余命の花
―白銀の証―
教会の礼拝堂は、凍てつくような静寂に包まれていた。ステンドグラスから差し込む斜陽が、埃の粒子を金色の砂のように躍らせている。その光の中で、私の声だけがひび割れた器のように響いた。
「殿下……わたくし、余命三ヶ月と宣告されましたわ」
リリアーナ・ヴァルディ公爵令嬢。それが私の名だ。そして目の前に立つのは、氷の彫刻と見紛うほどに美しい隣国の第二王子、セレン・ルヴァール。セレンはぴくりとも動かなかった。ただ、その深い蒼の瞳が冬の湖面のように冷たく私を射抜く。
「……聞き間違いか?」
「いいえ。呪いの花が、私の心臓に根を張りましたの……『黒死の徒花』。かつて宮廷を追放された魔術師が遺した、解呪不能の呪いです」
セレンの拳が、白くなるほど強く握り締められた。その微かな震えさえ、私には「政略の駒が使い物にならなくなった不快感」に見えていた。背後で、王位を狙うロスチャイルド卿が、嘲笑を隠しもしない冷ややかな視線を送っている。この呪い自体、彼が政敵である私の父を失脚させ、私を排除するために仕組んだ罠であることは明白だった。
「婚約を解消しましょう、セレン様……あの方、エレノア様のもとへ、堂々とお行きなさいな」
私は完璧な淑女の仮面を被って微笑んだ。三年前から、私は知っていた。夜会でセレンがいつも、兄王子の婚約者であるエレノアを盗み見ていたことを。私がその視線に気づいて俯くたび、彼は顔を険しくさせて私から目を逸らした。私はただの、派閥を繋ぎ止めるための「身代わりの花」なのだと、ずっと思い込んできた。
だが、死を突きつけられた瞬間、私の中で何かが弾けた。
「お断りだと言ったはずだ、リリアーナ」
翌日、腰まであった金髪を自ら切り落とし、ガゼボで待つ彼に別れを告げようとした私に、セレンは怒りに燃える瞳で言い放った。
「不誠実な王子として歴史に名を残せと言うのか。お前が朽ち果てるその瞬間まで、俺の隣は空けない」
「……勝手な人。でも、いいわ。なら、地獄までお付き合いいただきますわよ。わたくし、もう『お人形』でいるのは飽きましたの」
その日から、私の叛逆が始まった。窮屈なコルセットを脱ぎ捨て、泥にまみれて馬を駆った。下町の喧騒の中で、行儀悪く串焼きを頬張り、鼻にクリームをつけて笑った。セレンは最初、見たこともないほど顔をしかめていたが、やがて呆れたようにため息をつき、私の隣で同じものを食べるようになった。
「……殿下、口の端にタレがついていてよ」
「お前に言われたくない。……おい、そんなに急いで食べると腹を壊すぞ」
そんな、どこにでもある恋人のような、飾らない言葉のやり取り。それが何よりも愛おしかった。
宣告された三ヶ月が過ぎた頃、奇跡が起きた。王宮魔導師さえ匙を投げた呪いの進行が、劇的に緩やかになったのだ。
「死への恐怖が消え、心が解き放たれたことで、魔力の暴走が抑えられたのかもしれない」と医師は首を傾げた。
しかし、それは死神が鎌を下ろすのを一時的に躊躇っただけの、残酷な猶予でもあった。
八ヶ月が過ぎた頃、ついに限界が訪れた。私の視界は霧に覆われたように白く霞み、手足の先から感覚が消えていく。
「殿下……あなたの顔が、よく見えませんわ」
寝室の天蓋を見つめる私に、セレンは震える手で私の頬を包み込み、真実を吐露した。
「……エレノアを見ていたのではない。お前が彼女を見て、いつも悲しそうに目を伏せるから。どうすればお前を笑わせられるのか、そればかりを考えて……結局、声をかける勇気もなかっただけだ」
「え……?」
「最初から、お前だけだった。父上に、リリアーナでなければ結婚しないと、膝をついて請い願ったのは、この俺だ」
視界が白く濁る中、手の甲に落ちた彼の熱い涙だけが、世界の輪郭を教えてくれた。私は、駒ではなく、一人の女性として愛されていた。
その時、寝室の扉が乱暴に跳ね除けられた。
「まだくたばり損なっていたか、この呪われた枯れ木め」
ロスチャイルド卿が、禁忌の魔導書を手に現れた。彼の背後には、闇の魔力が渦巻いている。
「セレン殿下。不浄の女を囲い続け、王家の血を汚した罪……その命をもって償っていただこう。この女の呪いを、今ここで暴走させ、王城ごと灰にしてくれる!」
彼が呪文を唱えようとしたその瞬間、セレンが立ち上がった。その瞳には、かつての冷徹さを超えた、峻烈な覚悟が宿っていた。
「卿の目論見はここで潰える。リリアーナは、誰にも渡さない」
セレンは古の文献から見つけ出していた、命を分け合う秘術「魂の双子」を起動させた。術式の魔法陣が寝室に広がり、ロスチャイルドが放った闇の奔流を弾き飛ばす。
「待ってください、セレン様! それはあなたの命を削る……最悪、二人とも!」
「君のいない玉座に座るくらいなら、君と地獄の淵を歩く方を選ぶと言っただろう」
光が溢れ、セレンの剣がロスチャイルドの胸を貫いた。黒幕の断末魔が響く中、私の心臓に巣食っていた黒い花が、霧となって霧散していく。代わりに、セレンの胸へと黒い紋章が、猛毒のような速さで移り変わるのが見えた。静寂が戻った部屋で、私はセレンの胸に飛び込んだ。視界は、奇跡のようにクリアになっていた。しかし、彼の美しい夜色の髪は、その半分が雪のように白く染まっていた。呪いの負荷を一身に引き受け、魂を半分差し出した代償――消えない銀の証。
「生きてる……セレン、あなたの鼓動が聞こえる……」
「……ああ。君の瞳に、再び俺が映っている……それだけで十分だ」
春が来た。私たちは、新しく建てられた孤児院の庭にいた。空からは、淡い桜の花びらが、祝福のように降り注いでいる。
「殿下、わたくし、もうやりたいことを全部やってしまいましたわ」
「なら、今度は二人でやりたいことを探そう……まずは、そうだな。まだ挙げていなかった結婚式を」
セレンは私の指に、王家の証ではない、小さな花の指輪をはめた。
「逃がした魚は大きかったが、釣り上げた魚は、世界そのものだったな」
「あら。わたくし、そんなに重い女かしら?」
「いいや。一生かけて背負うには、ちょうどいい重さだ」
軽口を叩き合い、私たちはどちらからともなく唇を重ねた。かつて死を待つだけだったこの体には今、彼からもらった温かな血と、魂が流れている。余命の呪いは、永遠の約束へと変わった。桜が舞う中、私たちは知っている。誰かのために生きようと願うとき、人は運命さえも作り替えることができるのだと。
「愛しているよ、リリアーナ。君が、俺の最後の、そして永遠の花だ」
風が吹き抜け、彼の白い髪と私の金色の髪が混じり合う。二人の笑い声は、どこまでも続く青空へと、溶けるように消えていった。




