《前編》白い蛇
草むらに身をひそめ、そっと息を殺す。
鋭い刃物のような光を宿すその瞳は、じっと一点を見つめていた。
まるで死んでいるのかと思われるほど、太郎佐の背中は微動だにしない。
おてんとさまのやわらかいまなざしがつむじをとらえたころだろうか。ようやっと彼の右手の指が、中弭につがえた矢筈を引き放った。
ひょうっ……と目の醒めるようなすがすがしい音を聞いたときには、すでに矢は野ねずみの首すじをひと突きでつらぬいていた。太郎佐がゆっくりと立ち上がる。ざくざくと草むらをかきわけて歩き、息絶えた野ねずみの前で立ち止まると深いため息をついた。
「ちっ。今日もこんなちんまいのしかおらんのか」
ぶつくさ言いながら野ねずみのしっぽをつかみ、ぶらぶらさせた。
近ごろ、山の様子がおかしい。猪や鹿などの生き物をとんと見かけなくなったのだ。野ねずみのような小動物まで探すのに難儀するというありさまだ。猟を生業とする太郎佐にとって、それは生死にかかわることである。
山になにかおかしなことでも起こっているのだろうか。だが、風はやさしく太郎佐のほほをなで、山はいつもの静けさをたたえるばかりだった。
太郎佐の家は、秩父の両神村を流れる煤川の上の集落と下の集落のちょうど真ん中にある。そこには太郎佐以外は誰も住んでいない。おとうとおかあは顔も思い出せないくらい昔に死んだ。それからひとりきりでずっと生きてきた。
さびしくないといえば嘘にはなるが、ひとりの暮らしには慣れっこだ。それに、年ごろの、無精ひげを剃って小奇麗な着物でも着ればそこそこ男前の若者とはいえ、貧乏でひとりぼっちの太郎佐のところへ嫁に来るもの好きな娘などいるはずもない。
たったひとつ、両親が遺してくれた弓を肩に引っさげて、太郎佐は次の日もひとりで山へ猟に出かけた。
「今日は下のほうに行ってみるか」
めずらしく煤川の下流域に足をふみ入れた。だが、下の集落までは行かない。他人様のなわばりを侵してはならない、暗黙の決まりごとがあるのだ。
「ちょっとひと休みするべ」
太郎佐が煤川のほとりで休んでいるときだった。とつぜん木々がざわざわと騒ぎ出した。空を見上げると、ばたたたっ……と一羽の鷹が羽ばたいている。よく見るとその足にしっかりとつかみ取られた一匹の白蛇が、身体をくねらせてもがいていた。
太郎佐はすっくと立ち上がった。と同時に弓をかまえて、迷わず鷹にねらいを定めた。猟師としての本能ではない。それがなんなのか自分でもわからなかった。ただ、矢が鷹を射落とす光景だけは鮮明に見えていた。
鷹と白蛇が落ちたと思われる場所へと走る。行き着くと、矢に貫かれた鷹はぴくぴくと泡を吹き、やがて息絶えた。あたりを見回す。白蛇の姿はどこにもない。首をかしげながらも、太郎佐の心はどこかほっとしていた。
その日の夕飯になる鷹を片手に、下の集落の裏山を登って帰ろうとしていると、大きなモミの木の下で女がひとり倒れているところに出くわした。
「おい、どうした。大丈夫か。しっかりしろ」
助け起こそうとその女の顔をのぞきこんだ太郎佐はたいそうおどろいた。その女の顔といったら、雪のように白くて、それはもう見たこともないくらいに美しかったからだ。
「足を……ケガしてしまって……」
声もうぐいすみたいにきれいだ。太郎佐はドキドキしながら、傷ついた女の足首に手ぬぐいを巻いてやった。
「おめぇんチ、どこだ? 送ってってやる」
そう言っておぶった女のからだは細くしなやかで、雲のように軽かった。だが女は紅い唇を結んだまま答えようとしない。
「帰るとこ、ねえのか?」
太郎佐がたずねると、女は小さくうなずいた。
「しょうがねぇなぁ。一晩だけだぞ」
しぶしぶという素振りを見せたが、心の中はちょっぴり浮かれていたかもしれない。
泊めてやるのは一晩だけのつもりだったが、気づくと二晩、三晩と過ぎ、女は太郎佐の家に居ついていた。
女のなまえは、つきねといった。つきねは飯炊きに洗濯とよく働いた。太郎佐も内心悪い気はしない。そりゃあ、ひとりよりふたりで囲む囲炉裏のほうがあったかいに決まっている。それに、つきねが来てからというもの、ふたたび山で猪や鹿が獲れるようになっていたのだ。ふたりで食うには困らない。
ある日、下の集落に住む男が太郎佐をたずねてやってきた。
「獲物を分けてくれねぇか」
つまり、こうだ。近ごろ、めっきり山の生き物が獲れなくなったという。ところが弓の名手である太郎佐はあいかわらず猟がうまくいっていると噂で聞き、獲物を分けてくれるよう頼みに来たというわけだ。
もちろん、ただでというわけではない。村の畑で採れた芋やら瓜やらをたんとくれるそうだ。太郎佐はこころよく獲物を分けてやった。
この話は上の集落の耳にも入り、彼らも太郎佐を頼ってやってきた。上でも獲物が獲れないのだという。こちらは木綿の反物なんかを手土産に持ってきた。もちろん、彼らにも獲物を分けた。
