6 気味の悪さ、気持ち悪さ
「フッ……」
「何笑っているんですか。気持ち悪いですよ。橘さん」
「これは、失礼。思い出し笑いです」
と、いきなり笑い出した橘さんは自分の口元を抑えて謝った。まだ、ツボに入ったままなのか、くふっと笑いが漏れている。口角が気味悪いほど上がってて、背筋がゾゾゾっと震える。やはり、よく分からない人だと。あまり、自分に踏み込ませるのはよそうと思えるほど、気味が悪かった。
だが、良好な関係でいようと思うのは、少なくとも、自分の担当編集者だからだろう。肯定ばかりじゃなくて、しっかりと、自分の欲しいアドバイスや指摘をくれる。そして、仕事面においては、全く心配いらない、信頼できる人間だったから。
ただ、人間性が。
「本当に、気味が悪い……」
「気味が悪いですか」
「はい。誰が見てもそう答えると思いますよ?私の目を疑っているんですか?」
とんでもない。と、橘さんはまた笑う。はっつけたような笑みを浮べる物だから、私は自分でも分かるぐらい肩眉がピクリと動く。何を考えている変わらないこの人は本当に、恐ろしいと。まあ、人目も気にせず怒ったり、求愛してくる夏目もどうかしているが、何を考えているか分からない人間の方が怖いって言うのは、人間の本能的に考えればそうだろう。
「いえ、ただ、前世のことを思い出しまして」
「前世の話はいいです。前にも言いましたが、私はイヴェールじゃなくて」
「ええ、分かってますよ。僕は、連城冬華という一人の女性が好きなんですから」
「……」
「そんなに怯えなくても大丈夫ですって。ああ、それで、前世の話……相葉春夏秋冬の前世のことを思い出していて、笑えてきてしまって」
「興味が無いので」
私がそうはっきり言っても、そんなことを言わずに。と、話したい様子だった。あまり、橘さんは自分の話をしないというか、人に興味が無いものだと思っていたから、以外だったが、相葉の話ならまだしも、前世の話は別に聞きたくもないと思った。と言っても、相葉も前世のことがあって、今私に話し掛けてきているから、聞いておいても損はないだろうとは思う。聞きたくないだけで。
「彼勘違いしているんですよ?愛されたことがないから、愛されたいって……自分が愛される人間だと勘違いしているんです」
「本当に、橘さんって怖いですね」
私はそんな感想しか出てこなかった。
橘さんから、見て相葉はそういう人間なんだ、前世でもそうだったから、今世でも勘違いをしている。と言いたいのだろう。それは、分かるし、私もそういう結論にいたった。相葉が、私に何を求めていて、それはもしかしたら気の迷い、勘違いじゃないかという事は。私は分かっていた。
それを、面と向かって、というか、橘さんから暴露されたところで、私が揺らぐとか驚くとかはない。それよりも、橘さんの性格がかなりヤバい……と言うことだけが浮き彫りになって、彼はもう隠す気がないのだろうと思った。何でこれまで、隠し通せてきたのか恐ろしくなるぐらいに。
「僕が怖い、ですか」
「怖いですよ。先ほども言いましたが、気味悪いですし」
「どの辺がですか?」
と、橘さんは食い気味に聞いてきた。
何故、聞いてくるのか。自分の悪いところを聞いて直す、という風には捉えられないし、聞いて傷つく人間の方が多いのでは無いかと思った。でも、橘さんは、自分の気味悪さに気づきながらも、私に言って欲しいと思っているのだ。
それは、もしかしたら、自分だけに向けられる感情に興奮しているのではないかと、そう思えるぐらいに。
(本当に、気持ち悪い)
彼は信用出来る人間だ。信頼の出来る人間だ。
勿論、それは仕事面に関してのことだけなのだが、彼がいなければ、私の本は売れることがなかっただろう。私をデビュー当時から支えてくれて、アドバイスも、本が売れるようにと汗水垂らしてくれたのは橘さんだった。彼の仕事に熱心なところ、彼の集中力、責任感に私は惹かれていた。恋愛的な意味ではなくて、本当に尊敬の域に達していた。本は、作家だけで創り上げられる物じゃない。編集や校正、私の本を書店に置いてくれる本屋や、読んで重版をと推してくれる読者がいるからこそなり立っている。それでも、橘さんの役というか、ポジションは大きいのだ。私が本を出す上で。
だからこそ、彼がいなくなることとか、彼が担当から外れることを私は考えられない。だけれど、彼の本性を知ってからは、壁を作ってしまうのだ。
底知れぬ狂気が渦巻く彼に、私はどんな顔を貼り付けて会えばいいのだろうかと。
「どの辺って……」
「ああ、でも、僕も隠すのが上手だと思いませんか?連城先生は、ここまで気づかなかったわけですし」
「……何が言いたいの?」
