02.草食、デートに誘ってみる
フライト兄弟の痛烈な裏切り発言からどうにかこうにか立ち直った俺は(二人がジュースを一本ずつ奢ってくれるって言ったからそれで許した)、どうやって先輩をデートに誘おうか悩んでいた。
まずは「一緒に帰りましょう」と話を切り出すところから事は始まるんだけど、先輩、ああ見えて多忙なんだ。財閥の令嬢だからなのか習い事が多くて、学校が終わるとさっさ帰って行くことが多い。車で送り迎えされているみたいで、時間になると正門に高級車が停まっていたりする。
しかも何台か高級車が正門に停まっていたりもするんだ。あれが邪魔だと思うのは俺だけじゃないだろう。
まあ、エレガンス学院は元々お金持ち校だからな。
先輩の他にも令息令嬢がいるんだ。皆、習い事だったり何だったりで時間が押しているんだと思う。大変だよな、お金持ちの娘・息子ってのも。ってなわけで俺は先輩を本当に誘って良いのか迷っていた。
うーん、俺の悪い癖だよな。行動もせずにあれこれ考えちまうの。
でも、やっぱり考えちまうんだよな。向こうが迷惑に思うんじゃないかとか、今日は忙しいんじゃないかとか。今日じゃなくても良いんだけど……もしも先輩が喜んでくれるなら……な? 俺だって学校生活以外で先輩と過ごしてみたいと思うし。駄目元で誘ってみよう。
決心した俺は放課後、先輩がいるであろう二年F組に足を運ぶことにした。
しかし、それには及ばなかった。
俺が教室を出る前に鈴理先輩の方が早くSHRが終わったらしく、教室に足を運んできてくれたんだ。手招きしてくる先輩の元に急いで駆け寄ると、先輩は俺を廊下に連れ出し、笑顔で俺の目の前に一冊のノートを取り出した。何の変哲も無いただのノート。裏面だけど鼻高々にノートを見せ付けてくれる。
どうしたんだろう、先輩。そんなに目を輝かせて。首を傾げる俺に対し、彼女は大興奮で語り始めた。若干早口なりながら。
「空、これを見ろ! 早苗と百合子があたしのために小説を書いてくれたんだ!」
「川島先輩と宇津木先輩が?」
「攻め女の小説がないと嘆いていたあたしのために、二人が書いてくれたんだ! どちらも読書をする方ではないのだが、無論、話を書く方でもないのだが、読んでみると素晴らしい世界が詰まっていた! 嗚呼、これこそあたしの求めている攻め女小説!」
大はしゃぎしている鈴理先輩はまんま子供だ。
そういえば鈴理先輩、女がリードするような小説が無いって言っていたな。読んでみろとばかりに差し出されたノートを受け取り、俺は興奮している先輩を落ち着かせながら中身を開く。
「良かったっすね。でもどういう小説なんー……」
“鈴理は恥らう空の顎に指を掛け、不敵な笑みを浮かべながら耳元で囁いた。”
俺はにこやかに、一旦ノートを閉じた。うん、今のはァ目の錯覚だァ。そう目の錯覚。今の一文、何も見ていない。読んでいない。理解していない。
動揺している気持ちを抑え、俺は再びノートを開いた。
“「好きにしていいって言った言葉に二言は?」”
“「ないっす。男に二言はないっす……だけど、不安もあるっす。鈴理先輩」”
“空の震える声に鈴理は気持ちを高揚させながら、彼の身を押し倒した。しごく強張っている体は緊張しているよう。それがまた鈴理の興奮を煽るのだ。”
も、もしかしなくてもこれは、お……、俺と……先輩の小説なんじゃ。
わりと最近よく見掛ける空という名前は多いとして、鈴理って名前はそう見掛けない。「―っす」この口調は、まんま俺じゃないか!
