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04.ひといろの想い



 □




 

「――ッハ、しまった。今日田中さんに送ってもらったから、帰り道が分からない!」



 

 ホテル会場を後にした俺は、大変な危機に直面していた。

 カッコつけてホテルを出たはいいけど、帰り道が分からないんだ。

 なにせ、今日は鈴理先輩の送り迎えをしている運転手田中さんに送ってもらったのだから。

 どうやって送ってもらったかというと、お電話して迎えに来てもらいました。英也さんの手紙に田中さんの連絡先が書いてあったんだよ。来る場合は送ってもらえって。


 お言葉に甘えてバイトが終わった後、このホテルまで来たはいいけど、帰りを考えていなかった!


「どうしよう。田中さんにまた連絡するのも気が引けるな。だからって全然分からないぞ、ここら辺の地域」


 確か近場に駅があると言っていたから、駅まで歩けばいいんだろうけど、駅はどっちだ。

 ホテル前できょろきょろと左右を見渡していた俺は、目前の片側三車線道路を睨んで腕を組む。聞けそうな通行人も見当たらないや。こりゃお手上げだね。


「コンビニに行くしかないか」


 あそこなら道を聞けるだろうから。

 結論を出した俺は取り敢えず歩くことにした。歩いていれば、一件くらいコンビニに辿り着くだろう。この時代、コンビニだらけだし。頭の後ろで腕を組んで、右の道を足先を向ける。


 すっかり日の暮れた見知らぬ街中を歩くのは新鮮な気分だ。

 真新しい世界が俺の視界に飛び込んできて、ちょっとした冒険をしている気分になる。


 見慣れないビルや建設会社前を通り過ぎる。

 ふと脇に路地裏が見えた。

 なんとなく抜け道はないかなっと歩み寄る俺は軽く現実逃避をしているらしい。普段だったら絶対しない行動を起こしていた。湿った臭いが鼻に付くだけで、向こうは闇ばかりが息を潜んでいる。

 微かに街のネオンがぼおっと揺らいでいる気がしたけど、見えるのはそれだけだ。


「抜け道は無さそうだな」


 路地裏に顔を突っ込んだ俺はすぐに身を引く。


 どんっと背後に衝撃が走った。通行人にぶつかったのだと思った俺は慌てて謝罪する。


 同時に首に腕を絡められた。

 ギョッと驚く俺を余所に、「駄目じゃないか」こういうところは一人で行くもんじゃないぞ、と注意される。聞き覚えのある声に俺は視線を流して相手を確認。


 そこにはにこっとスマイルを作っている御堂先輩の顔がっ、て、ぬぁああああ?!


 今度こそ頓狂な声を上げて驚いてしまう。

 なんで御堂先輩が此処にいるんっすか! ほんっと神出鬼没にも程がありますよ!


 驚いたと心臓を高鳴らせている俺に、「勝手に何処かへ行ったのは君だろ?」心配したと御堂先輩が頭を小突いてくる。

 ううっ、すんません、そういえば何も言わず出て行きましたね。俺。


「で、外に出るということは帰るつもりだったのかい?」


「あ…あーっとそのつもりだったんですけど、帰り道が分からなくて」


 手遊びしながら現状を伝えると、「それでここらを漂っていたのか」呆れられてしまった。


 め、面目ないっす。

 でもコンビニを見つけて帰り道を自力で見つけようとしていたんっすよ!

 そう訴えると「携帯は使えないのかい?」地図を出せばよかっただろ、と助言を頂いてしまう。


 そ……そうだった。

 携帯という手があった。アナログ人間の頭じゃ思いつかなかったよ。

 がーんっとショックを受ける俺を余所に、「この先は何があるんだろうな」御堂先輩が路地裏を指差した。


「少し行ってみないか?」


 闇が広がる路地裏に好奇心を向け、彼女は俺の腕を取った。

 え、それは別にいいっすけど、先輩は俺を連れ戻しに来たんじゃないのかな? 首をひとつ傾げ、俺は先輩と一緒に路地裏に足を踏み入れる。湿気のせいか、妙に辺りが生臭い。ゴミは散らばっているし。

 なによりも視界が悪い。何か出てもおかしくない気がする。


(てか、御堂先輩。なんで此処に入ろうと思ったんだろう?)


