14.友情か、ポイズンか
□ ■ □
【(仮)空の部屋・寝室にて】
(AM11:15)
「やーっべ。ソファーで寝たせいか? 異様に体が重いんだけど」
向かい側で大きな伸びとあくびを零しているイチゴくんが首の関節を鳴らしている。その表情は気だるそうだ。
彼のみならず、俺も気だるくて仕方がない面をしていると思う。とにもかくにも体が重いんだ。ベッドから身を起こすのにも一苦労した。起床時間は通常よりも随分遅く、博紀さんが起こしてくれなかったら俺はいつまでもベッドの住人と化していたに違いない。
「はぁ…」口から出るのは溜息ばかり。
朝食が用意されているテーブルの上で肘をつき、こめかみを擦る。嗚呼、現在進行形で体の何処よりも頭が重い。どうしちゃったんだろう? 頭痛とは一味違う鈍痛を感じるんだけど。
あれこれグルグル考えながら寝たせいかな? 考えすぎて頭がオーバーヒートしている、みたいな?
ありうることだけど、俺はそんなにグルグルと考えていたっけ? 寝落ちるまでの記憶が一切見当たらない。
ショボショボする目を瞬きながら記憶を検索していると、傍らに立っている博紀さんから名前を呼ばれた。
説明されずとも朝食を取るよう促しているんだと思う。いつもの俺なら出された朝食を残さず食べないと失礼だ! 勿体無い! と、思うところなんだけど、遺憾なことに食欲皆無。
折角おいしそうな朝食が俺を待ち構えてくれているというのに。
ちなみに朝食のメニューはカリカリに焼けているフレンチトースト。とろとろのスクランブルエッグ。おなじく卵料理になるココット、ベーコンとほうれん草が入っておいしそうだ。コーンスープにヨーグルト和えサラダ。
デザートはブランマンジェと呼ばれたミルクプリンのような冷菓。ブランマンジェはフランス語で「白い食べ物」って意味らしいよ。
語学を教えてくれたロッテンマイヤーさんが雑学で教えてくれた。
気だるさがなかったらがっつくところなのになぁ。
なんだろう、この倦怠感。
またひとつ溜息をつき、俺はオレンジジュースに手を伸ばす。今、一番胃が受け入れてくれそうなのは果実系だ。果汁100パーセントであろうオレンジジュースで喉を潤し、朝食は食べられそうにないことを博紀さんに伝える。
「ご気分が優れませんか?」
事務的な質問に体がだるいことを告げる。鼻で笑われる覚悟で言ったんだけど、意外にも相手は親身に聞いてくれた。
「ご体調の件は考慮しましょう。しかし空さま。何も口にしないのは体に毒です。スープだけでもお召し上がりください」
腐ってもお目付けなんだな。素の顔を知らなければ感謝しているところだよ、ほんと。
仕方がなしにスープの入った皿を自分の方に引き寄せる。
「ほんっと気だるいよな」
向かい側に座っているイチゴくんもだるいを連呼して、全然食欲が湧かないと溜息をついていた。
うん、既に朝食を半分程度、平らげているみたいだけど……きっとだるいんだろうな。うん。
「空、食い終わったらちょっと外に行こうぜ。外の空気を吸えば気が晴れるかもしれないし」
ぽいっと口に食べかけのフレンチトーストを放って咀嚼しつつ、イチゴくんが提案を出してきた。
返事する前に「駄目だ」お前が勝手に決めるな、とお目付けが意見する。
「いいか。空さまは多忙の身の上なんだ。お前がどうこうスケジュールを決める筋合いなんてない。朝食を食べ終わったら、すぐに学校へ行くんだな。小癪だが送ってやる」
