閑話「見送る覚悟①」
体がふわりと揺れる。小さく、静かに。トラックのタイヤが小さな段差を乗り越えるたび、私の体も微かに揺れる。私と母を乗せたピックアップトラックは、海沿いの道を走っていた。
息苦しくて窓を開けると、潮の匂いを含んだ風がふわっと流れ込んだ。肌を撫でる感触が心地よくて、目を細める。でも、どこか物足りない。
本当はもっと感じられるはずなのに。日差しの熱さも、風の強さも、どこか遠い。
「……」
膝の上の手を見つめる。少し力を込めると指が震えた。
「セラ、暑くない?」
お母さんの声が、波紋のように静かに広がる。私は顔を上げ、ぎこちなく微笑んだ。
風が吹き抜けるたび、彼女の髪がさらりと舞う。陽の光を受けたそれは銀糸のように淡く輝きながら、どこか遠い。触れれば指先が凍えてしまいそうな水色は、まるで雪解けの川の水みたいだった。
私の母は、そういう人だ。
美しく澄んでいて、そして手の届かないところにいる——。
「うん、大丈夫。お尻が痛いだけだから」
「薬はさっき飲んだから、もうちょっと様子見ようか」
そう言ったけど、ちょっとだけ嘘をついた。
本当は少しだけ息が苦しい。
だけど、そんなことを言ったら、お母さんはまた心配そうに眉を寄せるんだろう。
だから、言わない。
ただ、窓の外を見つめた。
空はどこまでも青く、海はさらに深く青かった。岩を打つ波は白い飛沫を散らし、きらめく水面の上では、お日さまが無邪気に跳ね回っているように見える。
「この時間が、ずっと続けばいいのに」
足をぶらぶらと揺らしながら、遠くを眺める。道は港へと続き、トラックのタイヤがアスファルトを擦る音だけが静かに響いていた。
でも、それが続かないことも知っている。
だからこそ……もう少しだけ。
あと少しだけ……このままでいたい。
胸や目の奥がチクッと痛む。外はすごく暑いのに、肌の上を冷たい風がすっと通り過ぎた気がした。
夏だから寒くはないはず。それなのに、私はぎゅっと両腕を抱いて身を屈めた。胸の奥に走る痛みは風よりも冷たく、それでいて何かを孕んでいるかのように、少しだけ怖く感じる。
この青さも、この光も、全部どこか遠くへ行ってしまいそうで、私は口をつぐんで窓の外を見つめた。
相変わらず空はどこまでも青く、海はさらに青さを増していた。けれど、さっきまでキラキラしていた波が、いつの間にか少し遠くに感じる。
「あれっ……」
目を細めてじっと見てみる。
――違う。遠くなったんじゃない。
――私の目が少しぼやけているんだ。
何度か瞬きをして首を振ると……ほら大丈夫。ちゃんと見える。
「はぁ……」
私は小さく息を吐いた。
やがてトラックが海沿いの駐車場に滑り込むが、私はシートベルトをつけたまま、身を乗り出すようにして窓の外を覗き込んだ。そこには、一度しか乗ったことのない大きな白いモーターヨットが浮かんでいる。
「ねえ……あのヨット、お城みたいだね」
かすれた声が潮風に軽く溶けていく。
海にぽつんと浮かぶ白いモーターヨット。
波に揺られながら陽ざしを浴びて眩しく光るその姿は、まるで海の上にぽつんと佇む白いお城みたいだ。
もしあそこに住んだら、毎日波の音を聞きながら眠れるのかな?
たくさんの星が見える?
それとも……船が揺れて、気持ち悪くなっちゃう?
