんやりと宙を眺めて欠伸を零した。
朝は強い筈なのに霞館に連れて来られてからというもの、どうしても起床に時間が掛かる。倦怠感が半端ない。だるいの一言に尽きる。立っているであろう寝癖をそのままに、再び重たい瞼を下ろしてうとうと。うとうと。Zzz...である。
「空さま」
博紀さんに声を掛けられ、ハッと瞼を持ち上げる。傾いていた体を立たせ、頭を押えた。
「博紀さん……、珈琲貰えますか。ブラックで。ちっとも目が覚めなくて」
畏まりました、朝食と一緒にお持ちします。
恭しく頭を下げる博紀さんが部屋を出て行く。鍵は開けっ放しだ。それを一瞥しつつ、俺はベッドから下りてよろよろと洗面所に入った。鏡面と向かい合う。そこには寝起き面全快のブサイク少年が半目で立っていた。
うっはー、マジブサイクだなおい。
冷たい水で洗顔し、軽く身なりを整えるけれど眠気は勝るばかり。
「やべー」体がどうにかなっちまってるんじゃね? 独り言を呟き、歯ブラシを取って磨き粉をつける。口内に広がるミント味を噛み締め、ぼーっと鏡を見つめた。
シャコシャコ、シャコシャコ、歯をブラシで磨きながら今日は何日だっけ? 脳内日めくりカレンダーを確かめる。
(あ、今日だったな、挙式。晴れて俺と先輩が婚約するんだよな)
シャコシャコ、シャコシャコ。
(六日ぶりに御堂先輩と会うわけだけど元気、かな)
シャコシャコ、シャコシャコ。
(スケジュール、後で確認しておかないと。挨拶とかしないといけないのかな)
シャコシャコ、シャコシャコ。
(今晩は霞館に戻らないよな。着替えとかどーするんだろう。博紀さんに聞いてみよう)
シャコシャコ……、シャ……。
(お腹、出てないよな。締まっている体じゃない、し)
………。
歯ブラシを銜えたまま横腹の肉を抓んでいた俺は、ぐわぁあっと頭を抱えて洗面台の縁に凭れた。
能天気に歯を磨いている場合じゃないだろおい。来ちゃったんだよ、挙式の日が! このまま何事も無くいくと俺は御堂先輩とあはんでうふんな一晩を過ごすことに! 健全に夜を明かすこともできるだども(お布団で寝んねとかな!)、意味深なホテルの一室de挙式後に二人で過ごすなんて?
そりゃもうヤッちまえと言っているようなもんだろ!
博紀さんのススメ(という名の脅し)でホテルの一室を用意してもらったけど、心の準備がちっとも追いついていない。覚悟はしているつもりなんだけど、でも、でもさぁ!
攻め女との情事って俺の想像をはるかに上回るようなことをしてくれちゃいそうなんだけど。
婚約者の性格からして、俺に抱かせてくれるとは到底思えない。経験上。
「抱いて」と言われたら、それはそれでド緊張してしまうだろうし、困惑してしまうだろうけど、「抱かせて」と言われたら俺はどうリアクションを取れば良いのだろうか?
ここは受け男らしく「優しくしてね」なんぞと甘く媚びて語尾にハートマークを付ければ良いのだろうか? ……俺がそんなリアクションして誰が喜ぶんだよ。いや、多分攻め女を喜ばせるのだろうけれど。
ノットスチューデントセックスをモットーにしている俺にとって今晩という日は多大なストレスになりそうだ。
逃げないって言ったし、覚悟しているとも言ったし、待っているとも言ったけれど、高校生の内からそういう経験をしなくとも良いんじゃ! と、思ってしまうこのヘタレ心。分かります? 俺の気持ち! 嗚呼、今から緊張の連続ですぜベイベ。
(父さん、母さん、貴方の息子はオトナになろうとしていますよ。身体的な意味で!)