「うっはー! ニーチャン、今日も上から目線絶好調デスネ! そんなに言われたら俺っ、もっと空といたくなっちゃうじゃないですか! 三河屋はもっと小癪なことをしたくなるのですが!」
ニコッ、ピキッ。
どちらがどちらの表情を作ったのか、察しはつくと思う。
俺は双方を一瞥しつつ、息を潜めてスープを口にするしかできない。
「人がしたてに出て優しくしてやればつけやがって」口汚くなる博紀さん、「うわての間違いだろニーチャン」茶化してくるイチゴくん。
嗚呼、空気がやばくなってきたぞ。
「今日は何が何でも帰って貰うからな。クソガキ! お前のせいですべてのスケジュールが狂っているんだ!」
「今日も何が何でも泊めて貰うからな。クソニーチャン! お前のせいですべてのスケジュールが狂っているんだ!」
「おまっ、僕の真似かい? 小ざかしい」
「おまっ、俺の真似かい? 鬱陶しい」
「……ッ、殺す!」
「……ッ、生きる!」
はじまった、はじまっちゃった。
食事中だというのに椅子を倒して博紀さんから逃げるイチゴくんの手には、ちゃっかしデザートの入ったカップが。
「うましうまし」ご機嫌に感想を述べる余裕さに憤怒した博紀さんは、おとなげなく相手を追い駆け回している。
ただでさえ倦怠感に悩まされているのに(イチゴくんも同じ症状に悩まされているのに)、部屋で騒動を起こしてもらうのは勘弁してもらいたいんだけど。
(こんなんで大丈夫なのかな……、先が思いやられる)
婚約式まで日が無い。
慌しい朝食を取った後、俺は博紀さんの手によって着替えを強いられた。
着る服がないから制服になるつもり満々だったんだけど、「貴方は財閥の後継者ですよ」辞める学校の制服を着てどうするのだと叱られてしまった。
ここで俺はようやく倦怠感から少しだけ脱し、不味い状況下にいることを思い出す。
そうだった俺、学校をサボったんだ。特待生なのに。今日は英語の課題を提出しないといけなかったのに。
少し先の未来より、今日という現実問題に目が向いてしまう。軽い現実逃避を起こしているのは言うまでもないよな。
「普段着は後日。僕と買いに行きましょう」
ゼンッゼン嬉しくない約束を取り付けられ(だって博紀さんと買い物ぉ?)、俺は真新しいスーツに着替えた。
しっかりと博紀さんからネクタイを締められ、姿見で確認するよう指示される。鏡の向こうに映っているのは時期財閥の若旦那、ではなく、これから就職活動を頑張りますって意気込んでいる少年だ。正直、財閥の面影も無い。
「空も大変だな。制服でも良いだろうに」
他人事のように俺の不運を同情するイチゴくんは、始終暇そうにソファーの上で寝転んでいた。
そういえばイチゴくんも学校をサボったんだよな。授業は大丈夫…、かな? 高校は欠席、欠課が響くから。
「イチゴくん、俺に構わず授業に出てきていいからね。出席は稼いでおかないと」
「大丈夫ダイジョーブ。いつもはちゃんと出席しているから。俺、空と帰るって決めているし?」
フフンと得意げな顔を作るイチゴくんに微笑を零す。
博紀さんは不満げな顔を作っていたけど、俺自身、彼の一語一句が励みになる。お目付けがいるから、決して表には出さないけどさ。
支度ができると、一旦博紀さんは部屋から出て行ってしまった。車の手配でもするのかな?