 物珍しさに入りたいと思った、とも思えない。

 ますます濃くなる疑念を抱えて奥に進んでいくと景色が見えた。


 出口じゃない。

 二メートル近くある金網フェンスで出口は封鎖されている。

 その向こうに見えたのは用水路だった。真っ黒な水が顔を出している。水面に反射しているネオンが淀んだ色を放っていた。


「何も無かったっすね」


 空の宝箱を見つけたような、落胆した念を抱く。

 知らない別世界が待っていたと思っていたのに、待っていたのは錆びかけた金網フェンスと空き缶やビニール袋が漂っている用水路のみ。目新しい発見は無かった。


「戻りましょうか」


 踵返そうとした直後、御堂先輩に背後から抱擁された。

 目を見開く俺は「な、なんっすか」こういう冗談はちょっと、と狼狽。

 いやいやいや路地裏で抱擁とか、なんかムード危ないでしょ。身を危険を感じるでしょ! ドッと冷汗を流す俺に対し、「もういい」御堂先輩が意味深に耳元で囁いた。


「もういいから、意地を張らなくて、もういいから」


 そう俺に言ってくれた。

 高鳴る鼓動を押さえ、何の話だと俺は誤魔化し笑いを浮かべる。意地を張るも何もないんですけど、おどけると御堂先輩が解放してくれた。

 ホッとしたのも束の間、体が勢いよく反転。目前にあった金網フェンスに背を向けてしまった。ギッギッと金網が軋む。


 同時に奪われる呼吸に、俺は目を瞠ってしまう。


 どうして御堂先輩が、俺の視界を奪っているのか。

 どうして俺の視界は彼女でいっぱいなのか。

 どうして俺は彼女の体温を唇で感じているのか。


 俺は、彼女と、路地裏で、何をしているのだろう。


 人は不意打ちを食らうと抵抗の前にまず固まるらしい。

 突然の行為に呆気とられるしかなかった。そっと離れていく唇を見つめ、「なん、で」こんなことを、俺は相手を呆然と見つめる。


「豊福はうそつきだから、僕が素直にさせると決めたんだ」


 薄暗い路地裏の向こうで柔和に綻ぶ王子。

 そっと俺の目尻に右人差し指を当てて、「ほら素直になった」落ちる雫を掬い取って舐める。



 あ、れ。



 その雫の正体に気付き、自分の目元に手を当てた。

 なんで泣いているんだろう。おかしいな、随分家で言い聞かせてきたのに。これは悲しむことじゃない。前向きに物事を考えろ、鈴理先輩と大雅先輩の未来を考えた結果じゃないか。

 そう何度も言い聞かせてきたのに、なんで涙が出るんだ。


 鈴理先輩に引っ叩かれたから? 痛かった? 阿呆か、俺はそれくらいじゃ泣かないって。

 御堂先輩にキスされたから? いや、驚いたけど、わりと動揺しているけど……泣くことじゃない。


 じゃあなんで、俺は。



「君は本当に鈴理が好きだったんだな。彼女に嫉妬してしまうよ」



 御堂先輩の言葉が引き金になった。

 封していた気持ちが爆ぜる。



――本当に鈴理先輩が好きだった?



 そうだよ、俺は鈴理先輩が馬鹿みたいに好きだったんだ。

 高飛車口調も、あたし様も、活き活きと攻めてくる姿も、子供っぽい笑顔も全部好きだった。本当に好きだったから、彼女が好きだったから、男ポジションを譲った。女ポジションに立った。彼女の我が儘だって聞いた。そしてもっと聞きたかった。


