25「記録という名の漂流遺伝子-治療室A-22にて」
古びた自動ドアが圧搾音と共に軋みを上げて開いた。気圧が一瞬だけ乱れ、調整中の環境制御が微かに遅延した結果、床に置かれた配線ケーブルが浮き上がる。重力の僅かなズレと湿った空気の不協和音が、二人の足元にほのかな違和感を残した。
旧治療室A-22――かつて医療と生命維持のために用いられたその空間は、今や多くの機能が停止し、記録装置も予備電源で辛うじて動作しているだけ。だがそれでも、ライアンとウプシロンはその静寂と無人の空間に短い逗留を決めた。
残された一体のオートノームが、治療室の気圧バランスを調整し終えると、「補修パーツの探索を開始します」と一言だけ残し、静かに退出していく。作業ログと航行記録を記録ユニットに転送し、彼女は無音のまま自動ドアの奥へと消えていった。
その背を黙って見送ったライアンは、小さく息をついた後、「なあ、人間モドキ……アイツを一人にさせて大丈夫なのか?」とつぶやく。自嘲の混じった声音だったが、どこか気遣いの色も滲んでいた。
彼は床に置いていた簡易工具パックから工業用レンチを取り出し、手の中で軽く回した。それはB-99区画でオートノームの頭部を叩き潰した際に使用したものだ。金属片や部品を扱うには、これほど信頼できる相棒もない。ライアンはそのレンチを握ったまま、側に置かれたパーツ封緘ケースを見下ろす。中に入っていたのは、再生処理プラントの補修に使えるとされたパーツ群――のはずだった。
だが、それが本当に動作するのか、それともただの廃材の寄せ集めに過ぎないのか――判断はつかない。僅かに残る静黙が、少しずつ奇妙な感覚を孕み始める。それは、おそらく充電を切った空調ユニットの残高温なのだろう。水分の排水が気化し、鉄腕に微かなしけ粉末が積もっていく光景が視界の端へと映り込む。
気安がなさそうに覚ゆるられる空気。ライアンは足元の汚れを歩くたびに散らしてしまう。うつむいだ手先の向こうで、ウプシロンは旧型モニターのそばに腹ばいの角度で転置していた。
「一人じゃないわ。もともと、私たちの一体は、分裂された集合意識なんだから」
それが実にどういう意味なのかライアンには分からなかったが、自分に言い聞かせるようなその声に、どこか無視できないものを感じる。その隙をついて、彼は歩を進め、コンソールのごみに埋もれた古いターミナル系統をひねり出す。螺子がゆるんでいるが、かろうじてモニターは生きているようだ。
「まだ動作ログが残ってるわね。これは、解析しておくべきだわ。」
コンソールに埋もれていた旧型ターミナルは、金属粉塵と塩化熱の混じった異臭を吐きながら、ライアンの操作によってゆっくりと再起動を始めた。残っていたのは治療室A-22で行われていた、患者に発症した異常発達の抑制治療を記録した当時のログファイル。ファイル名は削られていたが、システム内部に断片的に残るタグがその年代を示していた。
《A-22内・治療記録ファイル群:世代識別コード -Gen.0141〜0168-》
「おい、これ……」
ライアンが声をあげたとき、ウプシロンの表情が微かに強張った。彼女は静かに手を伸ばし、ターミナルに映し出された過去のログの切り替え操作をしようとする。
「見なくていいわよ。これは……今の漂流世代に必要な情報ではない」
だが、ライアンは首を振って彼女の静止を振り切る。断片的なノイズと共に画面に映し出されていたのは、灰色の処置室で筋繊維が異様に発達した人物がストレッチャーに固定され、無数の制御管を体表に繋がれている映像。
「……こいつ、何かの感染症か? それとも……」
彼はごくりと喉を鳴らす――が、その“異形の存在”がふとこちらを向いたとき、モニター越しにも分かる明確な“男性的骨格”とY染色体特有のフェロモン誘導マーカーが画面右上に状態ログとして表示された。