背を見送ったところで、ようやく俺とイチゴくんは“本当の自分”を出すことに成功する。
「あいつ。ベッタリだったな」さすがはお目付けだと皮肉るイチゴくんに、「隙もないよね」いい仕事しているよ、と俺も皮肉交じりに絶賛する。
起床からずっと傍にいる博紀さんの目を盗んで、少しでもイチゴくんの携帯に触れたかったんだけどこのザマ。俺が着替えをしている間にイチゴくんにメールの確認をしてもらおうとしたんだけど、博紀さんの監視してくる眼によって思うように動けなかった。
「ばれているのかな。携帯の件」
俺の疑問に、「かもな」イチゴくんが静かに唸った。
一度は没収された携帯をこそっと取り返しているんだ。向こうがそれに気付いていない可能性は少ない。
もしかすると隠し場所を探っているのかも。あれを没収されるとかんなり不味い。外部と連絡が取れなくなる。今の内に携帯を回収しておくべきかも。
イチゴくんが洗面所に向かう。その間、俺は見張りを買って出た。博紀さんが来たら足止めをするために。
結局、足止めという仕事をすることなく、イチゴくんがさっさと戻って来た。
早足で俺の下にやって来るイチゴくんは喜べといわんばかりに肩を掴んでくる。
「お前の元カノの連絡先をゲットしたぞ」
アジがメールを寄こしてくれたんだ、と眉尻を下げた。
「竹之内本人からもメールがあってよ。迎えに行く、だってさ」
―――…迎え、に。先輩、まだそんなことを。
「元カノもお前のために動いてくれる人間だろ? 良かったじゃんかよ」
鈴理先輩。
素直に喜べない俺だったけど、「そいつのためにも全力で助けてもらわないとな」庇われた方が堪ったもんじゃないから、イチゴくんは明るくおどけた。
力なく笑ってしまう。
それもそうだ。俺のしたことは人を助けたことと並行して、人を傷付けた。もう誰も傷付けたくない。そう思うなら、今度は全力で助けてもらおう。そのためには俺も助けてもらえるよう全力で足掻くよう努めないと。
「空。此処から逃げようぜ」
と、イチゴくんが前触れもなしに大脱走をしようと提案してきた。
俺は面食らう。
どうやって脱走をするつもりだろう?
一室には鍵が掛けられている。解除されるのは博紀さんやその部下が来た時だけだ。
「もうすぐこの部屋を出るだろうからさ」
廊下を出たらその隙に走るんだ、とイチゴくんが人差し指を立てて得意げに笑った。
なるほど、それってつまり計画性のない脱走だよね? 行き当たりばったりな脱走だよね? めちゃくちゃ危険だと思うんだけど!
「此処が何処なのか分からない以上、安易に脱走するのは無謀だよ。イチゴくん」
「大丈夫。携帯があるから! 外に飛び出したらGPS機能で場所を特定すればいい……、あ゛! それだよ、空! GPS機能で此処が何処だか、居場所を特定すればいいじゃんか! それを御堂達に送れば万々歳! 晴れて自由の身だ!」
なんでそれを思いつかなかったのだろう!
ぱちんと額を叩き、「早速試してみようぜ」イチゴくんが携帯を俺に見せ付けた。居場所を教えたら、何が何でも此処から脱出だとコードネーム三河屋は笑う。
「御堂のじっちゃんのところに何時までもいたらさ。誰も手出しができないじゃんか? そのためにもこっちはこっちで出来ることをしちゃおうぜ。助けてくれようとしているあいつ等のためにさ」
「イチゴくん……。うん、やろう」
そこまで言った時だった。
鍵の解除音が聞こえ、空気が戦慄する。大慌てで携帯をポケットに仕舞うイチゴくんと同着で博紀さんが入って来た。間一髪、彼は携帯の存在を視界に捉えなかったようだ。
「空さま。行きましょう」
命令されたため、素直に返事する。
その際、俺は自分の机に向かった。無計画脱出を試みるなら、お守りである写真は持っていかないと。写真立てから写真を抜き取り、俺は二両親に向かって微笑んだ。お守りは内ポケットに入れておこう。
はてさて廊下を出た俺達は早速、脱走を試み……、ることは不可能となる。
何故なら俺は博紀さんに、イチゴくんは部下の人にガッチリと腕を掴まれてしまったから。半ば引き摺られるような形で歩かされたら、逃げ道なんてこれっぽっちもないよな?
