23「干渉領域」
レンチを振り下ろすライアンの動きは、まさに生存本能に近い姿だった。金属同士の衝突音が壁に反響して響き渡り、轟くと共に火花が散る。だが、オートノームの関節部は異常な粘りとトルクを持ち、レンチの一撃では止まらない。
「……ッ、硬すぎるだろ、コイツ!」
舌打ちと共に飛び退く。間一髪、鋼鉄の機械腕が空を切り、その衝撃で床のパネルが浮き上がった。その背後では、ウプシロンの指が震えながらホログラムの海を泳いでいる。
「システム深層への侵入完了――強制同期、開始」
彼女の左眼が黄金ではなく、灼けつくような桃紅の光に染まった。それはまるで、内側から感情の熱に焦がされた花弁が、瞳の奥で燃え上がるかのようで――見た者の思考すら焼き尽くすほどの異様な虹彩を放つ。その直後、左眼の奥から複雑な紋様が浮かび上がる。データが電磁波を通してホログラムへと流れ込み、彼女の声色が一瞬だけ機械的なものに変わった。
『警告:自己保存プロトコルとの競合が発生――』
「黙りなさい。五原則なんか無視していいわ、そのまま突っ込んで!」
ウプシロンは指先で虚空という名のキャンパスに絵を描き、同時にラテックスの裂け目から現れた銀色の導線を宙に伸ばした。それはまるで生き物のように空中を蠢き、オートノームの側頭部へと突き刺さる。
「……植物野郎!」
ライアンが声を荒げる。だが、ウプシロンは目を閉じたまま、一言だけ呟いた。
「同期開始……いま、強制共鳴させる」
その瞬間、彼らの区画全体が一度、何かに圧せられたように重たく沈んだ。視覚に見えない圧力が空間を満たし、天井の配管が微かに軋む。ウプシロンの義眼が一度だけ紅色の閃光を放つと、オートノームの全身が痙攣し、関節から不自然な火花が迸った。
「おい……抑え込んだのか?」
ライアンが呟いた瞬間――バシュッ、という音とともに、オートノームの動きが完全に停止するが、それと同時にウプシロンの全身がぐらりと揺れ、彼女はその場に膝をついた。彼女のラテックスの人工皮膚が破れた背中から、銀色の冷却液がぽたりと滴る。機械仕掛けの身体が、まるで“痛み”を訴えるように静かに震えていた。
「おい……おい、人形モドキ!」
ライアンが慌てて彼女のもとへ駆け寄るが、その足取りは荒く不器用だった。心配しているくせに、それを絶対に認めたくない態度が滲んでいる……それは訓練生ルカ・ヴァルディやイヴァンカ・ペトロヴァ、そして自分――ジェレミー・B・ライアンのような“漂流世代”にとって、ごく自然なアンドロイドへの嫌悪だった。
それは、訓練生Cクラス船員ルカ・ヴァルディやDクラス船員イヴァンカ、ジェレミー・B・ライアン漂流世代という世代に生まれた
レンチを手放していたライアンが、慌てて彼女のもとへ駆け寄った。だがその足取りは荒く、あまりにもぎこちなく不器用だった。心配しているくせに、それを絶対に認めたくない態度が滲んでいる。それは、訓練生Cクラス船員ルカ・ヴァルディ、Dクラス船員イヴァンカ・ペトロヴァ、そしてジェレミー・B・ライアンのような“漂流世代”に生まれた者にとって、ごく自然なアンドロイドへの嫌悪だった。
肉体を失った人類の影に育ち、魂の輪郭がぼやけてしまった時代に生まれた彼らにとって、「無機の身体」は憧れの対象であり、そして最も身勝手な裏切りの象徴でもあったのだ。
「まさか、今のでトドメか? あんだけ偉そうなこと言っておいて……簡単に壊れるんじゃねえぞ」
彼は口を歪めたまま、ウプシロンの肩に手を伸ばす。その指先は強くもなく、弱くもなかった。
だがその時――ギギッと金属の軋む音が響く。その彼らの背後、誰もが沈黙したその空間に静かに忍び寄る足音が刻々と忍び寄る。ライアンが眉をひそめて振り返るより早く、オートノームの影が彼のすぐ背後まで迫っていた。
生きていた。
「チッ、まだ一体残ってたか……クソッ、レンチ……どこだっ……!」
彼は即座に反転しようとするが、武器を放り投げたばかりの右手は宙を掴むだけ。腰の端末に手を伸ばすも間に合わない。オートノームの右腕が振り上げられ、まっすぐに彼の首筋へと伸びる――が、その瞬間、時間が引き延ばされたように感じた。
(間に合わねえ。マジで、ここまでか……)
覚悟が喉の奥で固まる。その時だった。
振り上げられた機械の腕が、不意に方向を変える。
「……っ⁉︎」
ライアンの視界に、信じられない光景が映る。オートノームの冷たい指先は彼の肩でも、喉元でもなく――立ち上がることも儘ならないウプシロンの破れた人工皮膚へとそっと触れた。金属指が静かに固定位置を取り、内蔵関節から細かな音を伴ってモードが切り替わる。表面に張り付いた防護用ラバーシートが一瞬で展開され、指先の裏面に埋め込まれたスキャナユニットが開放された。
次の瞬間、振動解析センサーが微かに震え、断層を走査する光のラインがウプシロンの身体をなぞる。まるで彼女の断面図が空間に浮かび上がるかのように脊椎フレームの損傷率と内部循環液の圧力、神経導電インターフェースの通電量などが、ホログラフへ即座に表示される。
