8 王子は昏惑する
朝の始まりを告げる柔らかな陽が、王太子の執務室に差し込んでいた。一足ごとに、ジルベルトの顔に刻まれたしかめっ面が深くなる。
「冴えない顔で、床がすり減るほど歩いておる。憂慮は、吐き出した方が楽になるぞ」
ジルベルトは歩き回っていた。足が止まらない。防音魔法を発動した。象牙色の光が、二人をすっぽりと覆った
「うっとうしいって罵ってくれ。俺は役立たずだ」
「ジルがいるから、安心してラズンマ学園を任せているんだよ。私が乗り出すわけにはいかない。何があったんだい?」
食い縛った口を抉じ開けて、屈辱の言葉を搾り出す。
「黎明の乙女がいない」
負けを認めた発言だ。身体が震える。
ヴィクトールの手が止まった。机の上には、王太子の決済を待つ書類が小さな山を作っていた。
「一考に値する」
「王太子殿下は、もう決済を始めている。真似できないよ。俺は四日も学園に通ったのに、何の成果も得られてない」
精力的に王太子の役目を熟すヴィクトールは、午前中の内に必要な決済を終えると評価されている。朝陽が満ちる執務室には、また文官の姿はない。誰よりも早くから執務を始めるヴィクトールの努力が、王宮を安定させ、タツフジ王国を安寧に導いている。
「ジルのための時間は、いつでも取れる」
ジルベルトは隠されている本棚から一冊の本を出した。東雲色の朝陽がページを染める。
「同じ色合いの乙女が、何処にも見当たらなかったんだ。ほら、この民間伝承の童話と同じ色合いの女子学生ならいた。体つきも申し分ない」
ヴィクトールが本を取り上げる。
「おっぱい乙女だな」
頷く。ジルベルトは八冊目に並ぶ童話を開いた。
「正しくは『ミルクの乙女』だったよね。巨乳伝説を確立したんだ。有難い乙女だよね。俺も随分とお世話になった」
どんな世話なのかは、憚られる。此処は王太子の執務室で、朝も早い。
「しっかりと書いてある。『幼子に乳を与える母を慰め、励ました。慈しみの眼差しで、乙女は乳母の手を取った』だ」
ヴィクトールに合わせて、重々しく頷き、軽く口を開いた。
「でもさ、挿絵がねえ。童話にしては、ほら、様々な欲を満たしてくれているじゃん。王太子殿下だって読み込んでるよね」
何度も、本を引き出したのだろう。撚れたページが多い。
「私だけではない。この本は、王族に受け継がれたんだ。ジルは本質を見失ってはいけない。胸の大きさや形が似ていることが、黎明の乙女の絶対条件ではない」
「分かってる。巨乳以外にも対象を広げるよ」
ジルベルトは苛ついていた。ラズンマ学園の入学が済めば、直ぐに黎明の乙女が現れると思っていた。
「おかしいだろう。王族に寄ってこない貴族子女がいる筈がないんだ。この民間伝承と同じ色の女子学生は、美人だ」
「銀鼠色の髪で藤色の瞳なら、美しいだろう。だがそれだけだ。黎明の乙女に、美しさは求めない。なぜなら、王族だけで十分に美しい。一年には、アンナニーナがいる。活用を躊躇うな」
幼い頃から、アンナニーナはジルベルトを兄と慕っていた。兄に寄せる以上の感情が、薄紅に染まった頬に浮かんでいたのを知っている。
「分かってる。アンナニーナは、俺を好きだからな」
アンナニーナの思いを踏み躙るような所業を思い浮かべて、苛つきが増した。ジルベルトにとっては、幼い頃から見ていた妹のような存在だ。進んで傷つけたくはない。慕う思いに応える心算もない。アンナニーナとの関りは最小限にしたい。
「女子学生の全員を、確かめる必要がある。寮にも入って、監視を強めろ」
「寮は勘弁してよ。あそこは、自由度が低いだろう? 王太子殿下の発言が過激だ」
「捕まえるんだ。何としてでも捉える。安易な手段を選ぶな。どんな犠牲を払ってでも、黎明の乙女を捕縛せよ。王族の悲願なのだ」
「縛っちゃあダメでしょう?」
「喩えだ。良いか、身も心も王族が捉えるんだ。万難を排して、黎明の乙女を探し出せ。逃してはならぬ。童話を先代の陛下が纏めて以来、王族が黎明の乙女を求めているのは、タツフジ王国では周知の事実だ」
「喧伝したからね。みんな大好きおっぱい乙女。今更、黎明の乙女ですって名乗り難いのかもよ?」
童話は、凡ゆる発展をして広まった。
「ジルなら、女子学生も声を掛けやすいだろう。私は、その、女子学生とは年が離れている」
アンナニーナの怯えを見せた反応を、ヴィクトールは気に病んでいるのだろう。寸分の憂いも見せないヴィクトールにしては、珍しい姿だ。
ヴィクトールは、常に勤勉な王太子としての態度を崩さなかった。厳然たる態度も、揺るぎない判断も、ジルベルトにはない王太子としての振舞いだ。
「良からぬ思惑も絡む。ラズンマ学園は貴族子女が集っている」
「そっちも、考えるのか? 難しいよ。要求が多過ぎ」
王族に取り入ろうとする勢力は、常に王宮に渦巻いている。
「名乗って来た女子学生を、信じ切れぬやも知れぬな。厳選が必要となる。成し遂げよ」
ヴィクトールが腕を振るって、話は済んだと背を向けた。
苛立ちに気落ちを加えて、ジルベルトは五日目のラズンマ学園に向けて足を引き摺った。
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