自分で歩けると主張はしたけど、「逃げられたら厄介ですからね」見透かされたように視線を流される。
「現に一度、そのガキにまんまと逃げられていますからね」
ギロッと相手を睨むお目付け。
なんの話やらと口笛を吹いているイチゴくんの肝の太さ、俺にも分けて欲しいんだけど。
大股で歩く博紀さんに引き摺られながら階段を下りる。
パッと見、この建物全体は木造のようだ。判断基準は廊下や階段なんだけど、見事に板張りだ。二重三重に木の素材で造られているのが見受けられる。それだけでなく、柱に一々彫刻が施されていた。凝った造りだ。素材独特の匂いが鼻腔を擽ってくる。
階段を下りてしまうと等間隔に並べられている窓辺が見えた。
視線を投げると、薄いガラス板の向こうで木々が揺れている。都会の風景がまるでない。本当に此処は何処なんだろう? まさか山奥じゃ。
不安を胸に抱きつつ、通常扉の二倍はある玄関扉を潜った。
俺の不安はSUV車に乗って外界に出たことで解消される。
どうやら此処は敷地が広いだけで、都会の一角にあるらしい。厳かな庭を抜けて敷地を出ると、見慣れない人間の街並みが顔を出した。
博紀さんは用心深い人で、わざわざ俺とイチゴくんの座る席に距離を置かせてきた。
助手席に腰掛けているのはイチゴくん。悪知恵を働かせて何か騒動を起こさないよう、運転手と後部座席の両方から見張られている。後部座席に腰を下ろしている俺は右隣を一瞥して心中で溜息。いつでもどこでも博紀さんが隣にいてくれるんだけど。もはや息苦しいの一言に尽きる。
肩を落とす此方の心中を察しているのかいないのか、「まだご気分が優れませんか?」と相手に気遣われた(建前だろうけど)。
ええそりゃもう、優れませんの一点張りっすけど? 貴方様が朝からずーっとお傍にいるんだもの。始終警戒心を募らせておかないといけない。
「俺は優れないんだけどニーチャン。退屈」
大あくびを噛み締めているイチゴくんが自分の気分を報告してきた。
「知るか」シッシと手を振って一蹴りする博紀さんはお前に用はないと鼻を鳴らす。
「優しさもクソもない奴!」
ひでぇひでぇと連呼するイチゴくんのおかげで、車内の重々しい空気は一掃された。彼がいるだけで心強くなるな。俺一人じゃ鬱も鬱になっていたよ。絶対。
(これからのことを思うと余計に、ね)
ふと俺は気付く。
イチゴくんも車に乗せたけど、博紀さんは宣言どおり彼を学校まで送るのだろうか? それとも。
SUV車は喧騒なオフィス街に入る。
俺自身、この街は初めましてなんだけど、すぐ此処がオフィス街だと分かってしまった。建ち並ぶビルビルを観察していると、あ、ここは仕事の街なんだって理解してしまうんだ。目に留まるのは電気屋、証券会社、保険会社に株式会社。銀行も視界に映った。
どのビルもノッポさんで見上げれば首が痛くなりそうだ。街道ではOLやリーマンが忙しなく行き交いしている。
彼等は、いつもと変わらぬ多忙な日常を過ごしているのだと思うと羨ましく思えた。
三十分ほど経った頃、車がだだっ広い駐車場に入った。
屋外にある駐車場は目前のビルが所有しているものだろう。大層背高ノッポのご立派なビルが所有していることだけあって、駐車場は本当に広い。ついでに停まっている車はどれも高そうだ。
さて此処は何処だろう? ここ二日、何度も口にしている疑問を再び口にしてみる。
けど、博紀さんから返信は得られなかった。彼は急いでいるようで、下車した俺の腕を掴んでさっさと歩き出す。
(今は)に、逃げないのになぁ。逃げたとしてもここらの土地勘はまるでない。
すぐ捕まるに決まっている。
逃げたくても逃げられないから腕を放してくれていいんだけど、相手に言えば逃走計画がばれてしまうためお口にチャック。
回転式自動扉を潜り、静寂に満ちたロビーを突っ切り、美人お姉さんが立っている案内所を通り過ぎて三台あるエレベータのひとつに乗り込む。
幸いなことにこのエレベータは外界が見えない。
よって安心して乗り込むことができたわけだけど、俺の胸は不安で一杯だ。まーじ吐きそう。飲んだオレンジジュースが胃から口まで飛び出しそう。
何も説明されず此処までやって来たけど、大方予想はついている。
だからこそ、うん、緊張と不安でおぇっ……吐 き そ う !
