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「イヴェール様ここから脱出しましょう」
「え、え……えっと、突然どうしたんですか?セイズーンさん」
ある日、セイズーンはそう思い切ってイヴェールに告げた。
しかし、その言葉をイヴェールは理解していないのか首を傾げるだけだった。
それを見たセイズーンはため息を吐く。
「ここにいては、いずれイヴェール様は押しつぶされてしまいます」
「セイズーンさん、ごめんなさい。話が見えなくて」
困ったような表情をするイヴェールに、セイズーンはもう一度深呼吸をして覚悟を決めたように言った。
イヴェールに、皇宮に住まう人間がイヴェールをどう思っているのかを。
イヴェールは、何も知らなかった。
だから、イヴェールには幸せになって欲しかった。
そのためにも、ここから出るのが彼女の幸せだとセイズーンは信じて疑わなかったのだ。
けれど、それを口にするのはあまりにも酷だった。なぜなら、イヴェールにとってこの生活が当たり前だったから。
セイズーンはその事実に唇を噛み締めるが、それでも伝えなければならないのだ。
彼女は、このままでは駄目なのだと。
「ここにいる人達は貴方のことを良く思っていない。それはきっと改善できないことです。どれだけ貴方が努力しても」
「なんで、そんなことを……」
「だって、そうでしょう?貴方はここにいるべき人間ではない」
「……っ」
「貴方は、自由になるべきです」
「……私は……」
セイズーンの言葉を聞いたイヴェールは顔を伏せ、小さく震えていた。
その様子に、セイズーンは胸が痛む。
けれど、もう引き返せないのだ。
そして、とうとうイヴェールが顔を上げた。
その瞳からは涙が溢れており、頬を伝っていた。
セイズーンはラピスラズリの瞳を大きく見開き、自分の何が間違っていたのかとトンカチで頭を殴られたかのような衝撃を受ける。
「セイズーンさんの言うとおりです。私はここの人達に歓迎されていません。殿下に婚約者が現われてからはもっと……」
「それならッ!」
「ですが」
と、そこでイヴェールは声を張り上げるが、すぐに弱々しい声で続ける。
セイズーンが何か言おうとしたが、それを遮りイヴェールは口を開いた。
セイズーンが心配してくれていることは分かっていたが、それでもイヴェールは決意していたのだ。
「私は、セイズーンさんやイェシェイン……少しでも私を気にかけてくれる人がいるならそれでいいのです。大多数に嫌われていても、私はそれでいい。どうしても愛されたいわけじゃないんです。愛されたいから、愛しているわけじゃない」
そういって、イヴェールは俯いた。
しかし、セイズーンは雪のように儚い彼女の強さに心を打たれた。
だからこそ、セイズーンは彼女に言わなければならないと思った。
イヴェールを皇宮の外へと連れ出すために。
「イヴェール様、俺と――――――」
「何をしているんですか」
ぴしゃりと 、冷たい声音が響いた。
それは、今まで聞いたことがないような冷たく突き放すような響きを持っていた。
セイズーンはイヴェールに伸ばしかけていた腕を引っ込めて声のした方を振返る。
するとそこには、凄い見幕でこちらを睨み付けている騎士イェシェインの姿があった。
「これはこれは、イェシェイン卿……少し、イヴェール様と世間話を。ね?イヴェール様」
「え、あ……えっと、はい。そうです」
セイズーンが笑顔を浮かべて言うと、イヴェールは戸惑いながらもこくりと首を縦に振る。
その様子に、イェシェインは更に表情を険しくさせ、一歩前に出た。
そして、鋭い眼光で二人を見る。
セイズーンはその瞳から目を逸らさずに、真っ直ぐに見つめ返した。
しばらく無言で二人は睨み合うが、先に口を開いたのはイェシェインだった。
「手を握って世間話ですか。一使用人が、殿下のお気に入りの女性に触れるなどあってはならないことです」
「一使用人ねえ……」
セイズーンは肩をすくめて呟いた。
それに、イェシェインは眉間にしわを寄せ、さらに言い募ろうとしたが、その前にイヴェールが動いた。
「け、喧嘩はやめてくださいっ!」
と、両手を広げて二人の間に入るイヴェール。
そんな彼女を見て、セイズーンは内心で苦笑いする。