 なのに、俺は彼女と別れた。自分から告げたんだ。

 間接的に振ったんだよ、傍にいてくれようとした鈴理先輩を。良き友人でいましょう、そう言って俺は彼女の気持ちを踏み躙った酷い男だ。酷い男なんだ。引っ叩かれて当然だ。


 でもこれだけは信じて欲しい。

 俺も先輩を好きだった。大好きだった。それは誰にも変えようのない、俺から先輩に贈る気持ちなんだ。

 本当は俺だって、こんなことをしたくはなかったんだ。


「豊福。此処には、僕と君しかいないんだ。演じる相手はもういないよ」


 嗚呼、嗚咽が自然と込み上げる。



 鈴理先輩、ごめんなさい。

 俺は貴方を振ってしまった。貴方の気持ちを踏み躙ってしまった。

 だけどこんなにも好きだった。貴方のことがこんなにも好きだったんだ。

 今振り返っても、キスがっ、唇がっ、ぬくもりがっ、体で憶えさせられたことが溢れかえってくる。俺は確かに貴方の物だった。


「俺は……こわかったんっす」


 透明な雫が汚い路地裏のアスファルトに落ちていく。

 もう駄目だった。御堂先輩の不意打ちのせいで、押し止めていた感情が堰切ってしまう。


「こわかった」


 確かな将来を約束されている鈴理先輩と大雅先輩の未来を壊すことが、とても怖かった。

 かつて自分の我が儘で実親の命を奪ってしまった俺。その俺の気持ちが、我が儘が、また誰かの未来を奪う。耐えられない恐怖だった。奪うくらいなら傷付いた方がマシだったんだ。


 どんなに婚約式という現実にショックを受けようと、二人が婚約してしまおうと、彼等がこの世界で生きている。

 明るい未来で二人が生きていくという確かな未来があるなら、俺はそっちに手を伸ばしたい。俺と鈴理先輩じゃ無理だったんだ、最初から。さいしょから。


「どんなに……努力してもっ、気持ちがあっても、想いがあっても届かないこと、やっぱりあるんっすね」


 とめどなくなく流れる雫と漏れる嗚咽を噛み締めていると、


「自分を卑下しなくていいよ。君はとても努力した」


御堂先輩が再び抱擁をしてくる。

 抵抗とか、おどけとか、そういう考えは俺の頭から飛んでしまっていた。

 しゃくり上げる俺に、「君は充分傷付いた」今度は自分を労わる番だと彼女が顔を覗きんで微笑んでくれる。


「御堂先輩……すみません、すこし、だけ」


 誰かのぬくもりがないと、俺自身もう立っていることすら儘ならなかった。

 それだけ俺は今回のことにショックを覚え、それを上回る虚勢を張っていた。彼女のお父さんの前だって、彼女の前だって、虚勢を張ってみせたけれど、弱い自分が曝け出された今、もう意地を張る余力がない。


「好き……だったんです……鈴理先輩っ、すきだったんです」


 相手の学ランを握り締めると、一層抱擁が強くなった。肩口に顔を埋めると、頭を掻き抱かれた。嗚咽が止まらなくなると、何度も名前を紡がれた。


 抱き締めてくれる彼女はそっと告げてくる。


「もういいんだ、豊福。君のしたことは誰も咎めない。我慢しなくていい。辛いなら、辛くなくなるまで絶対に放してやらないから。こんな君を一人になんてしてやらない」


 かつて鈴理先輩が言ってくれた台詞。御堂先輩が上塗りしてくるなんて思わなかった。

 俺は痛い胸の疼きが渇望に変貌する。


 やっぱり俺は鈴理先輩が好きだ、大好きだ。別れたくない、別れたくなかった。こんな終わり方、俺だって望んでいなかった。できることなら、あの人の物であり続けたかった。我が儘を聞いてあげたかったし、喜ばせることを沢山したかった。してあげたかった。

 零す感情に相槌を打ってくれる御堂先輩は優しかった。本当に優しかった。


 その気持ちに甘えて俺は今、できるだけ弱音を吐いておくとにする。次、先輩と会う時、ぼろが出ないように。

 俺はきっと初めてにして、とても素敵な恋をしていた。あの日々は絶対に忘れない。これから先、鈴理先輩との関係が変わっても、絶対に忘れない。




――どんな結末を迎えても、俺は最高の恋をしていたんだから。




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