「俺も来ちゃっていいのか? ニーチャン。だいっじな話し合いがこれからあるんだろ?」
エレベータが『5』『6』『7』と数字を刻んでいく中、イチゴくんが面白おかしそうに頭の後ろで腕を組んだ。
「辛気臭い空気ぶち壊す気満々なんだけど」
口角を持ち上げる我等が台風の子に、「確かに君は空気を壊してくれるよな」けどこっちも予定を狂わされたくない身の上でね、博紀さんが負けじと口元をつり上げた。彼に対する苛立ちはどこへやらだ。……なんだか、嫌な予感がしてきた。
憂慮を抱く間もなくエレベータが『12』でとまる。厳かな回廊を歩んでいくと、金ぴかのプレートが貼り付けてある一室前に立たされた。
会長室、か。
嗚呼、来ちゃった。来ちゃったよもう。泣きたいよ。
父さん、母さん、息子は今、あなた方に会いたくてしょうがないデス。ぶっちゃけ怖いデス、会長様に会うの!
心中で十字を切り、博紀さんのノックを合図に部屋へ。
ひんやりとした空気が頬をなでてきた。空調が利いているのだろうか? 部屋全体に行き届くよう工夫されている窓には日光が射していた。
逆光により、すぐに部屋全体を把握することができなかったけれど、俺達が来たことによって自動的に窓シャッターが下りた。
「待っていたよ」
しゃがれた声に心音が速くなる。
見るからに高そうなデスクに着いて頬杖をついている老人が、食えない笑みを浮かべて綻びを見せた。―――…淳蔵さんだ。
扉を閉める音がやけに鮮明に聞こえる。
口内の水分は一瞬にして蒸発。ドッドッドと高鳴る心臓はどうしようもないみたいだ。
無理やり思考を回し、取り合えずこんにちはの会釈。肩を竦めて挨拶を返してくれるけど、なあにを考えているのかはぶっちゃけ読めない。何処か冷めている眼が俺を捉えてくる。
「そんなに緊張せずとも、取って食おうなんて物騒なことはしないよ」
淳蔵さんなりのジョークなのかもしれないけど(ちっともワロエナイ)、食われた方がまだマシっす! 頭からかぶりつかれてお仕舞いならそっちがいい!
何も返せない俺を面白そうに笑いプレジデントチェアに凭れる淳蔵さんは、「君に教えたことはなんだったかな?」早速話題を振ってきた。緊張ですっかり顎が重くなっているけど、気合で動かし、今度こそ言葉を返した。「御堂家の糧になることです」と。
そうだね、淳蔵さんはよくできましたと一笑を零す。
「では次の質問。私は君に糧になるよう、どうしろと言ったかな?」
「御堂家のために……、生きて、死ぬよう言われました」
口の中がパサパサしてきた。
「正解だ。なのに君は反した行為を起こしてくれたね。残念だよ、もう少し物分りの良い子だと思っていたのだけれど」
いや、アータの命じたことは無茶苦茶だったっすよ!
財閥のデータを盗めだの、肉体関係を持てだの、浮気しろだのっ、例え物分りが良い子でも目をひん剥くと思うんですけど!
反論したい気持ちは俺の家庭に背負っている借金事情によって嚥下される。
無茶苦茶でも何も言えない。俺に言う権利なんてないんだから。これっぽっちも、さ。
大袈裟に溜息をつく淳蔵さんに身が萎縮してしまう。強張っていく体はこれから先の未来を簡単に予測した。タダじゃ済まされない、と。
「博紀から聞いたね?」
問いに俺は頷く。
多分、婚約式と両親との絶縁とこれからの生活についてだろう。
宜しい、満足げに口角を持ち上げる淳蔵さんは命じたことは絶対だと再認識させてくる。
「絶縁は自身の行為が災いしたと思いなさい。成功していれば、君は今までどおりの生活を送れていたのだから。本当はね、御両親にも責を負ってもらおうと思ったのだけれど」
ビクッと肩が跳ねてしまう。
「さすがに可哀想だと思ってやめたよ。親族になろうと、彼等は財閥とは無縁だからね。しかし、君の行動一つで親不孝をしたのは確か。反省はしなさい」
まるで被害者振るな、と言われているようだ。
「はい」弱弱しく返事する。
例え俺が悪くなくても、此処は肯定の返事をしておかないとこっ酷い目に遭うのは一目瞭然だ。従順になっておくべきだろう。
「あのさ、じいさん。それって空が悪いのか? さっきから聞いていたんだけど、どう聞いてもじいさんが無茶苦茶じゃん!」
背後から飛んできた反論に俺は驚き返る。
慌てて振り返れば、部下の手を振り払ってズンズンとこっちに歩んでくるイチゴくんの姿。
ぎゃぁあああ! イチゴくんがいることっ、すっかり忘れていたよ!
