02.「空さまは不潔です!」
食事後、御堂先輩が先に風呂に入っている間、俺は縁側で夜風と戯れる。
夜空を仰げば昇る月がぽっかり欠けていた。
嗚呼、今日は三日月なんだな、と柄にもなく感傷に浸る。庭園を眺めながら、御堂先輩があがってくるまで暇を弄ばせていると「お風邪を引きますよ」と声を掛けられた。
視線を持ち上げれば、数メートル先にさと子ちゃんが立っている。肌が青白く見えるのは月光のせいだろう。
物言いたげな面持ちを作っているさと子ちゃんに微笑を返し、「好きなんだ。此処」俺は返事する。
縁側から庭園を一望する。この時間が大好きだった。風邪を引いても、きっと俺はこの行為をやめないと思う。
「お風邪を引いても知りませんよ」
言葉に茨を巻いて俺に歩み寄ってくるさと子ちゃんが、こっちを見下ろしてくる。
「どうしたの?」俺に用があるんじゃない? 先手を打って相手の出方を窺うことにした。気付かない振りをしてもいいけど、眼がずっと何かを主張しているんだ。
なんか超気になるじゃん?
距離を置いていることに関してはなにも聞かないけど、今、彼女がその眼で訴えている心情については聞いても良い気がした。口を一文字に結んでいたさと子ちゃんは小さな吐息をつき、「空さまはお嬢様のこと」ちゃんと好きですか? と突拍子も無いことを聞いてくる。
「勿論だよ」即答しても信用されていないみたい。飛ばしてくる視線の眼光が鋭くばかりだ。
やけに硬い表情を作るさと子ちゃんを見つめ返し、「どうしてそんなことを聞くの?」俺は静かに質問した。
夜風が木々の葉を揺らし、小さな演奏会を始める。
心地良い風とその温度に身を委ねながら相手の返事を待っていると、「気になっただけです」素っ気無く返された。さと子ちゃんらしからぬ態度だ。怒っているようにも取れる。
「そう?」ならいいんだけど、俺は視線を戻した。満目一杯に広がるのは静寂を保ちつつも厳かな空気を取り持つ庭園。
「静かだね。こういう静かな空気、俺は嫌いじゃないや。なんか落ち着く」
「はい、そうですね」
ゼンッゼン同調を示してくれない声音だ。ほんと何を怒ってらっしゃるのだろう?
「さっきの答えじゃ、不満みたいだね」
ストレートに物申すと、さと子ちゃんが肯定の返事をくれた。
ナニが不満なのか分からないけど、だったらこう返そうか。俺にとって御堂先輩は守りたい人、だと。
「嘘です」ばっさり斬り捨てられた。ありゃ、俺の言葉の何処に嘘があったんでっしゃろう?
「空さま。嘘をついてます。お嬢様があんなになってお慕いしているのに、空さまはそんなこと、思ってらっしゃらない。確かに空さまには守るべき理由があるようですが」
ちょっと待って。守るべき理由? 俺はさと子ちゃんの言葉を制す。
「なんで理由があるって思ったの?」
追究すると彼女が黙ってしまった。
間を置いて、俺は察してしまう。そうか、彼女は俺がなんで婚約者になったのかの理由を知ってしまったんだなって。庶民出身でありながら、どうして御堂家に嫁ぐことが出来たのか、その理由を知ってしまったんだ。
「借金のこと、知ったんだね」
やけに抑揚のない声になってしまった。
相手の体が微動したけど、「空さまはお金のために」だからあんなにお嬢様と親しげにっ……、そこにお心はあるのかと声音を張ってきた。
「あるよ」当然の如くイエスと言うけど、「嘘です!」貴方のしていることは偽善であり、自己満足。お慕いしているお嬢様のお心を踏み躙っています。彼女は感情的に物申した。
「お心があるなら、どうして、お嬢様を裏切るッ。裏切るようなことを快諾したのですかッ。不潔です!」
最低だと言わんばかりに毒言して、さと子ちゃんが逃げるように去って行く。
夜風に頬を撫でてもらいながら俺は彼女の言葉を反芻した。
不潔、か。
それってさと子ちゃん、俺が裏で何をしようとしているか知っているってことだよね? 裏切るなんてわざわざ使ってくれたってことは、つまり、そういうことだよね?
弱ったな。
なんでさと子ちゃん、俺がしようとしていることを知っているの?