俺は恐る恐るノートを閉じて表表紙に目を向けた。
『お嬢様と貧乏少年の恋①』と書かれている。目の前が真っ白になりそうだった。
嗚呼、なんて小説の俺、女々しいんだ。こんなにも俺は女々しい風に見られていたのだろうか。
だったら俺、本当にモロッコに行った方がいいのかもしれない。性転換手術受けて、女になってきた方がいいかもしれない。くらっとよろめいて壁に手を付く俺に対し、鈴理先輩はキャイキャイとはしゃぎながら「まだ連載中なんだ!」嬉々と説明してくれる。
「二人がリレーしながら小説を書いていたのは知っていたのだが、まさかこんな素敵な小説をプレゼントしてくれるとは! ①は丁度良いところで終わっているんだ。空とあたしが初エッチをし、濃厚な夜を過ごすところで! いやぁなかなか初ながら凄まじいものだった」
「嗚呼、小説の俺。食われちまったんだ。ドンマイ、小説の俺」
現実の俺は簡単には食われないからな。食われないよう逃げてみせるからな。
「読んでみるか? 空、可愛らしかったぞ。あたしもなかなかの鬼畜っぷり。早く実現したいものだ」
想像するのも恐ろしいよい、実現なんてもっと恐ろしいよい、鈴理先輩。
俺は引き攣り笑いを浮かべながら遠慮した。『ご』を語頭に付けて遠慮させてもらった。何が悲しくてヤられている俺を読まなきゃならないんだ。許可が下りるならこのノート捨ててしまいたいんだけど。
でもそれじゃ先輩を悲しませるから、ここはグッと堪えてノートを返す。
「よ、良かったっすね。小説書いて貰えて。ただ……俺と鈴理先輩ってのがちょっと」
「嬉しいだろ!」
「ええ。(悲しくて)涙が出るほど」
「ふふっ、あたしも凄く嬉しいんだ。友がこんなプレゼントをしてくれるなんて。これは家宝にしようと思う。そして早く実現したい。空があたしの下で鳴いてくれるその日を」
恍惚に妄想していらっしゃる鈴理先輩に身の危険を感じる。感じちまう。
身震いをして二の腕を擦っていると、俺の視界の端にフライト兄弟が。チラチラッとそっちに目を向ければ、廊下を歩いているフライト兄弟が鈴理先輩を指差している。動作で分かる。デートに誘えとあいつ等は言っているんだ。酷いことは言っても応援はしてくれているんだよな。
よし、誘うぞ。駄目元でも誘ってみよう。一緒に帰りましょう、と。んでもってデートに誘ってみるんだ。少しは押しを見せて好意を返さないと、本当に男が廃れる。小さく深呼吸をして俺は妄想に浸っているであろう鈴理先輩に声を掛けた。なんか緊張してきたぞ!
「あ、あの鈴理先輩!」
「ん? どうした空」
「いえ、その」
肝心なところで尻込みする俺のドヘタレチクショウ。
いやいや、ここで引くわけにはいかない。俺も一端の男。モロッコで性転換手術を受けるわけにはいかないのだ。気持ちを引き締めて先輩に言った。
「きょ、今日空いていませんか? 空いているなら一緒に「そーら!」
言い終わらないうちに先輩が飛びついてきた。反射的に俺は体を受け止める。
よ、予想外の展開っす。何事っすか。あたふたと慌てる俺を余所に鈴理先輩がニヤリと笑いながら、俺の顎に指を掛けてきた。
げっ、この見慣れ過ぎたヤーな展開は。腰に手を掛けてくるんだよな、この後。あはは、ほら、腰に手を掛けてグイッと引かれた。俺も慣れちまったな、この展開……いやいやいや、慣れちゃいかんでしょ。この展開!
着実に俺は女のポジションを固定していっているぞ! 慣れって恐ぇよ!
