22「訓練生Cクラス船員ルカ・ヴァルディ⑨」
船内アナウンスが静かに響く。
『特別任務対象者、Cクラス船員ルカ・ヴァルディ。指定エリアへ移動してください』
ルカは無言のまま歩を進めた。
周囲には、いつもと変わらないCクラス船員たちの姿がある。誰も彼のことを気に留めることはなく、それぞれの日常を繰り返していた。
(特別任務、か……)
彼は目の前の通路を見つめながら、保安員から聞かされた言葉を思い出す。
『お前は選ばれたんだ。これは、お前にしかできない任務だ』
(俺にしかできないだって? ふざけんな……)
無理やり押し付けられたような状況で、納得なんてできるわけがない。それでも、ルカは尋問室で「選ばされた」以上、向かわなければならなかった。
通路の端に設置された情報パネルに映る自分のIDが、一瞬だけ赤く点滅する。それはCクラス船員用の制限エリアを越え、通常では立ち入りできない区画への移動を認証されたことを示していた。
『特別任務対象者Cクラス船員ルカ・ヴァルディのアクセス承認。制限区画への移動を許可します』
端末から機械的なアナウンスが響いた。
(ここから先は、一般のCクラス船員は入れない場所か……)
足を踏み入れると、空気が変わる。
その背後で、二人の保安員がぴたりと続くのを感じた。
彼らはCクラスの監視担当よりも階級が上の者たちであり、それを示すように肩章にはAクラスを示す紋章が刺繍されている。右腰には、明らかに実戦用の小型火器が装備されていた。
――それだけではない。
無言のまま歩く自律型素体が二体、ルカの横を並行して進んでいた。彼らの銀色の装甲が通路の白い光を鈍く反射する。
(……ここまで徹底する必要があるのか?)
ルカは眉をひそめながら歩を進める。
やがて通路の終端にたどり着くと、天井まで届くような巨大なセキュリティゲートがそびえていた。
ID認証パネルに光が灯り、ルカは事前に知らされていた指示通り個人コードを入力する。その直後、静かな電子音が響いた。
『入館対象者の認証を確認。ルカ・ヴァルディの単独入場を許可します』
「……単独入場?」
ルカが僅かに視線を上げると、同行していた保安員たちが扉の前で足を止めた。オートノームもまた、それ以上は進もうとしない。
「冗談だろ……お前らはついて来ないのか?」
問いかけると、保安員の一人が淡々と答える。
「ここから先は監視対象の保護領域だ。我々はここまでしか同行できない」
ルカは眉を寄せた。
「嘘だろ? 俺一人で行けってのか?」
「そういう決まりだ」
保安員の声に迷いはなかった。
まるで、この規則に疑問を挟む余地すらないというように。
ルカは無言で扉を見つめる。
金属質な質感を持つそれは、まるで異質な世界への境界線のようだった。
保安員が口を開きかけたが、言葉を飲み込んだ。
「……準備ができたら進め。幸運を祈る」
彼の震えた言葉が通路に響く。
まるで、彼が進んだ先で何が起きようとも、自分たちには関係ないと言わんばかりに保安員はルカに背を向けた。
その瞬間、扉が静かに開いた。
白い光が差し込む。
そこに広がっていたのは、漂流世代の訓練施設とは明らかに異なる、どこか冷たく無機質な白い空間――奇妙なオブジェクトが展示された、美術館のような広大な領域だった。
扉が完全に開くと、冷たい空気が肌にまとわりついた。
――静寂が耳を擘く。
それまでの船内とはまったく異なる、異様な静けさ。まるで、この空間だけが時間の流れを歪められたように、音の感覚が遠のく。
ルカは一歩を踏み出した。
視界に飛び込む純白――目の前に広がるのは、あまりにも無機質で、整然とした白の空間だった。
天井は高く、壁は滑らかに磨かれており、どこまでも光を反射している。床はガラスのように透き通って見え、そこに立っているだけで、自分が重力から解放されたような錯覚すら覚えた。
「……美術館?」
そう呟くと、ルカの視線の先に奇妙な光景が広がる。
この空間には保安員も、オートノームも存在しなかった。その代わりにいたのは――様々なクラス、様々な年代、そして様々な肌の色の人々。しかし、ここではそれらの違いは意味を持たない。
船内で築かれてきた社会の階層や肌の色の境界すら、この場所では溶けて消えているようだった。
彼らは整然と並ぶガラスケースや台座を囲み、静かにオブジェクトを見つめていた。立っている者や座り込んでいる者、メモを取っている者もいれば、端末を覗き込んでいる者――表情はまちまちだ。驚きや悲しみ、そして戸惑い。あるいは理解不能なものを見る者の瞳。しかし、共通しているのは誰も声を発していないということ。
彼らはただ、そこに在るオブジェクトから「何か」を観察している。
――祈るように。
――崇めるように。
――あるいは、恐れるように。
ルカは無意識に喉を鳴らした。
(何なんだ、ここは……?)