「いえ、何も。相葉春夏秋冬は略奪愛は燃えると言っていましたが、僕はそう思いません。これでも、一応、前世は騎士だったもので。忠誠心というのはそれなりにはありますし、駆け落ちをして主人を裏切ることは考えたことありませんね。ですので、連城先生が、夏目さんと籍を入れた後は手を出そうとは思いません。これでも、連城先生の幸せを望んでいるので」
と、橘さんはにこりと笑った。その笑顔の下に何が隠されているとか、考えるのはもうやめにした。本心で祝ってくれているのは、分かったから。
「そう、なら、もう私にアプローチしてくるのはやめて」
「連城先生からの浮気は大歓迎ですよ?」
「……」
「すみません、冗談です。それはそうと、時間は大丈夫なんですか?」
橘さんは、思い出したというように私を見た。正確には、私の服装を、だが。
(観察眼が鋭いのも考え物ね……)
私は、橘さんに言われてから思い出したが、今日は、夏目と待ち合わせをしているのだった。この間の件があってから、そこまで日は経っていないが、早めに挨拶に行った方が良いだろうと、結局の所、まだプロポーズは受けていないのに、夏目の父親と顔を合わせにいくのだ。
正直なところ、私は、自分の父親や、母親のことをよく思っていないし、そもそも何処にいるかも分からない状況。そんな私が、結婚となればまた話がややこしくなると。夏目は、家族がいようが、いまいが関係無いと言ってくれたが、御曹司の、財閥の跡継ぎの妻にもなる人間がこれでいいのかとは思ってしまう。
「時間……そうね、そろそろ行くわ」
私はそう言い残して立ち上がる。お言葉に甘えさせて貰って、今日のお茶代は橘さんが請け負ってくれることになった。こちらが色々相談しているのだから、相談料として払わせて欲しいところなのだが、橘さんはそれをよしとしなかった。律儀というか、堅いというか、橘さんらしいとは思う。
相葉のことは、橘さんに任せて……いいや、もう少しで私がやったことにも意味が出てくるはずだし、かける言葉は決まったから、どのタイミングで出てきてくれてもいいと思っている。ただ、早くけりを付けたいと言うだけで。
「連城先生」
「何?橘さん」
「貴方が僕の物にならなくても愛しています。なので、任せて下さい」
「……」
その一言がなければ最高だった。
けれど、この人はこういう人と割り切って、私は橘さんに背を向ける。カフェを出れば、その出入り口付近で通行人の視線を独占する男が待っていた。
「目立たないようにして……って、今日は言えないけれど、もう少し、まちかたというものがあるんじゃない?」
「俺は、俺の生きたいように生きる。話し掛けられたりもしたが、親に恋人を紹介しにいく日に、他の女にうつつを抜かすことはないだろう。俺は、お前にしか興味が無い」
「はい、そうですか」
夏目は、私を見つけると、遅いというように目を細める。時間はぴったりなはずなのに、不機嫌だなあ、何て思いつつも私達のことをこそこそと話す人の姿がちらほらと見えた。
(釣り合っていないとでも言いたいのかしら)
夏目も言ってしまえば、有名人だから、その隣に並ぶ女が私、と言うことに不満を抱く人がいないわけでは無いだろう。羨ましいと思ってくれれば良いのだが、不釣り合いだとは言われたくないと思う。まあ、人の感情なんて操作器出来ないわけだから、黙っている敷かないんだろうけど。
「どうした?」
「何でもないわ。いきましょう」
「さっきも言ったが……いや、常々いっているが、俺が愛しているのは冬華だけだからな」
「はいはい。だから、愛しているなんて軽々しく言わないの」
「冬華!」
私が誤解しているとでも思っているのだろう、夏目の焦った声が私の耳にはいってくる。別にそんなこと思っていないし、寧ろ必死になっている夏目を楽しんでいるところもある。何にしろ、彼は、私に夢中なのだから、私が心配する必要なんて一つもないのだ。
彼が、私に心配させてくれないから。
(それは良いとして……顔合わせね……)
雑誌や、ネットで夏目の父親のことは把握したが、何とも威厳ある偉い人というのが画面越しに伝わってきた。顔も、渋いし、どちらかと言えば怖い印象を受けた。顔がどうこうと言うつもりはないが、やはり身は小さくなってしまう。
大丈夫だと、言い聞かせながら、私はズレてきていた鞄をかけ直す。
「冬華、そう堅くならなくても良いんだぞ?」
「……お見通しって?それが言いたいだけ?」
「いや……実は……ああ、これはネタバレ?と言うものになるらしいからな、言わないでおこう」
と、夏目は、クスリと笑った。いったい何がネタバレなのか。だが、夏目の顔を見ていると、彼は、面白いことになりそうだと言わんばかりに満面の笑みを浮べていた。