第二十八話 未来の分岐
スマホ越しにぴちゃぴちゃという水音とルカさんの艶やかな声が聞こえ始めて、思わず額に手を添えます。
「あん……ん……んん……あっ!」
私が人差し指でトントンと額を叩いて、込み上げてくる感情を抑えようとする裏側で、ルカさんの声は更に大きくなっています。
込み上げてくる感情は間違っても性欲や興奮ではないと先に名言しておきましょう。ふつふつと込み上げてくるこの感情の名は……怒り。
私の心配を他所に自慰行為に耽っているルカさんに、イラッとしてしまったのは仕方ないのではありませんか?
と言っても、当人であるルカさんは何が起きようとしているか知りませんからね。知っているのは未来を視た私だけです。
だからといって上司からの電話に出て自慰行為を続けるのはどうかと思いますよ?社会人として長年生きてきましたが、こんな人間と会うとは思いもしなかったです。
「ボス……っ!……好き……もっと!」
更に激しくなる水音と興奮したように叫ぶルカさんの声。
何故止めようとしないのか疑問に思ったでしょう?
意味がないからですよ。逆に考えてください。あのルカさんが、自慰行為を止めてくださいと言って止まると思いますか? 止まりませんよ。
それで止まってくれるのなら私もこんなに苦労していませんよ、まったく。諦めに近い境地でルカさんが満足するのを待っているのですが……。
「いぃ!……ん……もっと奥に……んん!」
この様子だとまだまだ先になりそうですね。
仕方ないと通話をスピーカーに切り替え、音を最小に下げます。その後、ルカさんの喘ぎ声の聞こえるスマホをデスクの上に置いてからパソコンで部下の一人にメールを送ります。
ルカさんが動かないのであれば他の者を動かすだけ。幸いにもルカさんの居場所は桐生院様から共有して貰っているので分かっています。ルカさんを殺めようとしている部下が、彼女の元へ訪れる前に阻止する。
未来視で視た光景ではルカさんを殺めた部下が私の元に訪れていたのは窓の外が、夕暮れ色に染まった頃。時間はまだある筈です。
未だに休憩室で寝ている梓さんを叩き起すのも手でしょうか? 梓さんは私に近い位置に居られるのでルカさんの重要性は承知の筈。個人的に嫌っていても私の命令なら動いてくれるでしょう。
「……あっ!……いく……いっちゃう…んん!」
スマホの音量を最小にしていても聞こえてくる大きな喘ぎ声。これで満足して終わるのかと思えばつかの間、直ぐにまたぴちゃぴちゃという水音が聞こえてきて、思わず頭を抱えました。
「発情期を迎えた雌猫ですか貴女は……」
思わず出た言葉に、スマホから流れる艶やかな声が興奮するように増した気がします。
本当に勘弁してください。何なんですかこれは? ルカさんが可笑しいだけですよね?この世界が変わったからこれが常識って訳ではないですよね?
そうであって欲しいという願望を否定するように、ルカさんの喘ぎ声が大きく響きます。
「珠里さんが動いてくれましたか」
嫌な現実から目を逸らすようにパソコンに視線を移すと、ちょうどメールが届いたところでした。
メールを確認すると私のお願いを了承する旨の言葉が並んでいます。後でご褒美ちょうだいね♡と付いていなければ満点でしたね。
「姉の言葉で止まってくれたらいいんですけどね」
ルカさんを殺めようとしている部下の名は双葉 珠魅さん。私のお願いを聞き入れ、妹を止めようとしているのが双葉 珠里さんです。
4年ほど前にダンジョンで仲間に裏切られ、死にかけている所を助けてから私の元で働くようになった双子の暗殺者です。
珠魅さんの方は少しばかり私への忠誠心が高過ぎるようで、度々他の部下と衝突しています。その都度、仲介に入り中を取り持っているのが姉である珠里さんですね。
彼女の心労も大変大きいものでしょう。
「……あぁ、そうなりますか?」
珠里さんが動いた事で未来が変わったようですね。頭の中にとある光景が浮かび上がりますが、先程とは違うその光景に思わず顔が引き攣ります。
壁にかけられた時計は17時を刺し、夕暮色に染まった空の様子が窓から拝見する事が出来ました。
ザワザワとした喧騒が徐々に徐々に私が滞在する事務所へと近付いてきたと思えば、大きな音を立てて一人の少女が部屋の中へと踏み入って参りました。
ここまでは一度私が視た未来と何も変わりません。時間も場所も変わらない。私の元へ訪れる者も珠魅さんであり、変化はありません。ただ一つ大きな変化があったとすれば、珠魅さんが持つ首が二つ増えていた事でしょう。
最初の未来でも視たルカさんの首。双子の姉である珠里さんの首。そして組織のパトロンとして私を支えてくれている桐生院様の首。
三つの首を持って全身を血で染めた珠魅さんは満面の笑みで私に告げます。
『ボスの行く道を妨げる障害はウチが全部払ってあげるで。せやからウチと一緒に───幸せになろ?』
私の元へ歩み寄る珠魅さんを止めるように後ろに控えていた梓さんが、前へ出て……そして。
「選択を間違えましたか」
指輪が視せた未来では梓さんが珠魅さんを殺してお終いとなっています。指輪が私に視せる未来としては珍しく私の身に危険が及ぶようなものではありませんが、組織の崩壊に繋がるものですので捨ておく事は出来ません。
「まさかこうなるとは」
思わずため息が零れます。
ルカさんの身に起こる悲劇を止める為に珠里さんを動かしましたが、それが逆効果となり未来はより激化し最悪へと辿ってしまいました。
このまま指輪が視せた未来の通りに進めば、幹部の半分を失う事になる。大損失もいい所です。
「仕方ありませんね」
パソコンの画面にはまだまだ山積みの仕事が残っておりますが、時は一刻を争います。作業を一時中断して、スマホのメッセージアプリからチン代様とピラ美様のお二人に連絡を入れます。
本来であれば今日のお昼過ぎにダンジョンの前で待ち合わせをし、組織の事務所まで案内するつもりでしたが、リスケになりそうですね。
予定を明日へと変更し、お二人から承諾を得てからパソコンの電源を切って立ち上がります。
「さて、参りましょうか」
───未来を変える為には私が動くしかありません。
「あっ…ん!…ボス…ぅ…また……ぃく!」
通話を切るのを忘れていた私に非があるのは確かですが、空気読んでくれませんか?