もしかして会話を聞いていた? それならこれまでの彼女の行動も合致する。
いやはや浮気男大ピンチですな。
さと子ちゃんが周囲に言いふらすとは思えないけど、事が知れたら、御堂先輩や御両親に殺されかねない。
―――…罵られても構わない。最低な男だと言われても構わない。俺は俺が可愛いし、自分の両親が大好きだ。御堂家の皆さんも優しくて大好きだ。御堂家のためにできることならなんだってするよ。
それが御堂家のためなら、例え誰を傷付けても。誰を傷付けてでも。
「豊福。また此処で涼んでいたのかい? 好きだな」
今暫く夜風に当たっていると、風呂からあがってきた御堂先輩に話しかけられた。
ほっかほか体から湯気を出している御堂先輩に笑みを向ける。
しょうがないじゃないっすか。
此処は本当に気持ちが良くて好きなんっすよ。いつまでも此処にいたいくらい、縁側は景色が良いんっす。
「あ。また」
髪を濡らしたままあがって来て、俺が注意すると拭いてもらいに来たのだと当然の如く王子がのたまう。
俺は貴方の執事っすか。呆れながら王子にちゃんちゃんするよう指示。幼児言葉にも彼女は笑い、持っていたタオルを俺に放って隣に腰を下ろす。
わっしゃわしゃ。わっしゃわしゃ。
水分を含んだ短髪をタオルで綺麗に拭い始めると、気持ち良さそうに御堂先輩が目を細めた。そのイケた表情が蕩ける姿は見ていて飽きない。
「ドライヤーを持ってきた方がいいかもっすね。場所移動しましょうか?」
「いい。夜風で乾かすから」
「湯冷めしますよ」
「風邪を引いたら豊福が面倒看てくれるだろ?」
自己管理も畜生もなってない王子に苦笑いして、「いいっすよ」風邪を引いたらどーぞ俺のせいにして下さい、おどけて肩を竦めた。
うんと頷く薄情なプリンセスは頃合を見計らって俺の膝に寝転がった。
その姿は甘えたな猫だ。絶対御堂先輩って動物に例えると猫だよな。何猫だろ。ロシアンブルーかシャムネコ?
ほのかに湿った髪を梳き、「髪が跳ねますよ」と注意を促す。
どうでもいいとそっぽ向くところが猫なんだよな。勝手気ままなお猫さまだこと。
分かりきっていた答えに笑声を漏らし、俺は彼女に視線を落とす。
端整な顔つきだな。見れば見るほど、本当に端整。何処となく純日本人じゃない顔立ちだ。クオーターだって言われたら納得する美人さん。それが俺の婚約者。幸せ者なんだろうな、俺。
「勝負まであと八日だな」
八日後には君が抱けるのかな、セクハラじみた発言に俺は笑みを深めた。
「先輩はそればっかりっす。もっと他に言うことないんっすか?」
「んーっ、そうは言ってもな。豊福の体が僕を誘ってくる」
まじか。それって具体的にどんな感じっすか? 参考にしたいっす。
なんたって今日の俺のお誘い、鈴理先輩には酷評されちまったんっすから!
口から出そうになった言葉を嚥下し、彼女の額に手を置く。
欠伸を噛み締める彼女はお疲れらしい。
「神城ともう共演したくない」
愚痴を零して瞼を下ろしてしまう。綺麗な瞳が瞼の裏に消えるのは残念に思えた。
「でも演劇は好きなんでしょう? また俺に舞台を見せてくださいよ。本当に素敵でした。貴方の舞台。今度は招待して下さいよ?」
「ああ、今度は必ず招待するさ。豊福も演劇部に入ればいいのに」
「俺のところにも確かに演劇部はありますけど、勉強の時間は割きたくないんっすよ。それに棒読みになってしまいますから」
演技力皆無っす。
大袈裟に顔を顰めるけど相手には伝わっていないだろう。瞼を閉じているのだから。
けれど声音で俺がどういう表情をしているのか、分かっているに違いない。軽く笑声を零していた。そんな彼女がちょっと可愛くて、俺は目を細める。
「先輩。俺は幸せです」
「急にどうしたんだい?」
「時々ふと思うんっすよ。もしあの時、御堂家の人々が手を差し伸べてくれなかったら、俺達はどうなっていたんだろう? と。未来も希望もなく、淡々と生きていたんでしょうね。俺は幸せ者です。これからも幸せを噛み締めていたい、そう切に思う我が儘な俺がいるんです」
「誰もが抱く我が儘だと思うよ。豊福」
きっとこれからも幸せでありたい、そのために君も僕も努力していくだろう。それが人間なんだ。
「僕は今、ほんの少しだけ」女であることに幸せを噛み締めているよ。君を好きになれたからね、ウィンクしてくるキザ王子が一笑を零した。人の膝で喉を鳴らしてごろごろ甘えてくる彼女の髪を撫ぜていると、次第次第に向こうの動きが鈍くなる。
眠くなったのだろう。うとうと、うとうとと夢路を歩く御堂先輩に綻んで俺はそっと前髪を払った。
しっかりと相手の寝顔を目に焼き付ける。
俺はあと何回、この無垢な寝顔を見られるんだろう? 貴方を裏切ってしまう、俺はあとどれくらい側にいられるんだろう? 明日、あさって? それともこれから先ずっと一緒にいてくれる?
これから起こす真実を知っても貴方はずっと一緒にいてくれるかな?
さと子ちゃんの言うように、俺は偽善を振舞っている。
その心を裏切る。まさにそのとおりだろう。
「先輩。今宵の月は一段と綺麗ですね」
それでも俺にとって貴方は大切な守るべき人。俺達を救ってくれた恩人。なにより、守りたいと約束した人。
「御堂先輩。貴方の未来は必ず、守りますよ。必ず」
すべてを失くしても後悔はしない、後悔だけは。