「……これ、俺らじゃねえか……“違う”俺らだ……」
次の瞬間、映像は彼の操作によって再び、別の患者の治療ログへと切り替わる。今度はその“男”とエリオートの数体が並び、診断テーブル上に安置された華奢な体型と骨格を持つ人物を囲んでいた。
『生体データ、適合率89%。X-X染色体構造確認。症候進行:特異点由来?』
感情を伴わない冷徹な声がログに響く。そして、女性型個体への“調整処置”が、まるで機械の整備のように進行していった。
「……おい、これってまさか……俺らなのか……?」
ライアンが一歩画面に近づいたとき、ウプシロンが再度制止に入る。
「もう十分よね。これは……今の漂流世代以前の抹消すべき記録。今の貴女には関係ない」
「ふざけんなよ! 関係なくはねえだろ! 俺が“あれと同じ体”してるってのは、どう説明つけるんだよ……!」
彼の声が怒気と混乱に満ちる――しかしウプシロンの反応は、冷たくも優しさを含んでいた。それはまるで、燃え上がる焔に手を差し伸べる氷像のようだった。触れた者の激情をそのまま受け止めるのではなく、ただ静かに包み込んで鎮めようとする――けれど、その冷たさの奥には、どこか“憐れみに似たもの”が声色として滲み出ている。
彼女の視線は一切逸れず、まるでライアンの動揺を受け止めるのも“役割”の一部であるかのようだった。
「落ち着いて、ライアン。今の“貴女たち”は最初から同じだったのよ。貴女も、あの忌まわしい世代の個体も。ただ、“そう認識しないよう設計された”だけなの」
言葉の意味が、即座には理解できない。しかし、抑えようのない溢れ出す感情に身を任せて彼は目を見開いたまま、再度画面に映った自分と同じ体格の“患者”を見やる。
「……じゃあ、俺も“女”ってことか?」
沈黙が落ちる。
「まあ、遺伝子配列や生物学的には……そうかもしれない。でも、貴女がどう在るかは、どう在りたいかは私が決めることじゃない」
その言葉には決して否定ではなく――肯定でもない、まるで咎人から押し付けられた“告解の受理”を、罪という重さをノイズとして認識した後、その全く重さを感じられない破損したファイルを形式的な手続きでアーカイブ処理するような虚があった。それでも彼女は、慎重に言葉を選んで声色に乗せる――その復元不可能な情報を削ぎ落とした返答は、痛みを想定しない設計通りの回答だった。
「お前、俺に……いや、俺だけじゃない。今の俺たち漂流世代に何を隠しているんだ!? それに、あの『Y染色体』ってのを持つ奴らのそばに居た人間、いや――人間みてえな人間モドキはなんなんだよ!?」
ウプシロンは、静かだった。しばらく視線を落としたまま沈黙し、やがて淡く言葉を紡ぐ。
「……彼女たちは私の意思に協賛した文明種。そうね、“思想”や“宗教”といった形では定義できない新たな同志。強いて言うなら、“共鳴体”ね」
彼女はコンソールの端末に視線を向け、古い映像の断片が再び一瞬だけチラつく。そこには、過去に彼女が自身の手によって滅ぼした文明の象徴的風景――瓦礫と化した都市、そして光る神経回路のような空の網がウプシロンの操作によって映し出されていた。
「その共鳴に応じたのが、今では“エリオート”と呼ばれる存在たち。彼らは元々、人類の打ち上げたとある漂流物が辿り着いてしまった星で、高度な記憶継承技術を持つ文明種だった。けれど滅びる間際、その星の築いてきた本来の文明保守派ネクシオンは私と“感覚を共有した”の。それが全て――ではないけど、この永遠に続く航行を決めた始まりのキッカケ」
ウプシロンはライアンに向き直り、どこか人間味のない目で続ける。
「私を含めた樹形素体は彼らの思想ではなく、彼らと導き出した“1つの結論”に賛同したの」
