3
その夜。離れの部屋に泊まることになったふたりは部屋の中の様子を伺う。
玲がぽつりと呟いた。
「……ここ、澱んでるね」
晴臣は頷くと、灯りを手に取って裏庭へ向かった。
蔵の影になっている地面に、何かが落ちていた。
それは、細工の美しい金色の小さな釦だった。
拾い上げた瞬間、晴臣の脳裏に、激しい声が流れ込んできた。それは釦の記憶。
『……だから貸しは返せと言ってるんだ……!』
『もう少し待ってくれ……わしだって……!』
怒鳴り声、もみ合う気配——
そして、何かが倒れ、鈍い音が響く。
袖口から、釦がひとつ、はじけ飛んだ——
晴臣は部屋に戻ると小さな包みを取り出した。
部屋の四隅へと歩み、それぞれに塩を盛り、酒を一滴ずつ垂らしていく。所作は丁寧で、迷いがない。
中央に戻ると、背筋を正し、凛とした声で告げた。
「この場を清め、まことの御霊をお迎えする。邪しきもの、立ち入ることなかれ」
空気がぴんと張りつめ、塩の盛られた四隅が、わずかに光を帯びたように見えた。
玲は静かに座し、手を組んで目を閉じる。
深く息を吸い、胸の奥から言葉を紡ぐ。
「——掛けまくも畏き御霊よ、此処に結界張りて、言霊を捧ぐ。遠つ世より続く契のまにまに、今宵ひととき、此方へ降り給え。見えずともよし、触れずともよし、ただ、心残りの声あらば、響かせ給え……」
室内の空気が微かに震え、蝋燭の火が細く、長く揺れた。
何かが、音もなく、部屋の隅から忍び寄ってくる。
——その瞬間。
「……けい、たろう……」
低く、しわがれた声が空気を這った。壁の向こうか、天井の裏か、それとも耳の奥か。どこからともなく、声だけが漏れ出てくる。
「……あれを……けい、たろう……わしは……すま、ぬ……」
玲がかすかに身じろぎした。掠れた声には、苦悩と後悔の気配がにじんでいた。
何かを伝えようとした、そのとき——
「にゃあ」
障子がわずかに開き、白猫がずかずかと入ってきた。
空気が変わる。盛り塩の上を風がなで、気配はふっと途絶えた。
玲が目を開け、浅く息をつく。晴臣は立ち上がり、猫を一瞥すると背中を軽く伸ばした。
「……君、空気読もうか」
猫はふたりの間で堂々と丸くなり、毛づくろいを始めた。
「“あれ”とは何か。啓太郎さんに関わるものだろうか……」
まだ真相には遠いが、ひとつの手がかりが見え始めていた。