だ、ダメダメダメ! 幾ら台風の子ICHIGOでも、コードネームが三河屋でも、マイペースと異名を持つ男でも、淳蔵さんの前で生意気な口を聞いたら命が無い!
「おっかしいじゃんかよ!」俺の隣に立ってビシッと相手を人指差すイチゴくんに、「淳蔵さまの悪口は噤んで!」と注意する。
知るかと鼻を鳴らすイチゴくんは、俺は財閥の人間じゃないし、と得意げに親指を立てた。グッジョブじゃないからね、イチゴくん!
あたふたする俺を余所に淳蔵さんは意外にも笑声を零してきた。
ギョッと驚いてしまう。え、まさか、今のを笑って許してくれた……カンジ?
「君か。あの博紀の手を煩わせている少年というのは。昨日は随分暴れ回ってくれたみたいだね。名前は確か花畑翼。花畑丈弘と笑子との間に生まれた長男で一人息子だったね。母親の旧姓は鰺坂と少々変わっていたとか。豊福くんとは隣人関係だったことも聞いている。君達は随分仲が良いようだね」
ギョギョッと心臓を飛び上がらせてしまう。
なんで淳蔵さんがイチゴくん家族の個人情報を……、財閥の人間って一々情報網が長けているというか、広いというか、それが怖いというか。まさか一晩で調べさせた?
さすがのイチゴくんも自分の家の個人情報を調べ上げられていることに驚きを隠せないようだ。目が真ん丸お月様になっている。
その表情に一本取ったとばかりに目を細め、「大半のことは分かっているんだ」調べる時間は要さなかったと淳蔵さんは意味深に頬を崩した。嫌な、予感が、絶頂に達する。
「豊福くん。今度は自分の人生でなく、誰かの人生を潰してしまうかもしれないよ?」
刹那、がくんとイチゴくんの膝が折れた。
「イチゴくん!」俺も両膝を折って後頭部を押えている友達に声を掛ける。
「だ、いじょうぶ」後ろからド突かれただけだと呻く彼はなんてことないと強がりを見せてきた。
犯人はイチゴくんを見張っていた部下の人。軽く手を振っている様子が見受けられた。
「高校は義務教育ではないからね。彼が一ヶ月も学校に通えなかったら、君でも分かるだろ? 留年ならマシだろうね」
肝が冷えると同時に、イチゴくんが部下の人の手によって無理やり立たされた。
「あっ!」何をするんですか! 慌てて手を伸ばすけど、移動させられる友人の指を掠めただけ。
急いで立ち上がり後を追う。
けど博紀さんの腕が俺の体を拘束してきた。放してくれと暴れるけど効果はなし。振り払うことがどうしてもできない。その間にもイチゴくんは大きな大きな窓辺に立たされた。胸倉を掴まれて、ガラス板に背中を押し付けられる姿は俺をより焦らせる。
「12階から落ちたら、さぞ痛いだろうね」
他人事のように淳蔵さんがおどけた。
ちっとも笑えない俺は、「まさか」最悪の事態を想像してしまい、生唾を飲んでデスクに視線を流す。
「まさか」大袈裟に肩を竦める淳蔵さんは、此処の窓は開かないから安心しろと告げてきた。
「ただね。君次第で彼は12階から落ちるような人生を歩むかもしれない。それもさぞ痛いだろうね、精神的に」
言葉には確かな重みを感じられた。
「いッ、イチゴくんは財閥とは無関係の人間です!」
「ああ、そうだね。でも君と関わりを持っている人間ではある。無関係とは言い切れないだろう?」
悪意ある微笑み俺は挫折したくなった。
この人は次から次に、人の大切なものを盾にとって命じる人間なんだな。
そうやって財閥を盛り上げていった人間なのだと、財閥に片足を突っ込んでいる駆け出しの俺でも容易に想像がついた。だからこの人は恐れられているのか、財閥界から。
「俺は何を、すればいいんですか?」
項垂れて相手に尋ねる。
「そらっ……」駄目だと声を振り絞ってくるイチゴくんは次の瞬間、また苦しそうに声を上げた。胸倉を掴まれていることで呼吸をじわじわと止められているんじゃ……、恐怖が込み上げてきた。
「今度こそできると約束できるかい?」
私はあまり、君に信用を置いていないんだよ。
淳蔵さんは意地の悪いことを物申してくる。
「もし約束できるなら、その証明としてこれを飲んでみてくれないか?」
デスクの上に小さな小瓶が置かれる。
茶色い小瓶は何やら妖しい臭いがむんむん漂ってくるんだけど。
ナニコレ、まさか毒とか言うんじゃ「毒だよ」
ポイズン?