(大胆なお姫様だ……俺に背中なんてみせて。ターゲットだったらさぞ殺しやすいだろうな)
と、セイズーンは思う。
イヴェールの白く細い首筋が目に入り、彼は舌なめずりをした。
今なら、簡単に殺せるかもしれないと。
そこまで考えて、セイズーンは自分の考えを否定した。
セイズーンはちらと横目にイヴェールを見た。
彼女は不安げにこちらの様子を窺っており、まるで小動物のようだ。
その姿にセイズーンは笑みを深めて、そっとイヴェールの髪をすくう。
イヴェールはびくりと身体を震わせて、恐る恐るとセイズーンの方へ顔を向ける。
セイズーンはそれを確認してから、再びイェシェインを睨んだ。
「確かに俺は使用人だけどさ、お前には関係ないことだろ?」
「……イヴェール様少し、お話があります」
イェシェインはセイズーンの話を無視し、イヴェールに声をかけた。
そのことに、セイズーンはさらに不機嫌になる。
そして、イェシェインはセイズーンを押し退けて、イヴェールの手を取った。
イヴェールは戸惑ったようにセイズーンを見てから、イェシェインに視線を移す。
「え、えと……そのお話とは?」
「……殿下が」
「殿下……が、私を、ですか?」
イェシェインはコクリと頷く。
すると、イヴェールの顔色がサッと青くなった。
イヴェールのその反応に、セイズーンは目を細める。
「その、なんの用なのか……イェシェインはご存じですか?」
「いいえ。しかし、殿下がイヴェール様を呼んでくるようにと」
「……」
イェシェインの言葉に、イヴェールは困ったような表情を浮かべる。
それから、ちらりとセイズーンをみて、申し訳なさそうな笑みを浮べる。
「……分かりました。ありがとうございます」
と、イヴェールは頭を下げこの場を後にした。
それを、イェシェインは心配そうに見送る。
そして、彼の姿が消えるとすぐにセイズーンの方を向いた。
セイズーンはそれに気づきながらも無視して、イヴェールの髪の感触を思い出していた。
柔らかく、ふわりとした手触り。
それはまるでシルクのように滑らかで、いつまでも触れていられる気がする。
セイズーンはうっとりとして、イヴェールの消えた方向を見る。
「何処へ行くつもりですか」
「また、俺の邪魔をするのかよ。騎士様」
セイズーンはイェシェインの声に振り返る。
イェシェインは眉間にしわを寄せて、セイズーンを睨んでいた。
そんな彼に、セイズーンは肩をすくめて見せる。
そして、そのままイヴェールの後を追うために歩き出したが、イェシェインに行く手を阻まれた。セイズーンは不機嫌そうに舌打ちをして、彼を睨む。
そんなセイズーンに構わず、イェシェインは口を開いた。
その声は冷たく、怒りを含んでいる。
「この間は見逃しましたが、今回はそうはいきません」
「何の話だ?」
セイズーンは首を傾げる。
すると、イェシェインは顔をしかめた。
彼はため息をつくと、ゆっくりとセイズーンに近づく。
セイズーンはそれを避けようとしたが、イェシェインの方が早かったようで腕を掴まれた。
「ハハッ……馬鹿力」
「そうですね。貴方と違って軽い武器を扱っているわけではないので。その懐に隠したナイフとか」
セイズーンの腕を掴むイェシェインの手の力が強くなった。
その痛みに、セイズーンは思わず苦笑いを浮かべる。
しかし、イェシェインは険しい表情のままだ。
そして、セイズーンから手を離すと腰に差した剣を引き抜いた。銀色に輝くその刃は、日の光を浴びてキラキラと輝く。
その輝きは美しいと思う反面、セイズーンにとっては恐ろしいものだった。
そして、イェシェインはセイズーンに向かって振り下ろす。
セイズーンはそれを、素早く避けた。
「……ッ!あぶねぇじゃねえかっ!」
「今回は見逃します。貴方がプレメベーラ様を暗殺しようとしていたことも全て。ですが、今度イヴェール様に近づいたらその首が飛ぶと思ってください」
そういってイェシェインは剣を鞘にしまう。
イェシェインはもう一度セイズーンを睨んだ後踵を返しその場を去った。
残されたセイズーンは舌打ちをし、イェシェインの後ろ姿を見送った。
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