美術館――いや、人類が過去に残した「遺物」を並べた静かな墓場のようだった。
喉の奥に僅かな引っかかる違和感を覚える。この場にいる全員が、まるで「何かに支配されている」かのような沈黙を保っていたからだ。
(息苦しい……)
足音すら吸い込まれそうな静寂の中、ルカはゆっくりと歩を進める。そして最初に注目したのは、クリスタルケースに収められた一本のバイオリンだった。
深い黒の光沢を帯びたボディ。
弦はなく、弓もない。
だが、それはまるでケースの中で誰かが演奏しているかのように、ひとりでに微かに震えていた。
「完全な無音を奏でるバイオリン」
ルカが近づくと、バイオリンの震えが僅かに強まった。
弾かれていないのに、まるで音を生み出しているかのように――。
「いや、違う」
耳を澄ませても、何も聞こえない。
だが、音が「したはずの感覚」だけが頭の奥に残る。
(……なんだ、これ……)
不意に横に立っていたBクラスの女性船員が、まるで眠るように呟いた。
「これは音を失った楽器……かつて音楽と呼ばれたもの」
ルカは彼女を一瞥したが、その瞳はどこか虚ろだった。
まるで、バイオリンに引き込まれているかのように――。
「音楽……?」
その言葉に、ルカの記憶が微かに揺らぐ。
遠い昔、誰かが彼に語ったことがあった気がする。けれど、その記憶の輪郭はあまりにも曖昧で、すぐに霧散してしまった。
ぞくりとした感覚を覚え、無意識にバイオリンから距離を取った。
(ダメだ、これ以上見ていたら……何かを忘れそうだ)
足早にその場を離れ、次に目に入ったものへと視線を向ける。
――それは、金属製の時計だった。
壁際に静かに置かれた豪奢な作りの時計。
しかし、その時計の針は奇妙な動きをしていた。
秒針が「12時」を決して指さない。
針は不規則に動きながら決して0時にも、12時にも到達しない。
まるで、その時間だけが欠落しているかのように――。
(壊れている……いや、それとも……?)
ルカは腕を伸ばし、そっと時計に触れた。
その瞬間――ザザッというノイズのような音が頭の奥に直接響く。そして、ほんの一瞬だけ、時計の針が「12時」に近づいた。
それは時計が発する微かな『声』だった。
『……どう……して……?』
「っ!」
ルカは反射的に手を引っ込めた。
触れた瞬間に頭の奥へ流れ込んできた、聞き取れない声。
彼は大きく息を吐くと、時計を見つめ直した。
今はもう、何の変化もない。
ただ、針が 12時を避けて揺らぎ続ける時計 が、そこに在るだけだった。
(何だ、今のは……?)
その時だった。
「ようこそ、Cクラス船員ルカ・ヴァルディ」
不意に声がした。
ルカの心臓が一瞬だけ跳ね上がる。
声の方を振り向くが、そこには誰もいない。
空間には人が溢れているはずなのに――今の声は、ルカにしか聞こえていないようだった。
「こっちだよ。ずいぶんと迷っていたみたいだけど、ようやく来てくれたんだね?」
声の主は、ルカの目の前に"いつの間にか"立っていた。
カジュアルなスーツを着た少女。
だが、その姿は「異常」だった。
彼女の目の位置には、黒く乱れたコードのようにモザイク処理が施されており、まるで現実世界に在る何かを塗り潰すように――歪なノイズの塊が彼女の顔の一部を覆っている。
「……お前、いつからそこに――」
ルカは本能的に後ずさった。
目の前の「それ」が、何か分からなかったからだ。
「大丈夫だよ。私は案内人。あなたを導くためだけに、産み堕とされた存在ってだけだから」
少女はそう言って、滑らかに手を差し出した。
「さあ、あなたの"監視対象"へと向かいましょう」
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