その場にしゃがみ込んでシャコシャコと歯を磨く。
改めて思う。来ちゃったんだよな、婚約式が。今日は誰が来るんだろう? 財閥の関係者とか当たり前のように来そうだけど。……御堂先輩と挙式を挙げることに思うことはない。けれど御堂先輩が淳蔵さんに強いられている命令が気になる。
霞館に軟禁されている俺だから、彼女が今、何処で何をしているのか、その様子が窺えなくてモヤモヤしている。
情報すら得られなかった。従順に過ごしていれば少しは価値ある情報を得られると思っていたのに。
(両親のことや俺自身、これからどうなるのか不安ではあるけど)
いっちゃんに考えないといけないのは御堂先輩のことだ。
博紀さんは助言してくれた。守りたいものがあるなら、余計なことは考えるな、と。
まさしくそのとおりだよ。俺にとって自分も両親も大事だけど、物事には優先順位がある。
最優先に考えないといけないのは婚約者のことだ。
しっかし館にいる間は何もできなかった。脱走なんて無謀だし、監視の目は厳しいし、イチゴくんを人質に取られているし。
(まあ、館にいる間はできない方が可能性として大きいと思っていたから想定内だけど)
仮に御堂先輩に何か、財閥に関する何かを強いるのなら今日なんじゃないかと睨んでいる。
だって俺の失態例があるんだ。二階堂、竹之内財閥に俺の悪事が知れている以上、向こうだって警戒心を募らせている筈。そんな時に俺達の挙式が行われる。命じたのは淳蔵さんだ。きっと財閥関係者を沢山呼んでいるんだと思う。そこに御堂先輩を……。
ガシガシと頭部を掻いて執拗に取り巻いている眠気を振り払う。
部屋から博紀さんの呼ぶ声がしたため、俺は立ち上がって水で口をゆすいだ。
王子を待つのは姫である俺の役目だけど、俺は完全な姫にはなれない。俺もまた王子になりたい男だから。
人質となっているイチゴくんと顔を合わせたのは食後だった。
今日、やっと家に帰れる。そう愚痴っている彼の軟禁生活は割りと優雅なものだったらしい。
何故なら、俺と別室にされて大暴れしているイチゴくんにテレビと最新のゲームを与え、それで遊ばせていたそうだから。
「ゲーム三昧なんてアリエネェよ」
おかげで三本も全クリしちまったんだからな! とか胸を張るイチゴくんの生活は俺よりずっと楽しかったと思われる。良かったよかった。酷なことはされていないみたいで。
彼は挙式後に解放されることになっている。
一応会場まで連れて行くようだ。俺が変な気を起こさないための釘、と言ったところだろう。
俺は博紀さんの目の前で、「巻き込んでごめん」花畑さんに宜しく伝えておいて、と言付けを頼んだ。
会場に到着したら、時間に追われて顔を合わせることもなくなるだろうから。
「一緒に帰るつってるだろ!」
ぶすくれるイチゴくんがそっぽ向いてしまうのは容易に想像がついた。
苦笑を零す俺と、憮然と肩を竦める博紀さん。イチゴくんは不貞腐れたまま俺達に背を向けてしまっている。
けれど博紀さんが傍にいなくなると、「空。こっちは心配すんな」俺は俺で人質の枷から脱して見せるから、と素を見せてくれた。
俺の嘘に付き合ってくれる彼には感謝してもしきれない。ここ数日、腹立たしいくらいに従順な俺の演技に付き合ってくれたんだ。普通なら煮えた気持ちを抱くところだろう。
「巻き込んでごめん」
さっき口にした台詞を相手におくり、俺は無理しない程度にお願いね、とイチゴくんの手を取った。
「もしも成功したら御堂先輩を探して欲しいんだ。俺も全力で彼女を探す。でも俺より先に見つけたら、彼女を止めて。たとえ俺のためであろうと、彼女の強いられていることは将来すら脅かすから」
「分かった。任せとけよ。空も気を付けろよ。最後まで諦めんな」
あのじいさんの言いなりになるには、まだ早いぞ。
ニッと歯茎を見せて笑いかけてくれる爽やか少年に俺は目尻を下げて首肯する。諦めないよ、今日という日が終わるまでは絶対に。
挙式の日は準備が慌しいようで、正午前には霞館を後にした。
式は午後六時からだろうに、主役の俺はもう式場となっているホテルに向かわなければいけないそうな。博紀さん曰く、「一夜はそこのホテルで過ごすことになっておりますので」だってよ。
ははっ、マージで? 本当に一室を用意してくれてるんっすか?
