6 何度言わせるの?私はイヴェールじゃない
「な、何言ってるの?相葉君」
私は彼に抱き締められたまま必死に抵抗しながら声を出す。
だが、そんな私にお構いなく彼は続ける。
その顔は、狂気に染まった笑顔をしていた。
私は、こんな彼を見たことがない。どうして、彼がこんなことをするのか分からなかった。
その笑顔が以前の橘さんに見えて、震えが止らなかった。
「アンタは俺の運命なんだ。ずっと、ずっと探し求めていたんだよ」
「ち、ちょっと待ってよ!私はあなたのことなんて知らないし、貴方だって私の事なんか――」
「ああ、知っているさ。俺はアンタのことをよく知っていた。ずっと昔から。ああ、どうして忘れていたんだろうか」
そう言うと、彼はゆっくりと私から離れていく。
私はそれを確認して逃げ出そうとするが、すぐに彼の手が私の肩を掴んだ。
そして、私を抱き寄せるとその耳元で囁いた。その吐息がくすぐったくて、私は身を捩るが彼から逃れることは出来なかった。
私は、その行動に恐怖を感じて彼を突き飛ばした。すると、彼は驚いた顔をしたが、次の瞬間には嬉しそうな表情になった。その目はギラついていて、今にも私を食べてしまいそうだ。
「酷いなあ、イヴェール様。俺の事忘れちゃったのか?」
「私は、イヴェールじゃない。それに、彼女はフィクションの世界の住民よ。現実にはいない」
そう言って私は、自分の手をぎゅっと握る。
この手は冷たくて、心までがたがたと寒さで震えているようだった。
ただ、目の前の男が怖かった。
彼は私の事をイヴェールと呼んだ。それは、あながち間違いではないのかも知れないが間違いである。
相葉が纏っていた空気は一変し、鋭く研ぎ澄まされた刃のようになっていた。
まるで、そう……人を殺したことのあるような独特な。
「いいや、俺には分かる。間違いない、アンタはイヴェール様の生まれ変わりだ。だって、アンタとぶつかったとき思ったんだ。どこかであったことあるって……な」
そう悠々と語る彼は、私をじっと見つめる。
その瞳はまるで獲物を狙う獣のようで、私の背筋に冷たいものが走った。
私はまだ震える身体を抑えながら口を開く。きっと、このままだと彼は私を殺しかねない。いや、それは現実的ではなかも知れないが、今の彼は危険だとそう頭の中で警鐘が鳴り響く。
私は必死で言葉を紡いだ。
「もしそうだったとしても、今の私には関係無い。それに、貴方のことは本当に覚えていないの。あの時、ぶつかったのが初めて」
「……あの時は、アンタを連れ出すのに失敗した。だから、今世は幸せにする。あの金髪野郎に囚われてるんだったら尚更俺がっ!」
そう相葉は叫んだ。
連れ出すとか、今世は幸せにするとか全く意味が分からなかった。私が今不幸だとでも言いたいように。
それに、金髪と聞いて私は夏目の顔をすぐに思い浮かべた。
その口ぶりからするに、夏目がエスタスだったと言うことも知っているらしい。それに、誤解している……いいや、それがイヴェール・アイオライトの人生であったから間違いではないのかも知れないけど。
エスタスを愛していたが故に自害した。それがイヴェール・アイオライトなのだから。
私は、相葉を見た。
相葉の後ろにあった鏡には、彼の今の姿とは違い暗殺者のような服を着た相葉に似た誰かが映っていた。きっと、それは彼の前世の姿なのだろう。
「まあ、あんな金髪野郎よりも警戒すべきはあの担当編集者?何だけどな」
相葉はそう言うと、私の頬に触れようとした。
私は咄嵯に身を捩り、それを避ける。
触れられたくなかった。私はそのまま彼の手を振り払うと、彼のことを睨みつけた。
そんな私を見て、相葉は悲しそうな表情を浮べる。
「以前のイヴェール様は、大人しくて弱々しくて溶けてしまいそうなほど儚かったのに、今は何処か棘のある。冷たさは変わってないけどな」
「酷い言われよう」
「貶してるわけじゃない。どっちも好きだって言ってんだよ」そう言うと、彼は私に一歩近づいた。
思わず後ずさるが、狭い部屋の中では直ぐに鏡にぶつかる。
私は逃げる場所が無くなって、その場で固まってしまった。
相葉の手が私の顔の横の壁に置かれる。そして、逃げられないようにして、彼は私の耳元で囁いた。
その声は甘く、それでいて冷たいものだった。
私の鼓動は、ドクンドクンと激しく脈打つ。
しかし、顔は真っ青だっただろう。彼は私の反応を楽しむかのように笑うと、更に追い打ちをかけるように言ったのだ。
私は彼に殺されるかもしれない。
その恐怖に身体は震えだし、呼吸が苦しくなるのを感じた。
相葉はそのままゆっくりとした動作で、私から離れていく。まるで、獲物を狙う獣のように目を光らせながら。
(……このままじゃ、まずい!)
