10 広いピロティで
入学五日目にして、シャルロッテは窮地に立たされていた。おさげを揺らして走る。逃げ道を探してピロティに出た。声が耳を掠めた。
「なあ、誰だと思う?」
「生徒会が、投票を検討しているようだぜ」
何の投票かを考えたくない。塞いだ耳に、無情にも声は入り込んできた。
「誰が、黎明の乙女か?」
消えてなくなりたい。ラズンマ学園は、黎明の乙女の話題で沸き返っていた。何処にいても、黎明の乙女を求める声がする。
気鬱になるほどの熱気を孕んで、黎明の乙女の到来が求められていた。
「二年男子の総意はカレンに傾いている。でもなあ、勉強が嫌いらしいじゃん」
「男爵令嬢を選んで良いのかってもの、検討が必要ですわよ」
女子学生も話に加わった。
「完璧なる数学の理論展開を出来る女子学生がいたらしい。三年生にだっていない。ほら、あっちだよ。あんなに幼い足で撥ねるように走り去った。私が守ってやる」
守るなら、追いかけないで欲しい。数学を教えてくれたダリルを疎ましく思ったのは、始めてだった。
「公爵令嬢もいるけど、数学が得意なのは、伯爵家の――」
「シャルロッテだよ。古典の音読だって麗しかったぜ。解釈を教えて欲しいんだ」
名札を付けていなくても、シャルロッテは注目を集めた。授業でも振舞いを思い出して、怖気が走った。
「俺はぜひ、生徒会に誘うよ。愛らしいから側に置いて、抱っこしてあげるんだ。黎明の乙女が誰かを、一緒に考えたいよね」
生徒会に入ったら、愛玩対象か検討対象になってしまう。怖ろしい学園生活の末路だ。絶対に避けたい。
シャルロッテは、領地での日々を思い返した。古典を読むのは造作もない。乙女ギャラリーでは、歴史は古い言葉で書かれていた。何度も読めば、古典も正しく読める。
「シャルロッテが素晴らしいのは、エビデンスの捉え方だよ。事実の積み上げのみが、根拠となるって言い切ってた。先生だって、手を叩いて頷いた。シャルロッテと一緒に、黎明の乙女についてのエビデンスを浚うんだ」
領地での日々さえも、怨めしくなる。シャルロッテの些細な発言が、大仰に評価されている。
「エビデンスの発表を『青踏の集い』でしてもらいたい」
青踏の集いは、新入生を歓迎する春の散策だ。
「素晴らしき計画だ! そのまま生徒会へ是非、勧誘しよう」
歓声が上がっている。青踏の集いで話をしたら、今以上に目立ってしまう。
生徒会は、優れた学生の集まりだと評されている。学業のみに留まらず、容姿や身分や慈善活動など、生徒会が求める優秀さは多様だ。
生徒会への所属は、その後の社交界へと通じ、任官への足掛かりともなる。生徒会への誘いは、名誉となっても汚点にはならない。
公爵家のアンナニーナは、生徒会の見学に行くと話していた。
「生徒会は、まっぴらごめんです」
呟く声も、小さすぎて決意は風前の灯火だ。シャルロッテは、平穏無事にラズンマ学園の一年課程のみを修了する予定だ。その後は、ガルガドル領の別邸に引っ込む。
「私は皆が望む黎明の乙女には、なれません」
多くの童話に描かれるような偉業へ繋がる芽吹きさえも、シャルロッテの中にはない。
シャルロッテの小さな願いさえも、追い駆けて来る足音の前に揺らぐ。
「ああ、飛び込みます」
ピロティの東の隅に、シャルロッテの見つけた茂みがあった。すっぽりと身体が収まる。頭の上には蓋をするように、木立が枝を伸ばしている。小柄なシャルロッテなら、身を潜めることができた。五日間で、八回に及ぶ逃走だった。ランチタイムも放課後も、シャルロッテは懸命に走っていた。
「私を追いかける人が多いのは、何故でしょうか? ランチタイムには毎日、アンナニーナを訪ねてジルベルト第二王子殿下が現れる。最悪です」
