偽りの聖女と破滅寸前の私 ~真実の愛は、魔族の騎士にありました~
王宮の大広間には、重苦しい沈黙が満ちていた。私の婚約者である王太子アレクシス殿下の声が、その静寂を切り裂く。
「……アリス。僕は君との婚約を破棄する」
私の名はアリス・エスティリス。この国の未来を担う公爵令嬢として、幼い頃からアレクシス殿下との婚約は定められた運命だった。国家の安定と外交の均衡を担う、何よりも重い**「契約」**。
その隣には、一人の可憐な乙女が立っていた。リュシア・カルンディス。男爵家の娘であると称する彼女は、その儚げな容姿とは裏腹に、傲慢な笑みを隠しきれていなかった。
「政略結婚など、時代遅れだ。僕は真実の愛に従いたい。リュシアは、僕を理解してくれるはずだ」
アレクシス殿下の声には、高揚すら混じっていた。まるで自分が、古き因習を打ち破る英雄だとでも思い込んでいるかのような、空疎な情熱。彼の隣でリュシアは、勝者の顔をしている。周囲の視線に怯えることもなく、王太子の腕に寄り添い、その勝利を誇示していた。
誰もが言葉を失っていた。あまりにも唐突で、あまりにも軽薄な王太子の宣言に、広間は重い沈黙に支配される。
だが、私は違った。
私は椅子から静かに立ち上がり、緩やかな仕草でスカートの裾を整えると、まっすぐアレクシス殿下を見据えた。
「……そうですか。では、改めてお聞きしますわ、アレクシス殿下」
声は穏やかだったが、その裏に潜む冷たい感覚に、何人かの貴族が思わず息を呑んだ。
「王家の威信を賭した婚姻を、自らの恋心で覆すと、そう仰るのですね?」
「……そうだ。僕は、もう君とは結婚できない」
愚かだ、という思いが胸を過ったが、私は表に出さなかった。いや、出す価値もないと判断した。この男は、もう**「誰の言葉も耳に入らぬ場所」**まで堕ちている。己が正しいと信じて疑わない者ほど、始末に負えないものはない。ましてそれが、王家の血を引く者であれば――周囲は誰も、それを否定できない。
哀れだと、思う余地すらなかった。かつては、多少なりとも理性と見識を持ち合わせていたはずの男が、今や一人の女に惑い、国家の均衡を壊す愚行を誇らしげに語っている。見下すことすら、もはや無意味だった。
私は静かに息を吸い、感情のすべてを胸の奥底に押し込めた。怒りも、軽蔑も、悲しみも、必要のないものだ。今この場にいるのは、失恋に傷つく娘ではなく、国家と家門の尊厳を守る**「エスティリス公爵家の嫡女」**であるべきなのだから。
「――では、こちらも然るべき対応を取らせていただきます。殿下の行為は、単なる婚約破棄ではすまないでしょう」
その言葉に、広間にざわめきが走った。王族の前で、その発言がいかに異例であるか。けれど、私の声は揺れなかった。
私はまっすぐに背を伸ばし、王太子と、その隣に立つ女を見つめた。
この女は本来、王太子の隣に立つべきではない――私は確信していた。品位がないとか、身分が釣り合わないとか、そんな皮相な理由ではない。
彼女の**「何か」が、明らかにここの空気と馴染んでいない。見た目も振る舞いも淑やかに整えてはいる。だが、そこにはどこか、「異物感」**があった。まるで他人の期待に沿って描かれた、「完璧な婚約者」を忠実に演じているかのように。それが本当に無垢な愛の形だというなら――なぜ、視線の奥にあれほど冷めた光があるのだろう。
リュシア・カルンディス。男爵家の名を持ちながら、王太子に取り入る以前の彼女の足跡は、妙に曖昧だった。学友の記録、社交界での交友、王都に上がってきた経緯――どれも腑に落ちない。知られていないのではない。**「知られたくないこと」**を、慎重に覆い隠しているだけだ。
この女は、ただ**「惚れられた幸運な娘」**ではない。自らの意志でここに立っている。最初から、王太子の隣を目指して。
私は静かに目を伏せ、胸中でひとつ息をついた。言葉にすれば角が立つ。今はまだ、時ではない。だがいずれ、すべては明らかになる。それは、国家にとっても、王家にとっても、決して小さな代償では済まされないことになるだろう。
◇
数日後、私は密かに謁見を求めていた。王国の北に広がる魔族の領土、その隣に位置する辺境伯領の城。そこに、一人の魔族の騎士が駐留していると聞いていたからだ。
「……公爵令嬢アリス殿。ようこそ。お待たせいたしました」
現れたのは、漆黒の髪と真紅の瞳を持つ、背の高い魔族の騎士だった。彼の名は、ヴァルディ。魔族の国の次期指導者と噂される人物だ。人間とは異なる角と尻尾を持つが、その立ち姿は堂々としており、威厳に満ちていた。
「この度はお時間をいただき、感謝いたします、ヴァルディ様」
私が頭を下げると、彼はゆっくりと頷いた。
「それで、我が地にまで足を運ばれた理由は何でしょう? 王太子殿下との婚約解消の話は、すでに耳に入っておりますが」