そうこうしているうちに、いつしか太郎佐は裕福な暮らしを手に入れていた。
「つきね、おめぇのおかげかな」
太郎佐が笑いかけると、つきねは白い頬を紅色に染めた。
それから一年以上たったある日のこと、いつものように下の集落の男がやってきた。その腕には、いつもより多めの芋がこぼれそうなほど抱えられている。
「おう、太郎佐、ちいとばかし頼みがあってよ」
声をひそめて、太郎佐の耳にささやく。太郎佐も自然と神妙な顔つきになる。
「裏山に大蛇が出て困ってるんだがよ、どうやらそいつが山の生き物たちを食っちまってるらしい」
男の頼みとは、その大蛇を退治してほしいとのことだった。太郎佐を弓の名手と見込んでの頼みだった。
「無理にとは言わねぇが……」
そこまで話したとき、部屋の奥のほうから赤子の泣き声が響いてきた。つきねが赤子をあやす。
「おっと、起こしちまったか。邪魔して悪かったな。大事な女房と赤子を大蛇に食われねぇように気をつけなよ」
男はそう耳打ちして帰っていった。
太郎佐はつきねと赤子をふり返った。赤子はつきねの腕の中でいつしかすやすやとかわいい寝顔を見せていた。昼間猟に行って留守している間に乳をたらふく飲むのか、赤子は太郎佐が家にいるときはたいていおとなしく寝ている。たまに目をさまして機嫌よく笑う顔などは、本当にいとしくてたまらない。こんなしあわせがいつまでもつづくもんだと信じきっていた。
ところが何日かして、今度は上の集落のもんがやってきて、下のもんと同じことを頼んで帰っていった。このしあわせを壊されてはかなわんと、さすがに不安に思った太郎佐は大蛇を退治することに決めた。つきねには怖がらせないよう黙っていることにした。
その晩、太郎佐は弓矢を肩に引っさげ、上の集落に向かった。坂の上から煤川下流域の裏山をのぞむ。すると一本のモミの木の下に、なにやら白く光るものを見つけた。目をこらしてじっと見つめた太郎佐は、その姿がはっきりするにつれておどろいた。
「あれは……つきねでねぇか?」
一年以上もいっしょに暮らしている恋女房を見間違えるはずはない。手の甲でごしごしと目をこすり、もう一度よく見た。間違いない。やはりあれはつきねだ。
「あいつ、なんであんなとこにいるんだ?」
と不思議に思っていると、なにかが彼女のふところでもぞもぞとうごめいているのが見えた。ふたたび目をこらす。
「あっ、あぶねぇ!」
太郎佐は思わず叫び、弓をかまえた。つきねの心の臓に白蛇が今にも咬みつこうとしているではないか。あれはいつぞや鷹から助けてやった白蛇かもしれない。
「白蛇め、恩をあだで返すようなまねしやがって」
逆上した太郎佐は無我夢中で、白蛇めがけて矢をひょうっと引き放った。弓の名手は一矢で獲物を仕留めた。
そのときだ。つきねの顔がみるみる怒りの形相にひょう変していったのだ。そうかと思うとつきねはあれよあれよという間に、天にも届くほどの大きな白蛇に変身してしまった。
太郎佐は腰を抜かして恋女房の変わり果てたさまを呆然と見つめていた。つきねの正体は、いつぞや助けてやった白蛇だったのだ。そして太郎佐ははたと気づいた。ではさきほど射た小さな白蛇はもしや……。
「俺の赤子か……?」
つきねの心の臓に咬みつこうとしていたのではなく、乳を飲もうとしていたのだ。だが、気づいたときにはもう遅かった。
ゴゴゴゴゴゴ……と不気味な地ひびきが足もとを揺らす。赤子を射殺されたつきね、いや大蛇は怒り狂い、はげしくあばれだした。山をひっくり返しては川向こうの山へ投げ飛ばしてぶつけている。その拍子になだれが起き、とうとう下の集落をあとかたもなく押し流してしまった。
下の騒ぎに気づいた上の集落の者たちが、いっせいに飛び出してきた。
「こりゃ、おおごとだ」
このままでは大蛇の餌食になってしまう。しかしどうしたらよいのかわからず、ただ右往左往するばかりだった。と、そこへ旅の老いた法師が通りがかった。なにやら禍々しい気配を感じて導かれてきたようでもある。
「法師さま、助けてくだされ」
村人たちが口々にすがる。旅の老法師は大きくうなずいた。
「諏訪の大明神さまを祀るのだ」
老法師の教えにしたがって、上の集落の者たちは大急ぎで祠を作って神さまをお祀りした。白蛇大権現諏訪大明神である。
「太郎佐はどうした?」
祠ができあがり、山崩れも落ち着いたと思われたころ、誰かがあたりを見回した。
「そういえば、どこいった?」
「なだれに呑まれて、おっ死んじまったんじゃねぇか?」
気づけば旅の老法師も消えていなくなっていた。
夏になると煤川下流域にはたくさんのアブが出る。ここらではススガワアブと呼んでいるが、どうやらこのアブ、山崩れで死んだ村人たちの亡霊らしい。
次回は「《中編》鎌淵の竜」です。