「先輩!」慌てる俺に細く笑う鈴理先輩はフフンと不敵に笑った。
「まさか空から誘いがあるとは。んんん? 先にシてる小説に嫉妬したか?」
「ち、違います。誘おうとしている意味を履き違えないで下さい。お、俺は一緒に帰ろうとお誘いを」
「やっぱり誘いか! 空も誘いという行為を覚えたか。しかし何処でそんな誘いという行為を覚えた? ……あたしの見ていないところで」
俺の鋭いツッコミに鈴理先輩はバレたかと一笑。
やっぱりワザとだったらしい。でも多少本気だったらしく、残念だというぼやきが聞こえた。何を俺に期待しているんっすか、鈴理先輩。引き攣り笑いを浮かべている俺を余所に鈴理先輩は誘いの返事を返してくれた。一緒に帰ろう、と。
思いのほか、その笑顔が無垢だったから俺も素直に照れ笑い。
良かった、一緒に帰れるんだ。鈴理先輩と。
あ、でも先輩の送り迎えは車だよな。当たり前だけど俺は徒歩だしな。先輩は徒歩で大丈夫かな。デートできるかなぁ。
俺は疑問を抱きながら先輩と校舎を出た。
その間、フライト兄弟に「やったな!」とばかりに親指を立てられた。本人達が俺達のやり取りをどう見ていたのか分からないけど、俺は二人に軽く手を振った。応援してくれてありがとうの気持ちを籠めて。
なんかこのやり取りが女子くさいと思ったのはその直後のことだったけど。
上履きから下靴に履き替えて鈴理先輩と和気藹々話しながら正門に向かう。
このまま何事も無く帰れる。当たり前のようにそう思っていたら、「ちょっと待ちたまえ」「幸せそうな顔しているんじゃねえぞ!」悪態を付かれた。
妙に聞き覚えのある声。嫌々声のした方を見ると先日一悶着起こしてくれた親衛隊の隊長と副隊長が腕を組んで仁王立ちしていた。
相変わらず『I Love Suzuri !!』鉢巻を巻いている二人が痛い。痛いぞ。
「またお前等か」
溜息をつく鈴理先輩に二人は鬱陶しがられたと胸キュンしている。
何かこいつ等……鈴理先輩に何されても喜ぶんじゃねーの? 奴等がMだからとかそんなの関係ない気がする。
動悸を抑えつつ副隊長の高間先輩が俺にガンを飛ばしてきた。んでもってビシッと指差してくる。
「一年C組豊福空! お前、鈴理さまと一緒に帰ろうなんて身の程を知れ!」
「鈴理さんと一緒に帰りたくば、親衛隊を踏み越えていけ!」
おいおいおい。
『鈴理さま見守り隊』に改名したんだろ、あんた等。俺と先輩の関係には口出ししない。そう鈴理先輩から約束させられたんだろ。
なんで口出ししてくるかなぁ。そりゃこれからも関わっていくとは宣言されたけどさ。こんなにも早く関わりを持つとは思わなかったぞ。溜息をつく俺に対し、鈴理先輩は思案するように自分の顎に指を掛けて一つ頷く。
「あんた等を踏み越えていけばいいのだな?」
途端に隊長と副隊長の息遣いが荒くなった。うっわぁ、鈴理先輩に踏まれたいんだな。お前等!
