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螺旋を歩く彼女

作者: 増設予定地
掲載日:2025/11/10

天恵のような晴れ間が広がり、例年より二十日も早く梅雨明け宣言がされた日。

妻が、クイーンの『オペラ座の夜』のレコードとスイカ一玉を抱えて、蝉の鳴き声と共に帰って来た。


「見て、掘り出し物!」

赤と白のビニール紐で吊るされたまんまるのスイカ。

そして、少しカビ臭いくたびれた中古のレコード。帯もしっかり付いている。


「……スイカはともかく、なんで『オペラ座の夜』?」

「なんか、呼ばれた気がしたの。預言者の歌に」

冗談なのか本気なのかわからない表情。

妻は時々、こういう不思議なことを言う。


僕の「またか」という顔を察して、

「それにね、『オペラ座の夜』はレコードで聴くべき名盤の一つよ」と、少し照れくさそうに付け加えた。


茹だるような午後の部屋を、冷房が必死に冷ましている。

僕はスイカを半分に切った。パカリッ、と小気味よい音とともに現れた果肉は、まさかのオレンジ色だった。


狐につままれたような顔をしている僕を、いつの間にか隣に立っていた妻が笑って見ていた。

「サマーオレンジって品種で、幻のスイカと呼ばれているそうよ」


スイカは上品な歯触りと独特の風味があり、猫も小さな前歯で「シャクッ、シャクッ」と齧っていた。


レコードのジャケットには、誰かが書いた読めそうで読めない文字がある。

妻はしばらく見つめ、懐かしそうに指でなぞり、何かを思い出したように見えた。


A面が終わり、B面へ。

少し長い無音ののち、始まる『預言者の歌』。


「思い出したの」と妻が囁く。

「以前この曲を聴いてるとき、神様に話しかけられた気がしたの。

何度も何度も繰り返し聴いて、何か約束した気がするの。

あの頃の私には、ちゃんと神様がついてた」


蝉の声は遠のき、細い雨が降っている。

梅雨は、もう明けたはずなのに――。


もう何度目だろう。

針が跳ね、同じ場所を回り続けている。


雨はやんだのか、それともまだ降っているのか。

僕にはもう、わからない。


猫の声が、夜の底でやけに響いている。

プレイヤーのターンテーブルは、今も静かに回り続け

神託は、また降りる。


最近、毎晩同じ夢を見る。

妻が帰ってくる。スイカを切る。レコードが鳴る。

先の展開をすべて知っているから、安心して眠っていられる。


今夜までは、そうだった。


カリッ。

何かを引っ掻く音がした。

いつもならまだ夢の底にいるはずの時間だ。

それなのに、目が覚めてしまった。


部屋は静かで、暗く窓の外には、夜明けの前の薄い光が漂っている。


僕はゆっくりと身を起こした。

黄金の瞳が闇の中で光る。

猫が、レコードの上に乗っていた。


耳を伏せ、腰を高く上げ、

ガリッ、ガリッ、ガリッ

まるで何かを引き剥がすように、力強く爪を研いでいる。


駆けつけた妻は、その瞬間に悟った。

終わりが来た、と。


これまで何百回も繰り返された螺旋は、猫の気まぐれで崩壊した。


猫が妻を見上げて声も無く鳴いた。

黄金の瞳はどこか優しげだった


満足したのか、足を舐めてハンモックへ戻る。

朝日がカーテンの隙間から差し込み、

舞い上がった毛が光を反射して、部屋に淡い道を作った。

全身に光を浴びて眠る猫は、神々しく輝いていた。


朝が、始まる。


妻がレコードを手に取り、猫に何かを呟いた。

けれど、僕にはもう、その言葉が何を意味するのか解らなかった。


玄関を開けると、いつもの部屋がくすんで見えた。

妻も、猫も、いない。

動物病院にでも行ったのだろうと思ったが、夜になっても帰らなかった。


あれから、ずいぶん長い時間が過ぎた。

僕は今日と同じような明日を繰り返し、いくつもの夏を見送ってきた。


ある日、玄関のドアノブに紙袋がかかっていた。

中には『オペラ座の夜』のレコード。

ジャケットには、かつて見た、読めそうで読めない文字。

妻の癖を思い出しながら、その文字を指でなぞった。


レコードプレーヤーは、あの日のままの場所にある。

分厚い埃の下で、静かに再生を待っていた。


あの夏に、戻れるだろうか。


震える手で、針をそっと落とす。

「カサリッ」久しぶりの音に、心臓が鼓動を止める。

始まるまでの無音のあいだ、

どこからともなくスイカの甘い匂いが漂い、

「シャクッ、シャクッ」と、小さな前歯で齧る音がした気がした。



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