嗚呼、胃が疼き始めた。今晩なんて来なければいいのに!
嘆いても時間は一刻一刻過ぎていくもので、正午過ぎに俺はホテルに到着する。
一体此処が何処のホテルでどれほどの知名度があるのか見当もつかないけれど、一見して高そうなホテルだってことは判断できた。
イチゴくんとはロビーでバイバイし、俺は博紀さんに連れられてホテルの最上階へ。
彼が誘導してきたのはこれまた高そうな一室。金ぴかプレートが付いた洋室の扉を潜るとあれまあ、だだっ広い畳部屋が顔を出した。
畳の好い香りがする。緊張を解きほぐしてくれる安心した香りに肩の力が抜ける。六畳と八畳の二間を有する和室で、ご立派な掛け軸や和式のテーブルセット。座椅子が俺を迎えてくれる。
襖にも鮮やかな絵が入っていて綺麗だ。
ちょっとだけ窓辺に歩むと喧騒した街並みがガラス越しに見えた。高所恐怖症だから、窓辺に立って外を覗き込むことはできないけど、遠目から眺めることは可能だ。
すっげぇいい景色。都会の喧騒が目の前にあるのに、ちっともこの部屋は都会臭さを感じさせない。
「凄いっすね」
控え室にこんな上等な部屋を用意するなんて。
ニッコニコ顔で相手に言うと、「お気に召しましたか?」此処は和室スイートでございますよ、と博紀さん。
「今晩はこの部屋で心行くまでお過ごし下さいね」
目が点になった。
え、此処、控え室じゃないの? 和室スイートぉ? ってことは、あれまぁ、俺と御堂先輩が一夜を過ごすお部屋って此処なんですか?
折角安堵感が胸に広がっていたのに、一変してドドド緊張。挙動不審に部屋を見渡す。八畳の部屋は食事やテレビを見る寛ぎスペースのようだ。
ということは六畳の部屋が床の間になるということで?
だぁあああっ、なんで今、この部屋に連れてくるんっすか!
挙式も終わっていないのに連れてこられてもっ、生まれるのは緊張ばかりなんっすからね!
「あ。空さま、これ。僕からの贈り物です」
頭を抱えて身悶えていた俺に、博紀さんがハイっと茶紙袋を手渡してくる。
おずおずと受け取り、生唾を飲んで中身を開く。瞬間、脳内が沸騰した。赤面して相手を凝視すると、腹黒さを窺わせる満面の笑みを返された。
「ひ、博紀さん。これは」
「受け身だとはいえ、やはり準備するのは男の役目かと思いまして」
「このボトルは」「ローションです」「こっちの意味深な個包装は」「所謂ゴムですね」「錠剤は?!」「痛みより快楽の方が良いかと」「か、快楽?」「媚薬と呼ぶべきですか?」「び、やく?」「初めて聞きましたか?」「は、はい」「なら、是非試しに使ってみて下さいね」「いや、えぇえっと試しって」
「媚薬の効果は絶大です。空さま。錠剤で相手を翻弄させ、自分を優位に立たせることも可能ですよ。脱受け身も夢じゃないです」
グッジョブと親指を立てられるけど、そ、そげな物騒なことを誰がするんっすか! もしかしなくとも俺っすか!
瀕死のダメージを受ける俺に、「本も入っているんで」お召しの時間まで勉強していても良いかと。博紀さんは余計な気を回して人を混乱に貶めた。
「本って」
紙袋から取り出したブックカバー付きの実用書を取り出す。
ぱらぱらとページを捲って脳内ドッカーン! 挿絵ばっか! ひ、ひ、ひ、卑猥な絵が俺にタリラリランのコニャニャチワしてくるんだども!
「イラスト付きの方が頭に入りやすいと思いまして」
お目付けとしての仕事を優秀にこなしてくれる博紀さん。恐れ入ったっす。
ショックを通り越して呆然とする俺に、「頑張って下さいね」ちゃんとお嬢様を愛するんですよ、と微笑まれた。
泣きたいっす。俺の中のエスケープ魂が逃げたいと悲鳴をあげているっす。どうしてこうなった?
