(2)
乗り込んだのは、HONDAジェットよりもはるかに大きな飛行機だった。
「ガルフストリーム社製のG650ERよ。世界最高峰のビジネスジェット機と言われているの。航続距離が13,000キロメートル以上あるから、世界各地の主要都市にノンストップで行けるのよ」
エンジンはロールスロイス社製で、速度はマッハ0.925だと自慢げに話した。
しかし、その顔はそれほど楽しそうではなかった。
「本当なら、今頃MRJに乗っていたはずなんだけど……」
玉留がため息をついた。
「MRJって、あの三菱の……」
「そう。世界でただ一人個人で購入契約をしていたのがあたしなの」
本当?
そんなこと聞いたことないよ、
疑いの目を向けるとそれに気づいたのか、
「口外しない約束なの。だから、誰もこのことを知らないわ」
と内緒のウインクを投げた。
「口外しないって……。でも、今言ったじゃん」
更に疑心の目を向けると、「口外の対象は人でしょう。あなたは犬だからいいのよ」と笑った。
なんだって?
犬だからいい?
なんか馬鹿にされているみたいだ。
冗談じゃない!
僕は名門美家の名犬フランソワなんだぞ!
他の犬とはレベルが違うんだぞ!
と不貞腐れてみたが、そんなことより、彼女の言っていることが本当に凄いことだと気がついた。
だから、MRJを個人で購入できる彼女ってどれほどの金持ちなんだろう?
と想像しようとしたが、見当もつかなかった。
余りにも世間離れしすぎて、頭がくらくらしてきた。
それで思考の方向をMRJのカタログ価格に切り替えた。
古い記憶を呼び覚ますように大脳皮質に喝を入れると、記憶の引き出しが開いた。
1機50億円だった。
「前金で一括支払いすると言ったらディスカウントしてくれたのよ。守秘義務があるから詳しくは言えないけどね」
訊いてもいないのにベラベラとしゃべり始めた。
「HONDAジェットも考えたんだけど、ちょっと安すぎるでしょう。あれって6億円位だったかしら? 誰でも買える値段よね」
誰でも買える?
おかしいんじゃない?
呆れて開いた口が塞がらなかったが、余りのスケールの大きさに、大金持ちだと思っていた露見呂嗚流の存在が小さく思えてきた。
「小金持ちはロールスロイスやベントレー、ポルシェがいいところよね。中金持ちはHONDAジェットを買って喜んでいるレベルよね」
そして、うふっと笑った。
何がおかしいんだ?
「あたしのような超がつく大金持ちになると、そんなものでは満足しないの」
じゃあ、どんな時に満足するんだ?
「誰も買えないものを買った時にだけ満足するのよ」
ふ~ん、そうなんだ……、
彼女の話を聞くのが馬鹿らしくなった。
しかし、弟子入りする予定だった呂嗚流の関心が椙子に集中した今、新たな弟子入り先を探す必要に迫られていた。
鼻持ちならなかったが、ぐっと堪えて彼女に取り入ることに決めた。
それに、なんと言っても世界一の金持ちだ。
それだけでなく、かなりの美人であることは間違いないし、スタイルも申し分ない。
となれば、善は急げだ。
早速母親のアドバイスを実行することにした。聞き上手になるのだ。
んん、
顔面を真面目にして玉留に向き合った。
「玉留様、何故あなたは世界一の大富豪になれたのですか?」
丁寧に訊いたつもりだったが、彼女の顔は一気に強張った。
「なれたのではなく、なったのよ」
何もわかってないのね、というような軽蔑した表情に変わった。
ヤバイ!
逆効果になった発言を悔やんだ。
それでも瞬時に頭を切り替えて、必死になってリカバリー策を考えた。
「失礼いたしました。玉留様の余りのスケールの大きさに動揺してしまって……」
すると、〈あら、そう?〉というように顔に笑みが浮かんだ。
よし、機嫌が直った。
ほっとしたが、同じ間違いをしないように慎重に言葉を選んで続けた。
「僕は玉留様を尊敬しております。爪の垢を煎じて飲ませていただきたいと思っております。玉留様に1ミリでも近づきたいと思っております。ですから、世界一の大金持ちになられたヒントをお教え願えないでしょうか」
すべての歯が思い切り浮きかけたが、ぐっと噛みしめ、心底からそう思っているという表情を作って彼女を見つめた。
「いいわよ、教えてあげる」
にこやかな笑みが浮かんだ。
「誰にでもできることを、誰もできないほど徹底したの」
ん?
どういうことだ?
禅問答か?
思考が迷路をさ迷い始めたが、それが顔に出たのか、玉留が助け舟を出すように優しい声を発した。
「小さなことを徹底したのよ」
小さなこと……、
フランソワは食い入るように彼女を見つめた。
「最も小さな単位はなんだと思う?」
少女のような可愛い顔になった。
「1円とか……、1秒とか……」
自信がないのでか細い声を出すと、
「その通りよ。1円と1秒を徹底したの」と少女のような顔で笑った。
ん?
どういうことだ?
フランソワの思考がまた迷路をさ迷い始めると、
「あたしが大事にしている言葉を教えてあげる」
と言ってうふっと笑った。
そして右手を高く上げて指を鳴らした。
すると、秘書がメモ帳を持ってきた。
受け取った玉留はダイヤモンドが埋め込まれたボールペンをすらすらと走らせた。
見ると、『1円の収入増、1円の支出減、1秒のスピードアップ!』と書かれていた。
フランソワはそれを食い入るように見つめた。
1円と1秒か……、
小さなことを徹底する……、
自らに言い聞かせるために呟いたフランソワに、玉留は生い立ちを語り始めた。