目が覚めたら推しになっていた
あまりにも遅すぎた、とまず思った。せめて署名してしまう前にして欲しかった。
目の前には一枚の書類があって、そこには「ハリエット・アルニラム」と記されていた。今の私の名前だ…そう、今の。
「……ハリエット様、どうかなさいましたか?」
固まってしまった私を心配してか、傍らに控えていたメイドがそう声をかけてきた。私はぎこちなく「大丈夫」と返す。
ああ、頭がぐらぐらする。思い出したのだ。思い出してしまった……私の、「前世」を。
自動車の喧騒に深夜帯のビル灯り、仕事帰りにコンビニで発泡酒と焼き鳥を買って、家で一杯、お疲れ様。それが私の日常だった。あの日、不慮の事故で死んでしまうまでは。
夏の茹だるような熱帯夜だった。いつもの様に度数の低い発泡酒を買った私は、あまりの暑さに耐えきれず、道中プルタブを押し上げ酒を飲んでいた。
キンキンに冷えた安い果実酒の味と、炭酸の弾ける爽やかな感覚は今でも鮮明に――おっと、話が脱線してしまった。
ともかく酒をちびちび煽りつつ夜道を歩いていた私は、背後から迫る自転車に全くもって気づいていなかったのである。疲労が蓄積してたのもあるだろうし、なによりその自転車が無灯火だったのもあるだろう。
私は背後から盛大にぶつかられて吹っ飛ばされた。それはもうめちゃくちゃ飛んだ。ホームランで場外に吹っ飛んでいく野球ボールくらい飛んだ。道がこれまた運悪く下り坂で、私はゴロゴロと落石の如く坂を転がり落ちていった。多分頭の打ちどころが悪かったのだろう。そこからの記憶が無いのだ。
つまるところ恐らく私はポックリ逝ってしまったのである。そして、生まれ変わってしまった。ハリエット・アルニラム――いや、侯爵家の貴族と婚約関係を結んだ今は、『ハリエット・フォーマルハウト』となる運命である彼女、現・私に。
前世で人気ゲームだった『プレイアデス・レガリア』……略してプレレガ、その登場人物に。
マジかと驚き三十秒。人間もはやどうにもならんと悟った時、案外なんでも受け入れられるものである。
魔法と科学と錬金術、それらが溢れる世界で繰り広げられる学園モノ恋愛RPG。それがプレレガだ。ハリエット・フォーマルハウトは侯爵家に嫁いだ伯爵家の令嬢で、魔術の才能を持っている。フォーマルハウト家は錬金術に秀でた家系だったと記憶しているが、詳しくは分からない。
なぜならハリエット・フォーマルハウトは、サブキャラだからである。
さらさらの蒼い黒髪を長く伸ばし、きらきらした琥珀色の目をした、確かにそれなりの美女である。齢わずか十五で嫁いだという若妻設定もいい。むしろハリエットは私の好きなキャラ、推しといっても過言ではないキャラだった。
ただハリエットは主人公・シャルロッテの幼馴染、そして助言役的なポジションでしかない。ショップで「何を買うの?」って聞いてきたり、チュートリアル画面で説明してくれるタイプのキャラだ。戦闘パーティに組もうにも二周目じゃないとプレイアブル化しなかったり、サブストーリーを読むにも何人かのルートを掛け持ちしなきゃいけなかったりで、結構大変だった覚えがある。
まあそれは置いておいて、だ。私は再三書類に目を移した。相変わらずきっちり綺麗に記されたままの私の名前。その横にそろりと視線をずらす。いわゆる「夫となる欄」に書かれた、私とはまた違う筆致の、その名前。私は恐る恐る顔を上げる。ゆっくりと目線を上げた、先に、その人はいた。かちりと視線が絡まって、私はビビり倒して肩を縮こまらせた。
私と目が合うのを待っていたように、その人は静かに話し始める。あっ、微笑まないでください。顔がいいんで。
「アルニラム嬢、婚約関係を結んで下さったこと、感謝致します」
「こっ、こちらこそ、フォーマルハウト卿」
カチコチになりながらなんとかそう返答すれば、彼はまた優しく微笑んで「これからよろしくお願いします」と言った。顔がよすぎて発狂するかと思った。前途多難である──私は密かに汗を拭った。
アルバート・フォーマルハウト。月光の如く美しい白金の髪、星屑の輝きを持つ銀灰色の瞳を持つ、それはもう素晴らしく顔のいい侯爵家の跡取り息子である。
錬金術を得意とし、海辺に領地を持つ、王室に代々文官として就いている一族の嫡男。温厚で誠実。銀縁のモノクルと臙脂色のクロスタイを着こなす色男。なんとこの顔で現在おそらく齢十六歳。
そして何より、生前の私の最推しである。
何を隠そう、私は生前アルハリガチ勢オタクだったのだ。友人達が皆他の攻略対象キャラに心惹かれる中、私だけは断固としてアルハリを推していた。
誠実で優しいアルバートと一途で可愛いハリエットのカップルは仲睦まじくて可愛くて、私の人生の癒しだったと言っても過言ではないほど尊い。まず二人で並んでるだけでハチャメチャ絵になるんだよね!
そうとは言えども、サブキャラカプにはスチルどころかサブストーリーも与えられなかったので、涙を飲んだ夜は数え切れない訳だけれども。
ハリエットが私だというのはぶっちゃけ解釈違いもいい所だが、それはこの際目を瞑ろう。むしろ私がアルバートとイチャコラすればそれが即ち公式アルハリ! 来ましたよこれ私の時代ですよ。
なにはともあれ、転生しちゃったのは仕方ない。記憶が戻ったタイミングも、最初は最悪じゃねえかと思ったがむしろ結果オーライである。最初から夫婦コース一直線ならアレコレ引っ付くために苦心しなくていい。
つまりこれから好きなだけアルハリ堪能ライフが私を待っている。前世で堪能できなかったアルハリをここで貪ってやる。たとえ嫁の方の自我が百パーセント私だったとしても。
かくして、私は決意した。
原作では見られなかったアルハリの隅々まで、喰らって喰らって喰らい尽くしてやるのだと……!!
・ハリエット・フォーマルハウト
人気恋愛RPG『プレイアデス・レガリア』に登場する、魔術に長けた伯爵令嬢で、主人公の幼馴染。もとい、転生者。
旧姓はアルニラム。