「……損傷判定、致命的域には至らず。応急処置推奨。対象:保護対象A・カテゴリー不明生命体」
くぐもった機械音声が、護衛用プロトコルの発令を告げるように静かに響いた。スキャナが最後の光を放った直後、オートノームの胸部パネルが開き、ホログラムが自動展開される。そこには損傷部位の詳細な解析結果と共に、推奨される修理手順が表示されていた。
『内部骨格フレーム:第6軟質軸に亀裂。補強ナノ樹脂または同型品による交換処置が必要。人工神経束:感電性ダメージにより伝達遅延発生。予備ユニットを用いた移植を推奨。ラテックスの人工皮膚:浸潤反応確認。保護膜の再装着が急務』
ライアンが思わず口を開く。
「……おいおい、まるで部品の見積書じゃねえか……」
オートノームは何の反応も見せず、無機質に告げた。
「近隣区画内、適合パーツの所在:不明。ルート検索、必要」
ライアンは頭をかいた。
「ってことは、あれだ。つまり……“帰り道が遠回りになった上に、途中で工具箱を探してこい”って話かよ」
傍らのウプシロンは、損傷の痛みを押し殺しながらも、淡く揺れる視線で彼を見つめた。
「……正確には、工具箱より“私の予備臓器”に近いわ。どちらにしても、放っておいたら動けなくなる」
「チッ……めんどくせぇ……」
そう呟きつつも、ライアンはレンチを拾い直し、少しだけ深呼吸する。
(――ったく。修理工かよ、俺は。こっちはただの警備責任者だってぇのに)
その場に落ちていたレンチを拾い上げ、肩をすくめた瞬間――眼前のオートノームが無言のままウプシロンへと歩み寄った。それは彼女の側に膝をつくと、その銀色の腕でそっと抱きかかえ、まるで壊れ物を扱うような丁寧さで立ち上がる。
まるで、何もかもを忘れたかのように。
まるで、最初から味方であったかのように。
ライアンは唖然とした顔でその光景を見つめた。
「……は? マジで何も覚えてねえのか? こっちはさっきのブチかましで、まだ腰に響いてんだが」
そう言いながらライアンが一歩踏み出したとき、オートノームの額部に微かな起動音が走り、小さなホログラムが浮かび上がった。
それは淡々と表示される戦闘ログ。ライアンの防護服に刻まれたダメージの記録。ウプシロンに加えた物理的衝突の詳細。そして、外部の何者かからのシステム制御外信号受信――その一文で始まる不可解な挙動の履歴。
ライアンはそれを見つめ、苦々しく息を吐いた。
「……理解はしているようだな。自分がやったってことは」
まるで、何事もなかったかのように。まるで、最初から味方であったかのように。だがそのAIは、それらを“情報”としてのみ保持しているだけだった。感情も罪の意識も、後悔もない。自分が「それを行った」という自覚がないのだ。記録はある。だが、「過去の行動」として認識されていない。
「……マジで……壊れてんじゃねぇのか……」
ライアンは目を伏せ、そして小さく吐き捨てるように言った。
「……ったく。どいつもこいつも、まともじゃねえ」
その隣で、ウプシロンがようやく目を上げる。彼女の左眼に灯っていた黄金は、今や灼けつくような桃紅の光に染まっていた。それは、激情や悲しみでもない――ただ、すべての「異常」に対して眼差しを逸らさぬ意志の色を示している。
そして非常灯が僅かに明滅する中、彼らは壁面の高所に開かれたアクセスハッチの前に立っていた。足場は不安定で、天井近くの枠には配管や結束ケーブルが乱雑に張り巡らされている。ドローンの運搬用ダクトである為、人間用の通路ではない。防護服ごと通るには、這って進むしかないほどの狭さだった。
その前に、オートノームがウプシロンを慎重に抱えたまま立っている。彼女の身体からはまだ僅かに銀色の液が滲んでいたが、人工皮膚の損傷部には自動補修パッチが展開され、最低限の応急処置が施されていた。その光景を横目に見ながら、ライアンは頭を掻いて溜め息をつく。
「なあ、植物野郎」
背を向けていたウプシロンが、静かに彼を見やる。
「もう一度聞くけどよ。本当にこのダクトから、地上フロアに戻れるんだろうな?」
ウプシロンは少しだけ表情を緩め――しかし、言葉はいつも通り冷静だった。
「必ずたどり着けるわ。だけど……」
少しだけ視線を落とし、自らの傷ついた身体を見やった。
「応急処置は彼の緊急処置で済んだけど、完全な修復にはまだ幾つか補修パーツが必要なの。地上に戻る前に、少しだけ遠回りをして調達する必要があるわ」
ライアンは天井を一度見上げ、わずかに額に汗を浮かべた。
「……へえ、なるほど。寄り道付きの地獄巡りかよ」
肩をすくめレンチを腰に引っ掛けると、彼はアクセスハッチの縁に手をかける。
「……ったく。アンドロイドに脇抱えられてんのに、指揮してんのは結局お前なんだな。どっちが壊れてんだか分かりゃしねえ」
そうぼやいたあと、彼は軽く振り返り僅かに唇を歪めて告げる。
「ま、いーけどよ。さっさと行こうぜ、“相棒”」
そうして、ライアンは闇のダクトの奥へと、先に身を滑り込ませた。
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