「良かろう」鈴理先輩は意地の悪い笑みを浮かべた。
ちょ、鈴理先輩。先輩が手を出すと二人とも大喜びしちゃうって。こういうのはシカトするのが一番だと思うんだけど。
「あの先輩」そっと先輩に声を掛ける。俺の呼び掛けを無視した先輩は指を鳴らした。
すると正門から凄まじいスピードで駆けてくる老婆がひとり。
あれが妖怪砂かけ婆……じゃない、先輩の教育係、お松さんだ。
どう見ても老婆が出す速度じゃない。言っちゃなんだけど、あの速度を出せるお松さんはちっと恐い。都市伝説になりそうなほど恐い。
「お呼びでしょうか?」お松さんがサッと先輩の前に立つ。
「相手をしてやれ」鈴理先輩が親衛隊隊長と副隊長を親指で指す。
「どうも弄られたいらしいからな。ばあや、手間を掛けさせてしまうがあいつ等を頼む。お前の迎えは別に出すから」
「かしこまりました。それでは遠慮なく」
ジロッとお松さんが二人に視線を投げ掛ける。
さすがに身の危険を感じたのか、二人は後退り。その隙に先輩は俺の手を引き正門に向かって歩き出す。鈴理先輩も考えたな。お松さんに成敗させるなんて。自分が手を出しても喜ぶだけだと学習したんだろう。
「ババアに痛めつけられても嬉しくない!」
「鈴理さん! 是非とも貴方に踏まれたい!」
二人の悲鳴を聞いた俺は心中で合掌。
これを機に少しは大人しくなってくれよ、鈴理さまお守り隊。あ、違った。鈴理さま見守り隊。
さて、こうして俺は無事に鈴理先輩と帰ることになったんだ。
けど俺の想像していた帰宅光景じゃなかった。個人的には徒歩で帰るイメージが強かったんだけど、なんでか俺は鈴理先輩の送り迎えされている車の後部座席に座っている。家近くまで送ってくれるんだって。それは嬉しいんだけどさ。
座席とかフカフカで乗り心地いいし、車内はそんなに揺れないし、三十分以上掛けて歩いているから家近くまで送ってくれるとスッゴイ楽なんだけど……あっれー? 一緒に帰ろうってこういう意味じゃ無かったんだけどな。車に乗っちゃデートもできねぇや。
なーんでこうなっちまうんだ。
しかもさ、
「鈴理お嬢さま。豊福さまをお送りしましたら、英会話教室に直行しても宜しいでしょうか?」
「ああ。五時からだろ? 直行すればギリギリ間に合う」
運転手の問い掛けに鈴理先輩は小さく頷いていた。どうやら今日は習い事があったらしい。無理して乗せてもらった感がするんだけど。
「すみません」俺は詫びを口にした後、鈴理先輩に送ってもらっても大丈夫だったのかを尋ねる。何なら今から降りてもいいんだ。だいぶん車で走ってもらったし、いつもよりも随分楽ができた。此処で降ろしてもらって、先輩には気兼ねなく習い事に行ってもらいたい。
そしたら鈴理先輩が不機嫌面を作った。ムスッと腕を組み、「空はあたしと一緒にいたくないのか?」と脹れている。
勿論そういう意味じゃない。一緒に帰りましょうって誘ったのは俺からだし、さ。
ただ、なあ? 御多忙の身の上だっていうのに、こんなことしてもらって申し訳ないというか何というか。
ぶすくれている鈴理先輩にそう言うんだけど、先輩はますます脹れる。仕舞いには「調教が必要か?」なんて物騒なことを言う始末。
も……もっと機嫌を損ねさせちまった。どうしよう。どうすりゃ機嫌が直るのかな。
ホトホト困っていると運転席から笑声が聞こえてきた。
「豊福さま。鈴理お嬢さまはお誘いを頂いて、とても嬉しいのですよ」
助け舟を出してきてくれたのは、バックミラー越しに俺等の様子を微笑ましそうに見ている中年男性。
ハンドルを握って運転席に腰掛けているのは運転手の田中さん。とても人柄の良さの良さそうな中年男性だ。パッと見、父さんとあんまり年齢が代わらないんじゃないかな。田中さんは左にハンドルを切りながら、先輩から俺の話をよく聴いていると綻んでくる。
