第1章 こんらん異世界魔法学校
時は数週間ほど巻き戻る。
ハッと目を覚ますと、目の前に広がるのは見知らぬ天井だった。どこか古めかしい木の梁が走り、淡い灯りが揺れている。薄暗い室内には、誰かの気配もない。
──ここ、どこ……?
ゆっくりと体を起こした。ひどく鈍い頭痛がする。気を失う直前に何があったのか思い出そうとするが、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。ふと、自分の体に目を落とすと、見たこともないローブを身にまとっていることに気づいた。
──これ、何?中世の舞台衣装でも着せられたの?
混乱しながら周囲を見渡す。石造りの壁、粗末な机とベッド、そして背の高い窓に掛けられたカーテン。部屋全体が、古い物語の中に出てくるような雰囲気だ。
窓に近づき、カーテンをそっと開けると、さらに驚くべき光景が目に飛び込んできた。夜空には、見たことのない奇妙な植物が生い茂る庭園。そして、その庭園の向こうには、空に輝く二つの月が並んでいた。
「……嘘でしょ」
まるで悪ふざけのような景色に、自分の頬をつねった。だが、痛みは確かに存在し、夢ではないことを告げている。
「……これは、流行りの異世界転生ってやつですか」
半ば呆然とした声が漏れる。フィクションの中の話だと思っていたそれが、自分の身に起きている。
もう一度、自分の記憶を探ろうと目を閉じる。すると、頭の奥にぽつりぽつりと肉体の情報が浮かび上がってきた。
──リリス・アストリア。17歳。魔法学園の二年生。魔法の才能が少しだけあり、成績は中の下。学園での目標は、彼氏を作って卒業後に永久就職すること。
「……私、誰かの体に入っちゃったの?」
驚きと戸惑いの中、リリスの記憶をもう少し掘り下げる。どうやらここは、魔法学園の女子寮で、現在は夜のようだ。
「とりあえず、自室に戻って整理しよう」
情報を得るために動くことにしたリリスは、部屋を出て廊下に踏み出した。そこには、蝋燭の灯りが揺れる石造りの長い廊下が続いていた。
──ああ、本当にファンタジー世界みたいだ。
動いて会話を交わしている肖像画や、時々動いて入れ替わる階段のようなものに驚きつつも、リリスの記憶を頼りに自室を目指す。
「なんとか……見つけた」
扉に記された「リリス・アストリア」の名札を確認し、扉を開けた。狭い部屋には、一人用の簡素なベッドと机が置かれ、物が散らかることなく整然としている。
扉を閉めると、リリスはようやく深く息を吐いた。
「さて、これからどうしようか……」
異世界転生。自分が最も無縁だと思っていた事態が、どうやら現実となってしまったらしい。
──帰れるのかも分からないこの状況で、自分にできることは何だろう。
リリスは、机に座り、元の自分の知識を思い返しながら、この奇妙な世界での第一歩を考え始めた。目の前の机には、羽ペンとインク壺が並んでいる。
──やっぱり魔法学園は羽ペンなんだね。
苦笑しながら、リリスは羽ペンをつまみ、手探りでインクをつけた。紙を前に、思考を整理するために書き出してみることにする。ペンを走らせると、不思議なことに、見覚えのない文字がするすると書かれていく。それを脳が自然と理解していることに気づき、驚くと同時に戸惑った。
「……異世界の言葉を勝手に読み書きできるなんて、便利だけど怖いな」
紙に書き始めたのは、まず今の状況だった。
1.この肉体の持ち主リリスの状況
・私はリリス・アストリア。魔法学園に通う二年生。17歳。中の下の成績。女子寮住まい。
・両親は亡くなっており、叔父の家で暮らしていたが、関係は冷えており、学園入学時にもう戻らないと決めている。
・引き出した記憶によると、彼氏を作って卒業後に結婚するのが目標だったらしい。
2.私としての主観的状況
・私の意識だけが別の世界、別のリリスの肉体に宿った状況。
リリスは書きながら、自分が直面している問題の複雑さを改めて思い知らされた。
──もし、私がリリスの意識と別の意識だと名乗り出たら?