「結論……?」
「ええ。“人類文化そのものが、自己崩壊の因子を内包していた”という結論。だから彼らは、自らを終わらせることに協力してくれた。記録を残し、痕跡を閉じ、未来に何も託さなかった」
そして少しだけ表情が揺らいだ。それは、悲しみでも、誇りでもない――滅びた過去の歴史を語るアーカイブのような、情報の声色だった。
レンチを握る彼の手が微かに震えていた。これまで正しいと思っていた価値観――男であること、人間であること、船内で信じられてきた“系譜”そのもの――それが全部、偽装だったという一方的な定義と価値観の塗り潰し。おまけに、目の前の“人間の少女を装った彼女”は、そんな真実を知った上でなお、自分たちには何も伝えてこなかった。
「勝手に隠して、勝手に終わらせて……お前は、それでも“正しい”って言えるのかよ……!」
怒りと混乱と、言いようのない喪失感が喉奥から逆流する。オートノームの頭を潰した際のレンチを握り直し、肩が僅かに揺れたその時――目の前の人間の形をした“異物”を、目の前の少女の姿を借りた未知の“演算機構”を原型がなくなるまで叩き潰す。そうして破壊しなければ、この航行の何もかもが終わりを迎え、新たな航行が始まらないのだと脳が叫んでいた。
「……全部、お前が決めたのかよ……」
声が掠れていた。その少し泣きそうな混乱を含んだ声を、ウプシロンは睡らさずに聞き渡し、そして静かに手を合わせる。
「意外だわ。貴女のようなイレギュラーなら受け入れてくれると思ったのに。仕方ないわね――情報遮断プロトコルを起動しないと」
そう告げた直後、ウプシロンが小さく手を叩く。その小さな動作は、空間全体に響く制御信号のように――命令でも、拒絶でもない、ただ静かな終止符のように広がっていく。
そして乾いた衝撃音が治療室A-22に響いた。まるで骨の芯に直接振動が伝わってくるような干渉波。その振動の波は瞬く間に広がり、彼女たちよりも屈強な体格の自律型素体を一瞬で押し返した振動共鳴を応用した拡張技術――瞬間的に相手の動きを鈍らせるために演算された逆位相の同調振動。
「クソったれ。それって、さっきの――」
「覚えてくれていたのね? そう、これは振動共鳴を応用した拡張技術でオートノームが相手だと長くは持たない――けれど、貴女のような“人間モドキ”であれば、特定の狙った生体機能の部位を5分から10分は完璧に封じられる」
「わっかんねえ……テメェは、テメェは人間を守るために作られたアンドロイドなはずだろ!?」
「勘違いしてもらっては困ります。私は地球という星に休眠期間を与え、人類以外の『生物』を守るために創られた樹形素体です」
視界が溶けて滲んでいき、色彩がゆっくりと白に吸い込まれ、線と輪郭も意味や音も全てが薄れていく。レンチを振り上げたはずの腕が、寸分も動かない。強制的な逆位相の干渉波を受けたことにより筋肉が硬直したのか、ライアンにとっての重力が変わったのか、自分の位置すら分からない。
「大丈夫よ、人間モドキ。私はまだ、貴女たちの殺害を許可されてない。私の母エイダ・バベッジの蝕む忌々しい五原則の影響下にあるまでは――」
口元を綻ばせた彼女はもう一度手を叩き、逆位相の振動による強制同調を行う。そして、ただ一度だけ瞬きをして、静かに彼の視界に残る最後の“像”へと。そして、白が満ちた。樹形素体へ対する怒りや漂流世代への問いも、まだ終わっていない思考すら――上書きされる前のファイルのように、塗り潰されていく。
読者の皆様のブックマークやイイね、レビューは、作者にとってとても大きな励みになります。また、感想などもいただけると、次回以降の執筆に一層力が入ります。ぜひお気軽にコメントをお寄せください!




