第1幕:露見呂嗚流(ろけん・ろおる)(1)
「鏡よ鏡、この世で俺よりカッコいいロックスターがいたら教えてくれ」
鏡は答えた。
「呂嗚流様、この世で最もカッコいいロックスターは、あなた様です」
絶好調だぜ!
両手の拳を握って空に向かって吠えた。
世界一カッコいいロックスターの露見呂嗚流は、バカンス先のカナリア諸島で優雅な時間を過ごしていた。
ラテン語で〈犬の島〉を意味するスペイン領カナリア諸島はスペイン本土から遠く離れた大西洋上に浮かぶ島々で構成され、ヨーロッパよりもアフリカ大陸に近い距離にある楽園だった。
平均気温が20度前後で過ごしやすく、世界中のセレブが集まるリゾート地として、その名を馳せている。
鏡を置いた呂嗚流はプライベートビーチのデッキチェアに体を預け、分厚い本を開いた。
中世の先駆者について書かれた本だった。
ロック界のパイオニアでありたいと常に考えている呂嗚流は、先駆者の知恵と努力を学ぶのに貪欲だった。
読み始めようとして目を落とすと、優しい風が頬を撫でた。
海からだった。
誘われるように本から目を離した呂嗚流は、空の青を映したような美しい海を見つめて目を細めた。
すると、遠くに白いヨットが見えた。
優雅に漂っているようだった。
それを見ているとなんだか眠たくなり、そのうち目を開けていられなくなった。
夢の世界に入るのに時間はかからなかった。
* *
黒い帽子をかぶった丸顔の男が現れた。
舳先に立ち、厳しい目で彼方を睨んでいた。
目の前には海以外何もなかったが、頭の中には未知なる大陸の姿がはっきりと描かれていた。
ポルトガルのパロス港を出発した男はカナリア諸島で物資の補給と船の修理を終え、今まさに出帆の時を迎えようとしていた。
船員が男の名前を呼んだ。
「コロンブス様」
男は頷き、指示を出した。
船が動き出すと、若かった頃のことを思い出した。
家業である絹織物業を手伝って地中海を東奔西走したことや海賊に襲われて命からがら逃げだしたことなどが鮮明に浮かんできた。
楽しいことより辛いことや怖いことの方が多かったが、それはすべて血となり肉となった。今の自分に繋がっているのだ。
それに、マルコ・ポーロの『旅行記』や宇宙に関する書物から知識を得たことも大きかった。
大航海への不安を取り除いてくれたからだ。
そのお陰で今日の日を迎えることができた。
この日のことは絶対に忘れないだろう。
1492年8月3日のことを生涯忘れることはない。
歴史に名を遺す旅が始まる日なのだ。
忘れるわけがない。
男はまだ見ぬ憧れの地に向かって強い視線を送った。
しかし、それから1か月経っても、2か月経っても、3か月経っても変化は起こらなかった。
海しか見えないのだ。
あるはずの陸が姿を見せないのだ。
自信満々で航海を始めた男だったが、疲れ果てて気が滅入り、口数が少なくなった。
それでも幸運の女神は男を見放さなかった。
4か月を少し過ぎた時、突然船員が声を発したのだ。
「島を見つけた」
その声で生気を取り戻した男は前方に目を凝らした。
すると、ゴマ粒のようなものが見えた。
新大陸に違いなかった。
遂に見つけたのだ。
長年の夢が叶い、世紀の発見者になったのだ。
「ヤッター!」
* *
雄叫びを上げた瞬間、呂嗚流は現実に戻った。
それでも何がどうなっているのかよくわからなかった。
ぼんやりと海を見つめていると、白いヨットが通り過ぎるのを見て、夢を見る前のことを思い出した。
本を読もうとしていたのだ。
しかし、膝の上に置いていたはずの本は見当たらなかった。
勝手に動くはずもないので周りを見回すと、砂の上に鎮座していた。
拾い上げて表紙に付いた砂を払うと、『大航海時代』というタイトルに見つめられた。
〈早く続きを読め〉とでも言っているようだった。
それでも、気だるい寝起きに字を追うことは不可能だった。
シャンパンでも飲むか、
グラスに注いで、ドンペリを喉に流し込んだ。
うまかった。
文句のつけようがないほどうまかったが、この味にも飽きてきていた。
それはドンペリだけでなく、モエシャンもロマネ・コンティもペトリュスもオーパスワンも同じだった。
超一流といわれるシャンパンもワインもすべて飲み慣れて飽きてしまっていた。
フワ~、
シャンパングラスをテーブルに戻すと、大きなあくびが出た。
贅沢することだけでなく、のんびりすることにも飽きていた。
湯水のように金を使っても、何もしないという贅沢に浸っても、面白くもなんともないのだ。
なんかいいことないかな~、
ワクワクすることないかな~、
ドキッとすることないかな~、
しかし、どんなに考えても何も思い浮かばなかった。
なんか疲れてきたし、また眠たくなってきたな~、
呂嗚流はまた大あくびをした。
すると、
カクッ!