グズッと半泣きになっていると博紀さんが時間までこの部屋で寛いでくださいね、と告げて退室する。
その際、「お嬢様も後で御出でになります」と教えてくれた。
「窓辺にお嬢様の私物が置いてあるそうです。ほら、あそこの白い紙袋がそうです」
うっかり見てしまわないようにして下さいね。女性の私物を安易に見たら叱られてしまいますよ。
笑声交じりに出て行く博紀さんを見送り、俺はつくねんと部屋に取り残された。
手には小さな茶紙袋。
そして視界の端に見えるのは、御堂先輩の私物と思われる白紙袋。俺の持っている紙袋よりも大きく取っ手付きときた。相手のプライバシーを考えると見ない方が良いんだろうけど。……此処に持ってくる先輩の私物、ねぇ。
好奇心と道徳感を天秤に掛けた俺は前者に重心を掛けてしまい、窓辺の隅に身を潜めている紙袋に抜き足差し足忍び足で歩んだ。
「ちょっとくらいイイっすよね。誰も、いないし」
見ても、見なかったことにして過ごせばいいんだから。
二度三度周囲を確認して紙袋を覗き込む。
一番最初に目に飛び込んできたのはボトル。取り出してみるとオレンジの香りと表記されている。もしかしてこれは俺の持っているボトルと同じ種類なのでは? あ、しかも媚薬入りって書いてある。……媚薬? え、媚薬ぅ?
お次に取り出したのはタオル。まるで底を隠すように覆われたタオルを手にし、俺は頭上にクエッションマークを浮かべた。
何気ない気持ちで袋の底を一瞥。「あ、れ」俺は喉の奥を引き攣らせ、おずおずと手を伸ばした。
「赤いロープに蝋燭、筆、洗濯ばさみ……? な、何に使うんだろう? それからえーっと「ガチャ」……ガチャ?」
紙袋を揺するとガチャガチャと音がした。
物を退けて最奥を確認。ん? 変な形をしたものがやたらひしめきあっているな。あ、取扱説明書がある。これを失敬しよう。
意図が分からないガチャガチャと詰まったそれらを知るため、ぺらっと説明書に目を通す。次第次第に俺の血の気が引いてしまったのは自然現象だと思って欲しい。声にならない声を上げ、急いで出した物でそれらを隠す。
タオルを綺麗にかぶせ、ボトルまでしっかりと仕舞うと持っている茶紙袋を抱えてトイレに逃げ込んだ。
ゼェゼェと息をつき、扉に背を預けてその場に座り込む。腰が抜けてしまった。
「な、な、なにあれ! なんだかムッチャ悍ましい物を見てしまったんだけど! 知ってしまったのだけれど!」
口で説明しろと言われたら放送禁止用語でピ―――ッが入るだろうし、俺の見たものはすべてモザイク化されるに違いない!
ま、まさかあれを俺に使うつもりなんっすか。御堂先輩! ほんっとうに俺のこと、好いてくれているんっすかね!
相手の気持ちを疑いたくなるほど、大変ヨクナイ物を目にした俺はべそを掻いた。
やっぱできないよ父さん母さんっ。俺、このままだと殺されるよ! 婚約者に殺される!
「なんで初っ端からアブノーマルばっかなのっ。ノーマルに……、穏便にいこうと思わないのかな、攻め女は」
そうだ、博紀さんがくれた本に何か書いてないかな。
さすがにさ。そういう行為に覚悟はしていても、アブノーマルへの覚悟はてんでしていないから。
縋る気持ちでッアーな実用書を開く。なるべく挿絵に目を向けたくないので、イラスト部分は手で隠しつつ文章を読んでいく。
でも書いてあるのは初めてする人のための心構えとか。エチケットとか。準備とかばっかり。
進むに連れて情事のことは書いてあるけれど、うーん、ノーマルな情事だよな。
「まず相手の気持ちを考え、無理に事を進めないようにしましょう。慣れてしまえばイヤヨイヤヨモスキノウチとして、反抗心が興奮となりますが、初めての場合、緊張している女性が大半なのです。……だっよなぁ。俺もド緊張しているんだし」
うんうんっと頷き、ページを捲る。
「緊張している女性には、まず抱擁してあげることが良いでしょう。心音を聴かせたり、髪を梳いたり、触れるだけのキスを贈ってリラックスさせましょう。……そっかぁ、なら俺も御堂先輩に」
いや、待て待て待て。
緊張しているのは俺、アブノーマルに事を進めようとしているのは彼女だぞ。
その場合はどうすれば……、まさか俺が抱擁されたり、心音を聴かされたり、髪を梳かれたりされろと?