もう聞きなれてしまったアンナニーナを呼ぶ、甘いジルベルトの声が耳に残っている。甘露滴る声がして、直ぐにシャルロッテは踵を返す。まだ、ジルベルトの顔を見ていない。避けることはできていた。
「今日も殿下を避けたら、後ろから来た一年の男子学生にぶつかった。伸ばされた手を避けたら、今度は二年の男子学生が横から引っ張った」
握られた腕を何度も擦る。
「真面目に授業で答えただけです。それにアンナニーナの側にいると、第二王子殿下が来る。逃げ出すと、男子学生に追われる。学園に慣れていないから、迷子になって、助けてもらって、そうしたら――」
思い出したくない。男子学生には、何度も名前を聞かれた。強引なエスコトートもあった。一緒に勉強をしようとの誘いは、引きも切らない。
「応じないと、可愛い恥ずかしがり屋だと言い寄られました。そんな、破廉恥な振る舞いが学園で行われ許されるのでしょうか?」
拳を握った。返事は分かりきっていて、虚しい。許される。エスコートも名乗りも、一般的な社交儀礼だ。
カレンは、常に男子学生にエスコートされている。朝から男子学生と寮から登校する。男子学生を侍らすカレンの姿は、同じ制服なのに輝いて見えるから不思議だ。
時折、オリヴィアも親族の男子学生と歓談していた。教室の雰囲気を明るくする会話が、オリヴィアから発せられる。近くに呼ばれるが、首を振ってシャルロッテは辞退した。男子学生との会話は荷が重い。辛い。避けたい。考えたくない。
アンナニーナは公爵令嬢らしく付き合いが広い。誰もが王族との接点を求めているようで、アンナニーナの周囲は華やいでいる。
シャルロッテは、囲む若芽の中に身体を沈めた。
「静かな場所があって、救われます」
鞄の中を探って、パンを出した。
「マチルダ義姉様が、荷物に入れてくださった。これが最後のパンです」
ブールのような丸いパンだ。オレンジピールが錬り込まれている。
口に含むと、懐かしい味がした。食むと、微かなオレンジの苦みが次第に甘くなっていく。ガルガドル伯爵家の料理長が作る自慢の一品だ。
「帰りたいです。そうよ、もう、入学しました。招集には応じました」
追いかけられ、シャルロッテは勝手に追い詰められていた。
優秀な学生に共に学ぼうと声を掛けるのは、学問を深めるためには当たり前だった。迷った一年生を助けるのは、上級生の普通の姿だ。
逃げるから追いかけられるという簡単な事実に、シャルロッテは気付いていなかった。冷静に考えれば、自ずと対処はできる筈だった。共に学び、軽い会話をし、生徒会の見学をして、やんわりと全てから身を引けば済む。
だが、今のシャルロッテは黎明の乙女に自意識過剰になっていた。何事にもセンシティブに反応し、シャルロッテの思考はネガティブ方向に振り切れていた。
「次は、退学します。一年を待っていられません」
退学すると決めたら、シャルロッテは気持ちが弾んできた。
「乙女ギャラリーに吹く風と似ています。『学びの乙女』と呼ばれたロッテリカは第九代の黎明の乙女でした。ランズマン学園を創りました。ピロティの設計にも拘ったのは、乙女ギャラリーに似せているからでしょうか」
ピロティに吹く風や差し込む光が、乙女ギャラリーと同じだった。シャルロッテは、乙女ギャラリーでしていたように声に出して問い掛けた。
「退学の理由を考えましょう。病気や怪我だと、父様が心配します。学業の怠慢だと、兄様が教えに来てしまいます。他には、友人関係の悩み。義姉様がすっとんでくるかしら。難しいですわ」
目を瞑る。ピロティに吹く風が、前髪を撫でて行った。走り回って荒かった息も落ち着いてきた。
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