第二十話 誘惑
「……帰る」
「レヴィ様、待ってください」
なんて言葉を阿鼻叫喚に包まれるこの場において言い放ったレヴィ様は、私の呼び止める声も無視して立ち去っていきました。
え、そんな事あります?
気分がよろしくない。ショックでそれどころではない。レヴィ様の心情は嫌というほど伝わって参ります。
その要因が私にあるのも事実。とはいえ。
「ああぁあぁあああぁああぁああぁあぁあぁああぁぁああぁあぁあ!!!」
「おぇぇええええ!!!」
「ぎゃああああ!!!」
このような状況で、帰られるのはどうかと思いますよ。いや、本当に。
レヴィ様が吐いた嘔吐物によって起こされた梓さんは発狂していますし、貰いゲロしたチン代様によってピラ美様もゲロまみれになり、こちらも同じように発狂。
こんな地獄絵図を生み出した張本人だけが、帰ると言い残して立ち去りました。私にこの状況をどうにかしろと?
長い付き合いのお得意様とはいえ、これから先の付き合い方を考えないといけないと再確認し、この事態を治める為に魔道具を起動しました。
「あの女だけは絶対殺す。絶対だよ!」
私の目の前で全身びしょ濡れの赤髪の美女───梓さんが額に青筋を浮かべ、怒りのままに叫んでいます。
梓さんに対する嫌がらせのように吐瀉物を顔に吐き出していましたからね。顔や髪やらに大量の吐瀉物が付着しておりましたし、強制的に意識が覚醒した直後に、吐瀉物が目に入るという事故もありました。
梓さんの怒りもごもっともでしょう。
私の所有する魔道具によって、梓さんに付着していた吐瀉物は綺麗に流し落としましたが、レヴィ様にやられたという事実までは流せませんからねー。
梓さんもレヴィ様同様に私の発言でショックを受けていた筈ですが、どうやら怒りが勝ったようです。
で、もう一方ですね。
「ま、待ってくれ!ピラ美……ぐぇ」
「私の一張羅に何してくれてんのーー!!」
梓さん同様にお二人も水によって綺麗に洗い流しましたが、チン代様に衣服を汚されたのが気に入らないのか、馬乗りになってチン代様を殴っておられます。
見覚えのあるブランド名でしたね。それもおろしたての新品と見ました。Dランク昇格に合わせて新しく造って貰った防具を吐瀉物で汚されて、ピラ美も激怒という訳ですか。
こちら放っておいても良いでしょう。ピラ美様の気がすめば治まります。
「梓さん」
「……ボスぅぅぅ!」
殺気立っている梓さんに声をかけると、勢いよく私に飛びついてきました。避ける事も出来ましたが、空気を読んで受け止めます。
「僕……汚されちゃった……」
意味深な言い方をしないで頂きたい。
「大丈夫ですよ。きちんと洗い流しましたから」
「でも……」
「私を信じてください。梓さんは綺麗ですよ……いつも通り、ね?」
正直な話、梓さんが私に構って欲しいからこのような発言をしているのは分かっています。それでもあえて乗ることで、梓さんの怒りの感情をコントロールしている訳ですね。
その成果がきちんと出ているのか、レヴィ様への怒りはどこへやら。頬を赤く染めた梓さんは乙女の表情で私の事を見つめております。失敗したと直ぐに悟りました。
「ボス……これは、約束の先を期待していい感じ?」
期待の籠った眼差しと、欲望に包まれた言葉。
さて、なんとお返事したものか。
梓さんが期待している事が分からないほど、愚かではありません。そういった経験がない訳ではないですからね。なんだったら清い交際以外にも、性欲を解消する為だけの肉体関係を持った事はあります。
一夜限りの関係も一度や二度ではありません。それが今の世界ではどう扱われるのやら……。自分の価値を上げようと考えるのであれば、あまり口に出さない方がいいでしょうね。
話を戻しましょう。
私が考えなくてはならないのは、梓さんとの今後の関係です。正直に言って彼女の望みの通り、肉体関係を持つのはやぶさかではありません。
今の世界では男性の性欲は弱いとされていますが、常識や価値観の変わっていない私はその限りではありません。
はっきりと言いましょう。普通に女性相手に性的な興奮は覚えますし、綺麗な女性や自分に好意を持つ女性を抱きたいと思う程度には男ですよ、私は。
ただ、梓さんのは場合はどうしても男だった頃の彼が脳裏に過ぎるんですよね。行為の最中に思い出すような事があれば、私の息子はみるみるうちに縮んでしまうでしょう。
世界が変わってからそれほど日数が経っていないのもあって、まだ違和感だらけですからね。それに梓さんと肉体関係を持った場合、どうなるかを考えなければなりません。
重要なのは私の部下は梓さん一人ではないということ。幹部は梓さんを含めて5人。部下だけで言えば末端を含めれば100数名の部下がおります。その全てが女性です。
それを踏まえて、一つの事実を言いましょう。私は部下に慕われております。
皆が皆、組織に入るまでに壮絶な人生を歩んできております。地獄を味わった者、死を望む者、復讐を誓う者、それら全員に手を差し伸ばして進むべき道を示したのは他ならぬ私です。
共に進むべき道を歩き、事が上手く運ぶにつれ部下からの信頼は高まりました。その結果、部下から心酔にも近い忠誠を捧げられているのを自覚しています。
このように世界が変わる前から高かった部下たちの好感度は、男女比の偏りと常識の歪みによって天元突破しました。
ぶっちゃけましょう。私は部下たち全員に体を狙われております。100数名の部下たちにです。
餌を前にした肉食獣のようにギラついた眼差しを全員から向けられています。正直に言ってまだ食われていないのが奇跡です。
彼女たちの私への好感度と、嫌われるかも知れないという不安がストッパーとなり欲望を抑えているだけなのです。
この状況で梓さんに手を出せばどうなるか、分からないほど私は愚かではありません。連鎖的に部下を抱くことになるのは容易に想像がつきます。
いくら私に一般男性と同じ性欲があるとはいえ、100人を超える部下の相手は無理です。体が持ちません。腹情死します。そんな死に方だけはしたくありませんよ、私は。
「キスの先……ですか」
「うん……僕、ボスとしたいなぁって」
柔らかい胸を私に押し付けながら、甘えるような声でお願いをされました。私の理性が必死に戦っているのが分かります。踏ん張りなさい私。ここで欲望に負けてはなりません!
「ダメ?」
ここで梓さんによる渾身の上目遣い。
「誰にも言ってはいけませんよ」
「うん!!」
───この誘惑に勝てる男性だけ、私に石を投げなさい。甘んじて受け止めます。