あ、あ、安心はしそうだけど、でも何かが違う! 逆転している俺達にこの知識は通用しそうで通用しない! てか、したくない!
「奥の手は泣き落としかなぁ」
情けないけどアブノーマルを避けるにはそれしかないよなぁ。
「……待てよ、泣き落とし。過去に使って相手を焚き付かせたような」
そうだよ。
どっかの誰かさんの家にお泊りした時、泣き落としを使ったら「興奮する!」とか言われたんだっけ。そこの奥さん、俺の泣き顔は興奮らしいですよ! どゆことでしょうね! 嗚呼、セックス怖ぇよ。健全なお付き合いで相手を愛す、じゃ駄目なのかぁ。
「俺、トイレで寝ようかな。いや、わざわざスイートを取ってもらって便所に逃げ込むのも如何なものだろう?」
読んでいた本のページに顔を押し付けて苦悶する。どうしよう、マジどうしよう。
どう足掻いても俺の未来はお先真っ暗だ。逃げないとカッコつけて言った自分を呪いたくなるほどである。
既に決意がポッキリ折れそうな俺は究極のヘタレ?
……いやでもさ、あんなえげつない物を見てよ? 知ってよ? 今宵が楽しみでござんすね、とか思える馬鹿はそういないだろ! ましてや≪アレ≫を俺に使用されることを知って楽しみだぁ? 不安でしょーがないよ馬鹿!
かくしてトイレに逃げ込んでセックスの知識本片手、セックスの準備道具が入った紙袋片手にうんぬん苦悩する俺、豊福空。
傍目から見れば不審者極まりないことだろう。
折角のスイートルームも満喫することなく、ただただ高そうなトイレで膝を抱えるなんて。
これもそれも御堂先輩の私物のせいだ。勝手に見たのは悪かったと思うけ、ど、さ! だけ、ど、さ!
ううっ、父さん母さんに会いたい。息子はホームシックだよ。ハイジでいえば、夢遊病一歩手前だよ。
深い溜息をついて背広のポケットから写真を取り出す。
歳月によって色あせた写真が一枚、わりと若い写真が一枚。どちらも俺の大切な両親。この人達がいなかったら、今の俺がいなかった。
目を細め、静かに写真を仕舞う。今は御堂先輩のことだけを考えよう。一つのことに集中しないと俺の中のキャパシティーがオーバーヒートを起こす。
紙袋に本を仕舞い、口を綺麗に折りたたむ。
これはどうしよう。取り敢えずトイレのどっかに隠すかなぁ。いやでも本が大きいからトイレは無理そうだ。
いそいそと部屋に戻った俺は良い隠し場所がないかと目配り。
テレビの下、襖、花瓶の横、どこも適した隠し場所とは言えないな。押入れに隠すのも手だけど、ホテル員の人が布団を敷いてくれるだろうし。困ったなぁ。
博紀さんの贈り物、置き場所に頭を悩ませるぞ。
小さな溜息をついているとノックの音が聞こえた。ギクリと体を震わせ、俺は紙袋を四隅に積み上げられていた座布団の下に隠す。
その間にもカードキーが解除され、誰かが中に入ってくる。
平然を装って座椅子に腰掛けた俺は、テーブルに肘をつきつつ相手を確認。目を削いでしまった。ずるっと手の平から頬が滑り、体勢を崩してしまう。
六日ぶりに見る御堂先輩。
相変わらずハネている亜麻色の短い癖ッ毛。クオーターの瞳は日本人には無い輝きを宿している。
常に男装を好む筈の婚約者が、レースリボンの目立ったロングスカートを着ているんだ。肩リボンカットソーで肩を露出させているところが色っぽいのなんのって、そりゃ、驚くんっすけど。女の子なこと極まりない。
言葉を失っていると、「変。かな?」しおらしい声で此方を見つめてくる王子。いや王女。もうお姫様と呼んでもいいっすかね?!