えっ?
顎が外れた。
あれっ?
戻らない。
うそっ!
やめてくれ。
なんか、顎の筋肉が強ばって硬くなっている。
ウソだろ……、
もしかしてこのまま戻らないのか?
と思っていると、痛くなってきた。
どんどん痛くなってきた。
痛くて我慢できなくなってきた。
やめてくれ!
泣きそうになったが、世界一カッコいいロックスターが泣くわけにはいかなかった。
落ち着け!
自らを叱咤して、治し方を検索するためにスマホを手に取った。
一番上に表示された検索結果をタップすると、〈しばらく安静にして、心を落ち着けて、顎を左右に揺するようにすると戻ることがある〉と書いてあった。
その通りやってみた。
やってみたが、全然うまくいかなかった。
どうすればいいんだ?
誰か助けてくれ!
痛みと不安で恐怖に襲われた。
その時、急に雲行きが怪しくなり、瞬く間に空から青が消えた。
なんだ、あれは?
海上を猛スピードで移動する黒い影が見えた。
もしかして、あれは……、
竜巻だ!
こうしてはいられない。
早く逃げなくては!
腰を上げようとしたが、立てなかった。
腰が抜けていた。
世界一カッコいいロックスターなのに、顎が外れて腰が抜けていた。
情けない……、
気落ちした呂嗚流は余りの悔しさに唇を噛みしめようとしたが、顎が外れた状態では噛みしめることさえできなかった。
そんな呂嗚流に襲いかかるように、ゴ~という恐ろしい音を立てて竜巻が至近距離まで近づいてきた。
ヤバイ!
助けてくれ!
声にならない叫び声をあげた瞬間、竜巻は呂嗚流の横を通り過ぎていった。
ホッ、
胸を撫で下ろした呂嗚流は空を見上げた。
すると、さっきまでの異変がウソのように晴れ渡っていた。
なんだったんだ、さっきは……、
そう思った時、上空に小さな点のようなものが見えた。
なんだ?
見続けていると、小さな点は少しずつ大きくなってきた。
そして、目に見えて大きくなって、どんどん迫ってきた。
まさか?
その正体を確認した瞬間、気を失った。
* *
「大丈夫ですか?」
遠くの方から誰かの心配そうな声が聞こえた気がした。
ん? と思う間もなく、顔に生暖かいものが触れた。
何?
驚いて目を開けると、犬が舐めていた。
目が合うと、「大丈夫ですか?」と犬が言った。
犬語が……、
呂嗚流は飛び起きて、その犬と正対した。
「お前は誰だ?」
言った途端、驚いて顎に手をやった。
治っていた。
外れた顎が元に戻っていた。
ほっとした。
しかし、頭に痛みを覚えた。
かなり痛い。
手をやると、大きなコブができていた。
そのコブを擦っていると、ハッキリと思い出した。
空から降ってきた正体を思い出した。
この犬だった。
この犬が空から降ってきて頭に直撃したのだ。
その衝撃で気を失ったのだ。
でも、そのお陰で外れた顎が治ったのも確かだった。
「お前は誰だ? どこから来た?」
もう一度問うと、犬が答えた。
「僕はフランソワ。日本から来ました」
日本から……、
空を飛んで……、
よく飲み込めなかった。
問いを変えた。
「飼い主はいるのか?」
「はい。世界一の美女が僕のご主人です」
「なに、世界一の美女だと」
「はい。美椙子様と申されます」
うつくしすぎこ……、
なんという自慢たらしい名前なのだ、
自分の名前をさておいて、見たこともないその女の名前に異様に惹かれた。
「お前の飼い主は美しすぎる女性なのか?」
フランソワは居住まいを正した。
「世界一美しいお方です」
すると呂嗚流がいやらしい顔になり、フランソワの目を覗き込んだ。
「まことか? ウソではあるまいな」
「まことにございます。天地神妙に誓って嘘は申しません」
すると呂嗚流がニヤリと笑って、悪代官のような声を発した。
「近こう寄れ」
悪徳商人を呼ぶように手招きをした。
「その美椙子とやらに会うことは可能か?」
フランソワもニヤリと笑った。
「お望みとあらば」
呂嗚流は大きく頷いた。
「褒美はたんまりと遣わす」
「ありがたき幸せ」
フランソワは上目遣いに呂嗚流を見た。
「頼んだぞ」
「御意!」
悪代官と悪徳商人の密約が相整った。