えぇええええっ、嘘だろ?!
俺に死ねと言うんっすか! 一応アータの命令で婚約を控えた身の上なんっすけど!
博紀さんの腕から抜け出し、淳蔵さんの前に立つ。おずおず小瓶を手に取り、相手をチラ見。ニッコリニコニコ顔が威圧感を感じさせる。
「あの……、毒、なんですよね?」
「怖いかい? 大丈夫、死にはしないから。私が可愛い孫と思っている君を殺すわけないだろ?」
いやでも、たった今、毒って言いましたよね。これ。
可愛いと思ってくれるなら、普通毒なんて渡さないっすよね?!
「ちょっと試すだけさ。なあにちょっと眩暈を起こしたり、刺すような痛みが襲ったり、吐き気を起こすだけだから」
ははっ、≪それだけ≫でも大層なことっすよ。
痛みや眩暈、吐き気って相当じゃないっすか? それを俺に煽れと? ご冗談を。
「会長。まさかあれは……、さすがに不味いですよ。空さまは未成年ですよ。免疫など皆無に等しいかと」
「ふふっ、安心しなさい。微量だ」
「空っ……、まじやめとけって! 何が起きるかッ、分からないぞ!」
「ふふっ。向こうの少年はとても威勢が良いね。けれど少年、君の行いで家庭が崩壊するかもしれないんだ。静かにしておきたまえ」
「なッ……、ざけんな金持ち! 金があるからって勝手に人の家庭に……、手を出すなんてっ、極悪非道極まりないぞ!」
焦った声音が宿っている。
イチゴくん自身も淳蔵さんの恐ろしさがじわりじわりと伝わってきたのかもしれない。
「大丈夫」俺は人質に返した。そんなことはさせないから、意気込んで小瓶の蓋を開ける。死にはしないだろう、死には。何が起きるか分からないけど、イチゴくんは俺を助けるために走ってきてくれた。支えてもくれた。励ましてもくれた。
なら、俺も彼のためにできることはしよう。どうせ今此処で毒を拒んでも、イチゴくんと俺に更なる悪い条件が押し付けられるだけだ。
それならいっちょ、
「まっ、そ、そら! 飲むなッ、飲むなって―――!」
味わう前にごくりと液体を嚥下。
「の、飲んじまった」空のバカヤロウ。死んじまったらどうするんだよ。頼りないイチゴくんの声を耳にしつつ、俺は大きく咳き込んだ。
持っていた小瓶を落としてしまう。
どろっとした液体が喉が焼く。その感覚は灼熱そのもの。刺すような刺激と共に口の中の水分が一気に蒸発した。
時間差で平衡感覚を失う。
「そ、空!」やばいか! まじやばいか! なら吐けよ! イチゴくんの怒号すら今は遠い。とにかくやばいのなんのって、なにこれ、世界が回っているんだけど。回る、世界が、まわって。
かくんと両膝が折れる。
目の前に淳蔵さんがいるとか、そんなの気にしている余裕はない。その場に崩れてしまう。
イチゴくんの悲鳴が遠い。状況判断ができない。世界がただただ回っている。俺も回っている。誰も彼もが回っている。
忙しなく肩を上下に動かして天井を見つめていると、「空さま」颯爽と俺の隣に膝をつき、体を抱き起こしてくれた。
多分、中身を知っていたのだろう。溜息をつき、言わんこっちゃないと眉根を寄せる。部下に水を持ってくるよう指示して、「会長。悪趣味ですよ」博紀さんが憮然と意見した。
「空さまにスピリタスを盛ったでしょう? 以前も同じようなことをしてらっしゃいましたし」