我に返った俺は不意打ちは反則だと心中で呟き、ガシガシと頭部を掻いて視線を逸らす。どうしても直視できない。
静かに向かい側に座ってくる彼女にようやく感想を述べることができた。「可愛いっすよ」普段の姿を知っているだけに、凄い可愛いと言葉を贈る。
「なら、ちゃんとこっちを見て」
彼女の主張に今はできない、と俺。
「どうして?」御堂先輩がやっぱり変なんじゃないかと自信を失くしたような素振りを見せるから、「俺自身の問題なんっす」先輩は変じゃないと即答で否定した。眼が理由を求めているから、観念してボソボソっと返事する。
「直視したら俺はきっと鼻血を出すっす」
「それってつまり、僕に興奮してくれているってことかな? 嬉しいな」
~~~ッ、そう言われるのが嫌だから、はぐらかしていたのに!
口を噤んで窓辺の向こうの視線を逃避させる。
喧騒な高層マンションばかり目立つ景色だけど、和室スイートルーム内は静寂を保っていた。訪問者を癒すための静寂にすら思える。緊張で高鳴る心音を無視していつまでも景色を眺めていると、「あ」紙袋がちゃんと届いている。良かった。御堂先輩が綻びを見せた。
対してビシッと硬直するのは勝手に代物を覗き込んだ俺である。
平常心を保ちながら、「あれはなんっすか?」とさり気なく質問。
すると先輩は満面の笑顔で、
「僕と豊福が喜びそうなものだ。ネットで頼んでおいたんだ」
僕と豊福が喜びそうなものぉ? あれがっすか!
「中身はなんです?」努めて平常心を保つ俺に、「今は内緒だ」けれど豊福も絶対に喜ぶから安心しろ。きらっとキメ顔を作る婚約者がそこにはいた。
果たしてあれが俺の喜ぶ物なのだろうか?
ツッコミたいけど勝手に見た罪悪もあるから、頑張って笑顔を作り楽しみにしていると答えた。
ハニカミを見せる御堂先輩がよたよたと四つん這いで移動してくる。
いつもと違う女性らしい格好に目のやり場に困った。何処を見ても色っぽいんだもんなぁ。女の子って化ける生き物だよ。ちなみにこれは褒め言葉だから。
「豊福」
俺を見上げてくるその視線は所謂上目遣いというものである。
つくづく対処に困るアクションばかり起こしてくる彼女だけど取り巻く雰囲気を読んでしまい、俺は微苦笑を零した。
「来て下さい。先輩」
座椅子から離れ、ちょいちょいと手招き。
ふわっと笑う婚約者が膝にごろんとしてくる。ほんっと猫みたいな人っすね。こんな時まで人の膝を陣取るんだから。いや、それともこんな時だからこそっすかね。……今なら二人きり。先輩とちゃんと話し合えるチャンスなんじゃ。
そう思って口を開いたけれど扉の前に人の気配を感じ、口を閉じて目を伏せてしまう。
駄目だ、此処で気持ちを先走らせたら人質に取られているイチゴくんに危害が及ぶ。俺はまだ完全に信用されていないんだな。淳蔵さんにも、博紀さんにも。
目ざとい彼女に悟られないよう、髪を手櫛で梳いてやる。
「何も聞かないんだね」御堂先輩が見上げてきた。目尻を下げ、「待つと言いましたから」それに覚悟はもう決めているんっすよ。虚勢を張ってみせる。彼女も不安なんだ。強がらないわけにはいかない。
「先輩。ちゃんと食べて寝てます? 俺がいないからって好き嫌いしちゃ駄目っすよ。先輩、すーぐ残すでしょ? 夜更かしだってお手の物ですし」
「君は僕の母親かい? 口うるさいぞ」
ぶすくれる婚約者に、「いいから答えなさい」俺は問答無用で迫った。
やや間を置いてダイエットしているのだと御堂先輩が唇を尖らせる。ま、この子ったら! お残しをしたのね!