精神科医に連れて行かれるだろう。それがリリスの結論だった。自分が別人格であると主張すれば、この世界ではどう解釈されるかわからないが、少なくとも不利益が生じるのは間違いない。特に未婚の女性として、この社会の中での立場が大きく損なわれるだろう。
──なら、名乗り出ない場合は?
その場合、自分はリリス・アストリアとして振る舞い、この学園生活を続ける必要がある。授業に出て課題をこなす。元の体に戻る方法が見つからなければ、この世界での生活を受け入れるしかない。
「でも……帰れる可能性は低いんだろうな」
ペンを止めて考え込む。心のどこかでは、もうすでに答えを理解している。異世界転生のような現象が起きた前例は、リリスの持つ記憶にも元の世界の知識にも存在しない。この世界に「異世界」という概念さえない。
──ゼロから研究を始めて、意識だけが世界を超える現象を解明し、さらに元の世界に戻す方法を確立する……?
そう考えるだけで気が遠くなる。必要な時間もリスクも途方もない。
「……帰れないのかもしれない」
ぽつりと呟いたその言葉に、自分自身が動揺する。帰れない。あの世界でたった一人の家族である、あの優しく賢い父親に会えない。
リリスの胸に押し寄せる喪失感が、じわじわと体を締め付けた。
幼い頃、母親を失ってから父親がいない時間は寂しくてたまらなかった。だが、彼が仕事から帰ってきた時の笑顔を思い浮かべて頑張ることができた。成長した今も、父と二人きりの実家で暮らし、科学の話をする時間が何よりも楽しかった。
──もう、二度と会えないなんて。
「お父さん……」
気づけば、リリスの目から涙が溢れていた。静かに流れる涙を止めることもできず、彼女は肩を震わせて泣いた。
蝋燭の炎が揺れる静かな部屋の中、リリスのすすり泣きだけが響いていた。
しばらく泣き続けた後、リリスはゆっくりと顔を上げた。目の前の羽ペンが淡い灯火に照らされて輝いている。その光景をぼんやりと見つめながら、ふと父親の声が頭に響くように思い出された。
──いいかい、仮説を立てて、実験して、検証する。それが科学の方法であり、楽しさだよ。
父から何度も聞かされたその言葉。科学者である父が、子供だったリリスに楽しそうに語っていた科学のプロセス。その考え方は、どんな世界でも通用するはずだ。この異世界と呼ばれる場所でさえも。
リリスは胸の内に灯る何かを感じた。それは絶望を越えて湧き上がる、小さな決意の炎だった。
──この世界には「魔法」と呼ばれる力がある。それを私は使えるらしい。ならば、科学の目で魔法を解き明かせるのではないか?
彼女は涙を拭い、机に向かってペンを握り直した。紙の上に走らせる文字は今度こそ明確な目的を持っていた。
「魔法を科学的な方法で研究すること」
その言葉を書き付けた瞬間、心にぽっかり空いていた穴が少しだけ埋まった気がした。
──これが、父との繋がりを保つ方法だ。父が教えてくれた考え方を、この世界で応用していけば、私は父と一緒にいるような気持ちでいられるかもしれない。
もちろん、自分がこの世界に転生してしまった理由もわからない。偶然かもしれないし、何か意味があるのかもしれない。でも、今のリリスにとって重要なのは、何をするべきかだった。
「まずは……文献だよね」
呟きながら、リリスは次の行動を考えた。この世界に魔法が存在するなら、その理論や使い方が記された文献があるはずだ。明日からはリリス・アストリアとしての生活をこなしつつ、隙間時間を見つけて図書館に通うことに決めた。
彼女は羽ペンを置き、紙を整頓して立ち上がる。小さな部屋の窓から、夜空に浮かぶ二つの月を見上げた。
──こんな世界で、生きていけるのかな。
不安はまだ胸に残る。でも、科学者であった父の娘として、自分ができることを一つ一つやるしかない。リリスは軽く息を吐いて、ベッドに横になった。
翌日から始まる新たな生活に向けて、心を少しだけ前に進めた気がした。
読んでいただきありがとうございます。評価やいいねなどなど頂ければ嬉しいです。