そんなことを考えながら助手席で足をぶらぶらさせると、隣にいる母が少しだけ目を細めた。
「……そうね」
たったそれだけの返事だったけれど、その声は波みたいに静かで少しだけ心の距離を感じる。寂しさを感じつつもヨットの近くに再び目を凝らしてみると、その近くでは私たちの到着を待つ二人の姿があった。
ひとりはカイルお父さん。いつものように腕を組み、じっとこちらを見ている。背が高くて、風を切るような鋭い立ち姿だ。けれど、眉間には小さな皺が寄っていて口元は少し固い。
もうひとりは、お父さんと仲のいいサム――サマンサ・ブレイクという、私にとって歳の離れた姉のような憧れの存在。
「おーい、セラ! 元気だった?」
サムの顔がぱっと輝いた。
「サム!」
その声が風に乗って届いた瞬間、胸と目の奥で鳴り続ける痛みが薄れていく。私はシートベルトを外し、勢いよくドアを押し開けた。
外の空気が肌を撫でた次の瞬間——。
「セラ、待ちなさい!」
運転席からの声に、踏み出した足が止まる。ぴたりと足を止めて振り向くと、お母さんが少し身を乗り出し、じっとこちらを見ていた。
「お願いだから走らないで。ゆっくり行きなさい」
低くて落ち着いた声だったけど、その指先がほんの僅かにハンドルを強く握るのを私は見逃さなかった。
「うん、わかってる!」
そう言いながら、私はそっと一歩ずつ車を降りる。けれど、サムの笑顔を見た瞬間、足が自然に速くなった。
海の風が頬を撫でる。
砂利の駐車場を駆け抜けるサンダルの足音が、ぱちぱちと小さく弾けた。
サムは膝を折り、両手を広げて待っていた。
サングラスは頭に乗せたままで、ゆるく波打つ金色の髪が陽ざしを受けてふわりと光っている。陽ざしを吸い込んだような肌に健康的な小麦色の腕が、私を迎え入れるみたいに広がっていた。
私は迷わず彼女の腕に飛び込んだ。
「わっ!」
ふわっと体が浮き、心まで軽くなる。
サムの腕はしっかりと力強く、それでいて優しく、まるで壊れ物を抱きしめるように私を受け止めてくれた。
「セラ、ちょっと太ったんじゃないの?」
彼女がクスッと笑いながら私を軽々しく持ち上げたけれど、私はムッとして痩けた頬を膨らませた。
「違うよ!」
「ほんとに? じゃあ、持ち上げたとき重かったのは気のせいかな?」
サムは冗談みたいに言うけれど、その目には前よりも深い寂しさが滲んでいた。じっと私を見つめる視線が、前よりも距離を感じて少しだけ切ない。
「怒るよ!」
私は頬をふくらませ、サムの肩をぺちぺちと叩いた。
「……でも、ほんとに重くなったのかな?」
ふと口にしてみたけれど、自分でもよくわからなかった。
サムが私をくるりと回して視界がふわりと回り、空が揺れて海がキラキラと輝く。風の匂い、太陽の匂い、そして——サムの匂いも。そのどれも懐かしくて、嬉しくて私は思わず微笑んだ。
「よし、降ろすよ」
サムはゆっくりと私を地面に降ろしながら、ポンと頭を撫でた。
彼女の手を離れて桟橋に降りると、木の板が足の下でギシッと鳴る。そして少しだけバランスを崩しそうになって、私はとっさに腕を広げた。
「おっと、大丈夫か?」
低くて、聞き慣れた声が聞こえる。顔を上げると、カイルお父さんがすぐ目の前にいた。
私よりずっと高い背をしていて、強い日差しを浴びても、どこか影のような鋭さを持つ横顔だ。
彼はほんの一瞬、眉を寄せた。
また心配してるの?
それとも考え事?
私は何も言わないまま、お父さんの手を取った。
しっかりとした感触が返ってくる。
大きな手だ。温かいけど、指先は少しだけ固い。
「船まで歩けるか?」
お父さんが心配そうに覗き込んできたので、私はこくりと頷いた。
「大丈夫、歩けるよ」
桟橋を渡るたび、足元がわずかに揺れた。
空は相変わらず青く、海はもっと青い。
「ねえ、お父さん。外って温かいね」
「……」
なのに、背後からひやりとした視線を感じた。
思わず振り返る。
「……お母さん?」
けれど、エイダお母さんはまだトラックの運転席にいた。いつもならすぐに降りてくるのに、今日は動かない。
「エイダは……ちょっと待っててくれ」
お父さんが短くそう言うと、私の肩をぽんと叩いた。
「セラ、サムと一緒に行けるな?」
「……うん」
小さく頷くと、運転席に残るエイダお母さんの方へと歩き出した。その瞬間、サムがそっと私の手を取る。
「行こっか、セラ」
サムの声は潮風に溶けるように優しかった。
手のひらから伝わる体温が、心の奥にじんわりと染み込んでいく。
一瞬だけ足が止まりそうになるけれど、彼女の手を握り返すと不思議と迷いが消えた。私はそっと息を吸い込み、そのぬくもりに導かれるようにヨットに乗り込む。
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