「お嬢さまは本当に豊福さまを好いておいでですよ。行きも帰りも貴方様のお話ばかり。少々不謹慎な発言はございますが、それも若気の至りかと思いながら微笑ましく見守っております」
ふ、不謹慎。先輩、田中さんに何を話しているっすか。
俺、(不本意ながらも)先輩と不謹慎なことばかりしているから……何を話されているのか超不安なんだけど。あれかな? これかな? 心当たりのある不謹慎なことを色々想像しちまうんだけど。
「豊福さま。お嬢さまは時間を割いてでも、豊福さまのお傍にいたいのですよ」
ニッコリとミラー越しに微笑まれた。
チラッと俺は鈴理先輩の方を見やる。ツーンとそっぽ向いて脹れている鈴理先輩だけど、座る間隔を詰めてピタッと密着してくる。
ちょっと、嘘、だいぶんドキドキしてきた。先輩に想われて嬉しくないわけない。素直に嬉しいと思える。
「実は」俺は怒っている先輩に白状する。一緒に帰るってのは口実で、本当はデートに誘おうとしていたんだって。
「でも、こんなことならちゃんと先輩に最初っから相談しておけば良かったっす」
頬を掻きながら照れ隠し。
ま、まあ……想像していた帰宅光景は違えど一緒に帰れるんだもんな。前向きに考えないと……ン? なんか太ももに違和感が。俺は目線を下げる。そこにはお触りお触りしている先輩の手が。
あーえーっと。多分、上司にセクハラされているOLさんの気持ちってこんな気持ちなんだろうな。
なんか色々と複雑。気色悪いとかは先輩相手だから思わないんだけど、だからって嬉しいわけでもない。ドキドキもしない、ハラハラもしない、とにかく複雑な気持ちだ。遠目を作ってセクハラを受けている俺を余所に、鈴理先輩は手をそのままにちょっと身を乗り出して運転席の田中さんに告げた。
「田中! 予定変更だ。今すぐラブホに向かえ! 英会話はキャンセルだ!」
「はい。了解……しませんよ! お嬢さま、またそんな無茶苦茶なことを⁈ そのような場所は、お嬢さまの行くべき場所ではございませんから! お連れしたら私の首が飛びます!」
素っ頓狂な声音を上げる田中さんに俺も彼と同じ声音を上げた。
「先輩ィイイイ! 突然何を言い出すんっすかッ! 田中さん困っていますよ!」
「こんな誘いを受けて断る方がどうかしているぞ! 攻め女たるもの受け男の誘いを断るなんて言語道断。道理に反する。それにこれ以降、もう誘いなんて美味しいシチェーション無いのかもしれんのだぞ。何が悲しくて誘いを断って英会話……」
英語で欲が満たされるとは思えないぞ。寧ろ満たされたことが無い。
ガックリ項垂れる先輩の手はまだ俺の太ももをお触りお触りし続けている。
俺はこの場合、どうツッコめばいいのだろうか。
いつまでセクハラしているんっす、とツッコめばいいのか。
俺がいつどこで何をどうしたらそっち系に期待しているのか、とツッコめばいいのか。
取り敢えずセクハラまがいなことをしている手を取って、その手を握ることにした。セクハラ防止対策だ。俺に手を封じられても先輩は抵抗する気配が無い。力なく窓枠に肘を置いてぶすくれた顔を作っている。
「お嬢さま」苦笑いを零し、田中さんは不貞腐れている先輩に諦めてくれるよう説得した。今日のところは大人しく習い事に行って欲しい。日を改めてデートをすればいいじゃないか。
そう説得する田中さんに鈴理先輩は切ないとばかりに溜息をついた。妙に鈴理先輩は物寂しそうだった。
「令嬢というのも楽ではない。拘束されてばかりだ」
「鈴理お嬢さま……」
「父さまや母さまを恨んだことはないが、少しくらい皆と同じように自分の好きにできる時間を持たせてくれても良いじゃないか。折角空がデートに誘おうと思ってくれていたというのに、それを断るしか選択肢が無いなんて」
目に見えるほど鈴理先輩は大きく落胆していた。
貧乏家庭には貧乏家庭なりの事情があるように、金持ち家庭には金持ち家庭なりの事情があるみたいだ。俺はお金が無い代わりに時間があるけど、先輩はお金がある代わりに時間が無い。