そう思い、ようやく動くようになった身体は、相葉を押しのけ、走り出した。後ろで、相葉の笑い声を聞きながら私は必死に走る。取り敢えず逃げなきゃと、何度も何度も鏡にぶつかっては、出口を探す。そんなに広くないはずなのに、前のように一向に出口が見つからなかった。
(ここは現実よ?そんなことあり得ないじゃない)
そう頭では言い聞かせるが、転生というものがあり得る世界らしいので、私の理論は通じないのかも知れないと思った。そんな屁理屈を言っている暇があるなら、走れって言う話なんだけど、獲物を狩るハンターが追い詰めるように、また袋小路にでも追いやられているんじゃないかと錯覚してしまう。相葉はそんなに頭がいいように思えなかったが、前世彼がもしも、仮に暗殺者だったとして、そういうのに長けているものだったとしたら、まず私に勝ち目はないだろう。さすがに殺しはしないだろうが、彼に捕まったら何をされるか分からない。そんな一心で走った。
(早く誰かと合流できれば……)
夏目は? 春音さんは? 橘さんは? と兎に角誰でもいいから探そうと思った。ここでは、過去何があったか……というのは取り敢えず置いておいて、誰でもいいから合流できればいいと思った。でも、こんな暗闇の中闇雲には知って出会えるようなものなのだろうか。
後ろからついてくる足音を聞きながら、自分の心臓の音が、相葉に場所を知らせているんじゃないかとすら錯覚してしまう。
(……相葉は、前世のことを思い出したって言っていたけど、彼は……)
記憶にないわけではなかった。思い当たる人物が一人浮上し、もしかしたらという気にもなる。それがあっているか確かめる術はないし、夏目も春音さんも、橘さんも転生者だと知ったけど、知った上でフィクションよねと片付けることにしているから、今更前世のことを相葉に言われても、今の相葉のことしか分からない。知りたくもないけれど。
「はあ……はあ……ッ!?」
「ほら、走らないの?それとも、俺に捕まえられたいとか」
「……ッ」
目の前から現われたオレンジ色に、私は心臓が飛び跳ねつつも、来た道を戻ることにした。やはり先回りをされていたようだった。でも何で分かったのだろうか。
(地図のない迷路なのに。矢っ張り、暗殺者とかそう言うのだったのかしら、前世)
そして一つ思い出したことが会った。それは、イヴェールの周りに不審人物がいた……ということ前に本で書いた気がしたからだ。勝手に前世をフィクションとして取り上げて画いているけれど、実際、起ったことらしいから(夏目と、橘さん曰く)あり得る。書いているときは、モブキャラって言う感じの立ち位置だった気がしたけど、モブキャラにしては私は珍しくオレンジ色の髪色をチョイスしていた気がする。
「……ッ」
そう考えたとき、ズキンと頭が痛んだ。
額を押さえ、もう片方の手は、鏡につく。もう少しで何かが思い出せそうだったからだ。でも、霞んでいてよく分からない。
(前世の記憶……イヴェールの隣には誰が……?)
隣、というよりか、まだイヴェールがエスタスにそこまで怒りを覚えていなかった頃、誰かと話していたような気がする。その人物が、オレンジ色の髪で……
そう考えながら、よたよたっと歩いたとき、前からドンッと誰かとぶつかった。もう、追いつかれたのかと、私が顔を上げると、目の前に手が差し伸べられているのが見えた。
「大丈夫ですか?連城先生」
「たち、ばな……さん?」
顔を上げると、その手を差し伸べていた人物の顔が露わになった。闇の中でもその輪郭がはっきり映し出され、彼だと分かる。
橘さんは、大丈夫ですから。と、微笑んで強引に私を起き上がらせた。