ヴァルディの真紅の瞳が、私を鋭く見据える。私は、リュシアの出自や、彼女が王太子に与えている不自然な**「未来の知識」**、そしてそれによって引き起こされている国の混乱について、洗いざらい話した。
「リュシアは、**「聖女」**と名乗っていますが、私は彼女の言葉を信じることができません。国の財が私物化され、外交は悪化の一途を辿っています。このままでは、貴国との全面戦争も避けられないでしょう」
私がそう告げると、ヴァルディは静かに、しかし深く息を吐いた。
「……なるほど。状況は理解いたしました」
彼は、私を見つめ、深淵を覗き込むような真紅の瞳で言った。
「その**「聖女」**とやらが、この国に何をもたらしているのか。そして、貴女が何故、この私に真実を語りに来たのか。それも」
彼は口元に微かな笑みを浮かべた。その表情は、私を測るかのようでもあり、何かを確信したかのようでもあった。
「貴女の聡明さと、国を憂う心は、我が国の情報網でも報告を受けておりました。まさか、自らここまで足を運ばれるとは思いませんでしたが」
私の心に、温かいものがじんわりと広がる。誰にも理解されず、孤独に戦ってきた私を、彼は見ていてくれたのだ。
「私に、何ができるでしょう?」
ヴァルディはそう尋ねた。その声は穏やかだが、彼の内に秘められた力が感じられた。
「貴国の情報網を使って、リュシアの真の出自と、彼女が王太子に与えている**「未来の知識」**の根拠を突き止めていただきたいのです。そして、この国が破滅に向かうことを、どうか食い止めていただきたい」
私が懇願するように言うと、ヴァルディは再び頷いた。
「承知いたしました。貴女の真摯な願い、しかと受け止めました。貴女のような、**「真実」**を求める人間を、私は見捨てることはできません」
ヴァルディは、ゆっくりと立ち上がると、私に向かって手を差し伸べた。
彼の大きな手が、私の小さな手を取り、優しく握りしめる。
「貴女のような方が、この国にいることを知って、私は安堵いたしました。そして、貴女の隣に立つのが、あの王太子ではなく、この私であったならと、心からそう願います」
彼の言葉に、私の頬は熱くなった。予期せぬ言葉に、私の心臓が高鳴る。
真実の愛は、こんなにも近くにあったのか。
「……ヴァルディ様」
私は、彼の真紅の瞳をまっすぐ見つめ返した。その瞳に、私の知る愚かな王太子にはない、揺るぎない信頼と、そして温かい愛情が宿っていることを感じた。
◇
数週間後、王都は騒然となった。
王太子アレクシス殿下が、リュシア・カルンディスの言葉に従って締結した周辺国との条約が、実は我が国にとって極めて不利なものであったことが露見したのだ。さらに、リュシアが**「未来の知識」**と称して王太子に与えていた情報は、隣国の情報機関が過去に流した偽情報であったことが、魔族の国の情報網によって明らかになった。
「リュシア・カルンディスは、隣国のスパイであったと判明いたしました。彼女の真の出自は、他国の**「聖女」**を装った詐欺師であり、王太子殿下は完全に彼女に利用されていたのです!」
宰相の声が、評議会に響き渡る。
王太子は、真実を知って顔を真っ青にして震えていた。その隣で、逮捕されたリュシアは、全ての計画が暴かれたにもかかわらず、冷たい瞳で私を睨みつけていた。
「アリス様……貴女が、なぜ…!」
リュシアは、私に全ての責任を押し付けようとした。だが、もう遅い。ヴァルディ様が用意してくれた確たる証拠は、彼女の全ての嘘を暴いたのだ。
そして、王太子アレクシス殿下は、国政を私物化し、隣国のスパイに利用された責任を問われ、王位継承権を剥奪された。リュシアは、隣国との外交問題に発展する前に、秘密裏に処断されることになった。
その日の評議会後、私は王城の庭園で、ヴァルディ様と二人きりになった。
「貴女の行動が、この国を救いました、アリス様」
ヴァルディ様は、私を見つめ、優しく微笑んだ。
「貴女のような聡明で、そして**「真実」**を見極めることができる方が、この国の未来を担うべきだと、私は信じています」
私は、彼の真紅の瞳をまっすぐ見つめた。そこには、偽りのない温かさと、深い愛情が宿っていた。
「ヴァルディ様……」
私は、彼の差し出した手を取った。その手は、力強く、そして温かかった。
偽りの聖女に騙され、破滅寸前だった私を、彼は救ってくれた。
そして、彼がくれたのは、国の平和だけではなかった。
「どうか、私の隣にいてくださいませんか、アリス様」
その言葉に、私は涙を堪えきれなかった。
「はい……! 喜んで!」
私は、彼の胸に飛び込んだ。彼の腕が私を優しく抱きしめる。
私の**「真実の愛」**は、魔族の騎士にありました。
そして、二つの国は、新しい平和な未来へと歩み始めたのだ。