デート一つしようとするだけで、ここまで違うんだな、俺等。改めて先輩との身分差を見せ付けられた気がする。
「元気を出して下さい」
そう言葉を掛けた時、田中さんが着いたと俺に声を投げ掛けてきた。窓の向こうに目を向ければ、見慣れた景色が視界に飛び込んでくる。
ブロック塀の囲いにすっぽりと収まった築三十五年の二階建てボロアパート。2DKベランダなし。家賃は四万。俺はあのアパートの二階に住んでいる。
俺が引き取られる前から、親が生涯の住居として身を置いているそうだ。稼ぎが良くなったら、もっといい部屋に住めばいいのに。
俺は巣立ちしたら、暮らしに余裕ができるのだから……いや、そうでもないか。父さん、母さんの収入的に。
車から降りると、名残惜しそうに鈴理先輩も下車。もう少しだけ会話を楽しみたいようだ。繋いだ手がしっかり握りしめてくる。頬を膨らませ、仏頂面に不貞腐れた表情が不覚にも可愛く見えた。まんま子供だ。
「また、な。空」
「はい。今日は送って下さってありがとうございます」
ぶう。まだ先輩は脹れている。
あーあ、どうしようかねぇほんと。
周囲を見渡すと、俺はあたし様の機嫌を取るために勇気を振り絞っておでこにキスをした。現金なお嬢様はそれだけでご満悦。危うく車に引き戻されそうになったけれど(鈴理「やっぱり英会話はキャンセルだ。ラブホへ行くぞ!」)。
「それにしても参ったなぁ」
先輩の乗せた車を見送った俺は小さく溜息をついて家のある方角へと足を動かし始める。
まさかデート一つで四苦八苦するなんてなぁ。先輩を喜ばせるつもりが、俺の配慮足らずであんなに落ち込ませちまった。先輩が多忙なのは知っていたのに。
「今晩にでもLINEで予定のこと聞いてみようかなぁ」
ブツクサ独り言を口にしながら、俺はオンボロアパートの階段を上った。部屋の扉の鍵を開けるために鍵穴に鍵を挿し込む。「ただいま」誰もいない筈の部屋にただいまの挨拶。
すると「おかえりなさい」声が返ってきた。 驚いた俺は早足で部屋に上がる。俺の目に飛び込んできたのは敷布団に身を委ねている母さんの姿。俺が帰って来ると上体を起こし、ニコッと笑顔を向けてくる。
だけど風邪を引いているのか咳が酷い。声もガラガラだ。
「母さん風邪? 声が酷いよ。あ、寝てていいから」
腰を下ろした俺は通学鞄を畳の上に置いた。心なしか母さんの顔が赤い。熱があるみたいだ。
俺の言葉に甘えた母さんは再び布団に沈む。
「ごめんなさいね、空さん。私、風邪を引いてしまって今日は早退してきたの。今晩は裕作さんの帰りが遅いから、空さんに夕飯を頼むことになってしまうけれど」
「謝ることないよ。風邪なんだし……熱高そうだけど大丈夫? 病院には?」
「ただの風邪ですから。これくらい病院に行くほどでもないですよ」
さほど熱も高くはないらしい。
ならいいんだけどさ。母さんすぐに無理するから……あんま父さんにも母さんにも無理はして欲しくない。
俺は母さんのためにお粥でも作り置きしておこうと腰を上げる。卵粥なら母さんも食べれるだろ。
(今日は鈴理先輩とデート……できなくて正解だったかもな。母さんがあの調子なら)
チラッと母さんの方に視線を投げる。
ゲッホゲホと咳き込んでいる母さんは小さく身を丸めている。今日は一日、母さんの看病だな。
その日、俺は一日母さんの看病に明け暮れていた。
おかげでさまで、折角鈴理先輩からLINEが来たんだけど、直ぐには気付けずにいたり……ちゃんと返したけどさ。
だって内容が『明日なら空いている!』とLINEが来たんだ。
もしかしたら無理やり日を空けてくれたのかもしれない。そう思うと俺だって『じゃあ明日に』とLINEを返しちまうだろ。
きっと明日には母さんも元気になるだろうから、デートも出来る筈だ。
今度こそ、さ。