「可愛い試練だろ?」ウィンクする淳蔵さんは悪魔極まりない。現世の閻魔大王かも。
「スピリタス? なんだよそれッ!」
まだ俺の身を心配してくれるイチゴくんが答えろと言わんばかりに焚きついている。
「お酒だよ」博紀さんが簡潔に答えた。ただし世界で一番強い酒と称されるもので、アルコール度数は90度を超えるとか。世界最高純度のスピリッツらしく、煙草と一緒にこれを飲もうとすればボンッ! 発火してしまう大変危険なお酒らしい。
飲み方を間違えなければ美味しく頂けるものの、ストレート一気飲みは危険も危険。急性アルコール中毒になりかねない。
「そ、んな」じゃあ空は……、青褪めるイチゴくんに、「さすがに生では飲ませんよ」死なれたら困るからね、淳蔵さんが笑声を零す。
「スピリタスは微量も微量。他の酒と混ぜている上に、飲ませた量は少ない。急性アルコール中毒にはならないさ。まあ、極端に免疫がなければ死ぬかもしれないが」
「ざ、ざけるなよじいさん!」
「極論を述べただけだよ花畑くん。彼は死にはしない。此方も気は遣っているからね。口腔の水分が飛んでいるから、少しの間、声すら発せられないだろうが」
博紀さんが水の入ったペットボトルを口元に運んできてくれた。
ゆっくり飲むよう指示される。スピリタスの威力は半端なく、俺は少量ずつしか水を飲むことができなかった。声を掛けられても返す気力は湧かない。ただでさえ酒に免疫のない未成年だ。
そこに世界最強の酒を盛られたら、言われなくても撃沈してしまう。胃がものすっごく痛くなってきたし。
良い子のみんなはスピリタスを正しく飲むんだぞ! 間違っても俺のような飲み方はしちゃいけない!
ぐったりと頭を垂らして宙を見つめていると、「君の誠意は認めてあげよう」以後、私には逆らわないよう肝に銘じておきなさい。淳蔵さんが愉快気に命令してきた。
「改めて言うよ。今度こそ君は御堂家の人間として糧になってもらう。君は正式な御堂家の人間になる婚約式まで謹慎処分だ。
いいね? 逃走をはかろうとしたり、此方が許可していない外部の人間と接触するのは禁ずる。酒による痛みは私の命を聞けなかった罰だと思いなさい。彼は婚約式が終わるまで此方で身を預かることにしよう。なあに一週間くらいなら言い訳もきくだろ?」
ゆらゆらぐらぐらする頭で理解はできたけれど、返事はできなかった。そんな余裕、これっぽっちも出ない。
「さてと花畑くん。君の持っている通信機器を今此処に出しなさい。携帯を隠し持っていることは知っているんだよ」
でなければ、君の友達がまた毒を盛られるよ。つらい思いをするかもね。
今度は脅しの標的をイチゴくんに定めた。
淳蔵さんはイチゴくんのすべてを見通しているようだ。幾ら悪知恵を持っていようと、この人の前じゃ通用しない。それが分かったのか、「チッ」彼は舌打ちを鳴らして隠し持っていた携帯はスラックスの尻ポケットにあると拘束している部下の人に言う。ぞんざいにポケットから抜き取られ、敷き詰められている絨毯の上に放られる。
これで本当に連絡手段が絶たれてしまった。
「良い子だね」従順に言うことを聞く人間の姿を見ることに快楽を覚えているのか、淳蔵さんは恍惚に目を細めた。誰も逆らえない支配者の顔だった。