「食べていないんっすね」
食べられる有難さを知りなさいといつもゆーとるのに。
むにゅっと右頬を抓んでやると、「豊福が悪いんだ」君が傍にいないから、注意してくれる人がいないのだと人のせいにしてくる彼女。
人が注意しても残すでしょ? 苦笑を零し、「ちゃんと食べるっすよ」何でも食べないと強い子になれないっす。オカン染みた台詞をおくった。まばたきを繰り返し、「何でも食べられたら」男のように強くなれるのかな? 御堂先輩はじっと俺を見つめてきた。
「僕は男になりたかった」
久しく聞く台詞に俺はかぶりを横に振り、「女性で良かったんっす」でなければ俺達はこうして過ごすこともなかったのだから。相手にそっと微笑む。
ゆっくりと上体を起こす御堂先輩に勢いよく押され、俺は畳の上にごろんと寝転がった。
あちゃぱ、どんなに女性らしい格好をしても貴方はやっぱり攻め女を貫くんっすね。
相手を見上げると、「男だったら」もっと強くなれたのにね、泣き笑いを浮かべるお姫様がいた。やっぱりこの人は王子だ。この人自身がそれを望んでいるのだから。
「豊福。もしも僕が男装をやめると言ったら、君はどうする? らしくないと笑うかい?」
それこそ、らしくない質問だと笑声を返したい。
けれど俺は笑わず、相手の髪に右手を伸ばし、わっしゃわしゃと撫でてやった。
「今までどおりなんじゃないかと思います。言ったでしょ。俺は貴方を“男”として見たことはない、と。男装しようとしまいと根本的な見方は変わりませんよ。男ポジションを譲ってくれるなら、俺、頑張っちゃいますけどね」
「ヤダ」子供のような返事をしてくる先輩は譲らない、誰にも譲らないと繰り返し、耳の裏にキスをしてきた。
「はいはい」なら女ポジションで頑張りますよ。なるべく。
おどけを口にして、相手の首に腕を回す。そのまま目を閉じ、彼女のぬくもりを感じた。だって彼女が人の背中を掻き抱いてくるから。だから。
「先輩、挙式が終わり次第、約束を果たしましょう。俺は貴方にすべてを捧げます。この部屋ですべて。―――……貴方を待っていますから」
顔を持ち上げてくる王子が音なく唇を奪ってくる。
応えるため、後頭部に手を回した。六日ぶりのキスは再会の挨拶。ぬくもりを欲していた彼女の我が儘に応えるため、癖っ毛を指に絡ませて相手を受け入れる。待ちわびていたかのように王子が足を俺の足と絡ませてきた。ねっとりとした動きは艶かしさを感じる。
薄目を開け、より相手を受け入れるために後頭部を自分側に引き寄せる。相手の息継ぎが分かる。余裕のなさが感じられる。呼吸が融解していく。
経験した中で一番苦いキス、だと思った。
きっと今日という日を背負っているせいだろう。
政略、欲望、金持ち同士の醜い争いに足を突っ込むと覚悟し、それを受け入れ、俺達はひとつ大人の階段を上ろうとしている。だからキスが苦い。今まで無垢だった子供がそういう世界に飛び込もうとしているのだから。
「しょっぱい」生理的に出た涙を舌で掬い取ってくれる彼女に、「泣かさないで下さいよ」まだ挙式が控えているんだから、と笑みを返す。
「めでたい挙式で目が腫れていたら嫌っすよ」
「キスでこの調子じゃ、翌朝は覚悟しておかないとね。目、腫れているよ。きっと」
「とても物騒っす」
「それだけ僕は本気なんだよ。早く、君を食べたいな」
子供という殻を破った時、俺達はきっと今の俺達じゃなくなっているだろう。俺も、御堂先輩も、何も知らない子供だった頃には戻れない。
今日を乗り越えて大人になってしまう俺達がいるのか、それとも子供のままの俺達がいるのか、それは誰にも分からない。誰にも。




